アメリカ海兵隊の歴史<126>マルジャの戦闘〜アフガニスタン戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 2010年2月
  • 実施場所: アフガニスタン、ヘルマンド県マルジャ
  • 作戦の性格: 陸上戦闘(市街地戦)
  • 参加部隊: アメリカ海兵隊、アメリカ陸軍、イギリス陸軍、カナダ陸軍、アフガニスタン治安軍
  • 敵対勢力: マルジャを根城にするタリバン

首都カブールやタリバン誕生の地カンダハールをはじめとするアフガニスタン主要都市から駆逐されたタリバン・アルカイダ武装勢力は一時戦力を喪失したかに見えたが、やがてアフガニスタン各地で息を吹き返し暫定政府やISAF(国際治安支援部隊)に対するゲリラ抵抗活動を開始した。アフガニスタン南部のヘルマンド州では、タリバンの勢力が強くなり2006年夏からイギリス軍を中心としてタリバン制圧作戦が展開されたが、タリバンとの間に激戦が繰り広げられ戦闘は膠着状態に落ちいった。2009年に入ってもテロリスト陣営の武力闘争は継続していたため、タリバンと麻薬密売部族によって支配されていたヘルマンド州マルジャを武装勢力から開放するための、大掛かりな侵攻作戦の構想が浮上した。

モシュタラク作戦と呼ばれたこの作戦では2004年のイラクでのファルージャの戦闘の二の舞にならないように新しい方針が強調された。(新しい方針と言っても、ベトナムやファルージャでアメリカ海兵隊が実施しようとした戦略で、政治指導部や陸軍側が却下した方針であった。)すなわち、敵勢力を最初から武力によって制圧するのではなく、出来る限り説得工作を展開して投降を促し、戦闘を極力抑えて一般市民の被害者が発生することを防止する、という方針であった。そのため2009年から2010年初頭にかけておよそ3,000名のアメリカ軍並びにイギリス軍によってヘルマンド州での説得・懐柔工作が進められた。

2010年2月、依然としてタリバンが支配していたマルジャを開放するためのモシュタラク作戦が発動された。この作戦は、アフガニスタン戦争開始直後のカブール侵攻以来最大の軍事作戦であり、アフガニスタン政府軍・ISAFの連合軍兵力はおよそ15,000が予定され、その中核となったのがアメリカ海兵隊であった。

作戦実施はアフガニスタン政府軍とアフガニスタン国家警察軍が主体となるという形をとったが、実質的にはアメリカ海兵隊諸部隊が中核となり、イギリス陸軍とアメリカ陸軍の部隊も投入して、地上部隊が形成された。それとともにカナダ軍はヘリコプターによる航空攻撃・航空支援に従事することになった。侵攻部隊はマルジャに接近し作戦開始を待った。

2月6日、アメリカ海軍SEALを始めとするアメリカとイギリスの特殊部隊がマルジャに潜入してタリバン指揮官の殺害や投降勧告を実施した。しかしながら、タリバン司令官たちはもちろんのこと多くのタリバン戦闘員やIED(簡易爆発装置)製造者たちそれに麻薬密売人などは断固たる抵抗姿勢を崩さなかった。このマルジャ侵攻前に実施されたISAF特殊部隊による隠密工作によって50名ほどのタリバンが殺害されたが、依然として少なくとも1,000名以上のタリバン・テロリスト武装勢力がマルジャの各所に立て篭もっていた。

2月9日未明、闇に紛れてアメリカ海兵隊第3海兵連隊第1大隊の先遣部隊がオスプレイによってマルジャ中心の交通の要衝付近に着陸侵入に成功した。分散して侵入した第3海兵連隊第1大隊各部隊は、タリバンとの散発的な戦闘を繰り返しながら、マルジャ中心部に前進拠点を築いていき、全部隊が合流するのに成功し前進拠点を強固にした。

一方、第3海兵連隊第6大隊先遣部隊も戦闘工兵部隊により幹線道路沿いの爆発物を処理しながら陸路マルジャ市街の北部から南を目指した。マルジャはタリバンだけでなくテロリスト麻薬密売組織の本拠地でもあったため、アメリカ法務省麻薬取締局捜査官部隊も海兵隊員に同行した。 第3海兵連隊第6大隊は引き続き実施される海兵隊をはじめ多国籍軍とアフガニスタン政府軍による主侵攻作戦に備えて、IEDや地雷の除去それに運河や川の渡河地点に簡易鉄橋を渡す作業をタリバンと戦闘を交えながら実施した。

マルジャ市内に侵攻したそれら先遣部隊の後方には、マルジャから逃走するタリバンをはじめとする武装勢力に備えてアメリカ陸軍第5ストライカー旅団とカナダ軍教官に指導されたアフガニスタン政府軍が、交通の要所要所に警戒網を張って待ち構えるためにマルジャ周辺へと移動を開始した。

通常、アフガニスタン各地の都市における作戦では、多国籍軍による侵攻準備が実施されるとタリバン部隊はIEDや地雷を設置し少数の撹乱グループを残して撤退してしまうのが通例であった。しかし、モシュタルク作戦は、アフガニスタン戦争最大の侵攻作戦であり、オバマ大統領による初めての本格的侵攻作戦であったため、鳴り物入りで作戦実施が伝えられていた。(作戦を喧伝することにより、タリバンやテロリストが逃亡してしまえばそれに越したことはないという期待もあった。)

そのためマルジャでは以前と様相が異なった。タリバン側は一ヶ月以上も前からマルジャ防衛体制を準備した。市内のあちらこちらにトンネルを掘り塹壕を巡らせるとともに、要所要所には強力なIEDを設置し、いたるところに地雷を敷設した。そして、銃火器を含んだ多数の武器と大量の弾薬を用意し、その他の装備や食料も十二分に備蓄した。まさにマルジャはタリバンによって要塞化されていたのである。

そのようなマルジャのまっただ中に突入したアメリカ海兵隊第3海兵連隊第1大隊先遣部隊は予定通り前進拠点を構築し、第3海兵連隊第6大隊先遣隊は幹線沿いの危険物除去作業を進め、主侵攻部隊のマルジャ攻撃に備えた。これらの海兵隊先遣部隊は、時おりタリバン側から銃撃を受けたものの、戦闘はあくまで防戦だけに限定し、主侵攻部隊の到着を待つ態勢を固めた。

そして2月12日までには、アメリカ軍とアフガニスタン政府軍によるマルジャからの逃走ルートに対する警戒網は出来上がり、マルジャに侵攻作戦の主戦力である兵力およそ3,000のアメリカ海兵隊と兵力4,400のアフガニスタン政府軍による侵攻準備が完了した。一方、大規模な戦闘が予想されていたマルジャからは、多数の一般市民が避難を開始し、12日だけでも2,700名を超す避難民でマルジャからヘルマンド州の首都ラシュカル・ガーに向かう道はごった返した。それら避難民に混じって、少なからぬタリバン兵士も他の地域で戦うために脱出したと見られている。

アフガニスタン政府の侵攻作戦認可が手間取り、カルザイ大統領がゴーサインを出したのは2月12日の夜中になってしまった。そこで13日、イギリス軍とアフガニスタン軍を中心とする多国籍軍によるナッド・アリ周辺でのタリバン捜索作戦とともに、モシュタラク作戦の主作戦であるマルジャでのタリバン掃討作戦が開始された。

2月13日の夜明け前、60機以上のオスプレイやヘリコプターに乗り込んだアメリカ海兵隊第3海兵連隊とアフガニスタン政府軍の侵攻部隊がマルジャ市内各所のタリバンによるIEDや地雷敷設地帯後方の海兵隊先遣隊が指定しておいた地点に着地した。侵攻部隊各部隊は、タリバンと武器弾薬それに麻薬や爆発物製造部品などの捜索を進めながら、安全地域(タリバンが潜んでいない地域)を徐々に拡大していった。同時に、路傍に埋められているIEDや対人地雷の除去も戦闘工兵により進められた。13日夕刻までに、侵攻部隊はマルジャ市中心部の主要交差点周辺や政府関係の建物それにマルジャに二つあるバザールのうちの一つを安全地域化するのに成功した。そして、先遣隊が設置した前進拠点に加えて数個の前進拠点を構築した。

しかし14日からの侵攻部隊による捜索作業の進展は、多数のIEDやブービートラップによって阻まれたため遅々として進まなかった。それでも14日には、4万ドル相当の生阿片や3トン以上もの爆薬の原料などを発見した。タリバン側は散発的に攻撃してきたが予想よりは激しくない攻撃であった。しかしながら、タリバンの戦術があたかも海兵隊が訓練をしたかのように巧妙になり激烈ではないにもかかわらず効果的な攻撃を仕掛けてくるようになっていた。これは、長年に渡るアメリカ軍を始めとする多国籍軍との戦闘により多国籍軍側の戦術を学び身につけてきたと考えられた。それとともに、タリバン側にはチェチェニアやイラクなどで数多くの実戦経験を積んだアフガニスタン国外から合流してきた歴戦のテロリスト戦士が数多く含まれているためでもあった。

侵攻軍によるタリバン捕捉そして安全地域拡大速度がスピードアップしなかったのは、IEDやブービートラップだけでなく、タリバンが市民を盾にした位置から狙撃してきたり、バザールのような市民が多数存在する地点を移動したりするために侵攻軍側がタリバンを攻撃しづらかったこともおおきな要因となった。イラク戦争におけるファルージャの戦闘のように多数の市民を巻き添えにしないために、モシュタラク作戦での交戦規定(ROE)はタリバンなどのテロリストに対する攻撃は極めて慎重にテロリストであるとの確認を行った上でなければ実施できないように厳格に定められていた。そのため、タリバンを取り逃がしてしまうという結果も生じてしまった。しかし、現代の対テロリスト掃討戦におけるプロフェッショナリズムには、このようなリスクは織り込み済みであり、それを大前提とした掃討作戦が要求されるのである。

遅々として進まないとはいえ、海兵隊が主導するマルジャ市内の安全地域拡大とタリバン掃討は徐々に進んでいき、主侵攻作戦が開始されて5日めの2月17日には、タリバンとの交戦は少なくなってきた。そして、海兵隊はマルジャ市の二つのバザールと市南西地区を除く地域からタリバン勢力を排除したため、アフガニスタン国家警察と現地で採用した地元の人々の警官によって市内のパトロールを開始した。

その後も海兵隊・アフガニスタン政府軍によるタリバン掃討戦は散発的な戦闘を交えながら継続された。主作戦が開始されて2週間経過した2月27日、市内ほぼ全域のタリバン掃討が一応完了してマルジャ市内を安全地域化してきた作戦部隊はタリバン逃走を阻止するために、マルジャ市を取り囲んでいたアメリカ陸軍ストライカー旅団と合流した。そこで、ヘルマンド州知事がマルジャ市を訪れ、700名近いマルジャ市民が参集した市中央にアフガニスタン国旗を掲揚した。そして、州知事の友人をマルジャ市長に任命し、行政アドバイザーとともにマルジャ市統治のために送り込んだ。

その後も、およそ2,000名の海兵隊員と1,000名のアフガニスタン政府軍がマルジャの治安を維持するために駐留を続けた。それとともに、アフガニスタ国家警察やアフガニスタン対麻薬警察なども、多国籍軍から治安維持任務を引き継ぐべくマルジャでのパトロールを実施した。

主作戦が開始されてからおよそ一月後の3月16日までに戦闘に巻き込まれたマルジャ市民が35名死亡し、37名が負傷した。そして55件の家が破壊された。1,000名ほど存在したと考えられているタリバン側兵士のうち、56名が捕虜となり、120名ほどの戦死が確認された。一方、侵攻軍側戦死者数は、アフガニスタン政府軍15名、イギリス軍13名、そしてアメリカ軍45名であった。

参考文献:

  • Operation Moshtarak: Preparing for the Battle of Marjah, Institute for the Study of War
  • Operation Moshtarak: Taking and Holding Marjah, Institute for the Study of War
  • Operation Moshtarak, DVIDS

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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