“征西府”とは

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“征西府”は、日本の良き伝統精神と重武装永世中立主義に立脚した真の独立国日本の再興を提唱する軍事情報サイトです。真の独立国としての日本の再興を考える一助となるであろう、戦略思想、戦争哲学、軍事外交史などを含めた軍事学的情報や論説と、日本の伝統思想とりわけ武士道と呼称される思想や行動様式に関連する史実や論考、そして日本の安全保障環境に関連する情報分析などを“征西府”は掲載いたします。

“征西府”は伝統的日本精神に則った真の独立国家日本の再興を目指す軍事情報サイトです
“征西府”は伝統的日本精神の復興を目指しますが「右翼」サイトではありません
“征西府”は重武装国家を目指しますが「軍事オタク」サイトではありません
“征西府”は永世中立主義を目ざしますが「観念的平和主義」サイトではありません
“征西府”は他国の軍事的属国からの独立を目指しますが「排外主義」サイトではありません
“征西府”は日米同盟からの離脱を目ざしますが「反米」サイトではありません
“征西府”は中国との領域紛争への対抗策を提示しますが「嫌中」サイトではありません
“征西府”はロシアとの領域紛争への対抗策を提示しますが「嫌露」サイトではありません
“征西府”は日本周辺諸国との軍事衝突回避を目ざしますが「媚中」サイトではありません
“征西府”は伝統的日本精神に則った真の独立国家日本の再興を目指す軍事情報サイトです

“征西府”というサイト名は、南北朝時代に室町幕府に対峙して九州に打ち立てられた南朝側の政権である征西府にちなんで命名したものです。

征西府は後醍醐天皇の皇子で幼少時に征西大将軍として九州に向けて送り出された懐良親王を奉じた菊池武光を筆頭とする九州の南朝側勢力によって1348年に開設され九州の足利幕府側勢力を制圧し1361年から1372年までは九州を完全に支配しました。その当時建国して間もなかった明国では、征西府を日本国の支配政権と認識していました。倭寇の跳梁に手を焼いていた明国皇帝洪武帝は、征西将軍宮懐良親王を“日本国王”に任ずるとともに倭寇の取り締まりを“命ずる”ために洪武帝の国書を携えた使節団を日本国の首都と認識していた大宰府に派遣しました。

建国直後とはいえ中国の地で支配権を確立した明国は強大な国であり、隋・唐以来しばしば中国に使者を派遣してきた日本などは東の海上にある弱小国に過ぎないと認識していた洪武帝の国書は高圧的なものでありました。もちろん懐良親王は明国と日本国の国力の差は十二分に認識しておりましたが、日本国を端から属国視している明国の威圧に屈することなく「日本国は小国といえども確固たる防衛態勢を維持した独立国でありそう易易と大国の意のままにはならない」といった趣旨の理路整然とした返書を送りつけました。懐良親王の反撃にあって洪武帝は激怒したものの、このような毅然とした指導者が率いる日本国に対して武力を発動することはありませんでした。

このような故事より660年ほど経た現在、日本の“リーダー”といわれる人々は日本がアメリカの軍事的属国であり続けることを容認し、アメリカに媚びへつらう姿を国際社会に晒し続けております。このような醜態を消し去るためにも、かつて日本に短い期間とはいえ存在した征西府の毅然たる外交姿勢を思い起こしていただきたいものです。

征西府将軍宮懐良親王(明国側の認識では日本国王“良懐”)が洪武帝に送ったとされている返書

臣聞三皇立極、五帝禪宗、惟中華之有主、豈夷狄而無君? 乾坤浩蕩、非壹主之獨權、宇宙寬洪、作諸邦以分守。蓋天下者、乃天下之天下、非壹人之天下也。臣居遠弱之倭、褊小之國、城池不滿六十、封疆不足三千、尚存知足之心。陛下作中華之主、為萬乘之君、城池數千餘、封疆百萬里、猶有不足之心、常起滅絕之意。夫天發殺機、移星換宿。地發殺機、龍蛇走陸。人發殺機、天地反復。昔堯、舜有德、四海來賓。湯、武施仁、八方奉貢。臣聞天朝有興戰之策、小邦亦有禦敵之圖。論文有孔、孟道德之文章、論武有孫、呉韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將、起精鋭之師、來侵臣境。水澤之地、山海之洲、自有其備、豈肯跪途而奉之乎? 順之未必其生、逆之未必其死。相逢賀蘭山前、聊以博戲、臣何懼哉? 倘君勝臣負、且滿上國之意。設臣勝君負、反作小邦之羞。自古講和為上、罷戰為強、免生靈之塗炭、拯黎庶之艱辛。特遣使臣、敬叩丹陛、惟上國圖之。