アメリカ海兵隊の歴史<123>カンジュガルの戦闘〜アフガニスタン戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 2009年9月8日
  • 実施場所: アフガニスタン・ガンジュガル村
  • 作戦の性格: 治安維持活動・戦闘

2009年9月3日、海兵隊ETT(アフガニスタン軍と行動を共にして教育訓練をするチーム)が指揮してパトロール中のアフガニスタン国軍とアフガニスタン国境警察の合同部隊がガンジュガル集落郊外のダム・ダラ(この集落の住民たちはETTはじめパトロール部隊に友好的であった)を抜けると、近郊の尾根から銃撃を受けた。すると、この地域の長老たちが多国籍軍によって治安を回復して地元のモスクを再建してくれるようETTに請願した。そこで、部隊を整えた上で再びガンジュガルへ戻ってくる約束をして、この日は撤収した。

海兵隊ETT 2-8がアフガニスタン国軍部隊を率いて国境警察部隊とともにガジュガル周辺の状況を把握することとなり、大隊司令部は任務計画の立案を開始した。ETT 2-8が受領した計画によると、ガンジュガルへのパトロール部隊に対する近接支援用の戦闘攻撃機は捻出できないが、周辺の前進基地からの砲撃支援は実施できるということであった。また、緊急事態が発生した場合にはガンジュガル渓谷に隣接する他の渓谷部での作戦に従事中のヘリコプターを5分程度で救援のために出動させるという計画を告げられた。さらに、主として無人偵察機の情報によると、ガンジュガル周辺にはタリバン武装勢力が待ち伏せをしている兆候が伺えるものの、敵兵力は20名程度ということであった。そこで、ETT 2-8はアフガニスタン国軍を率いたパトロール中にタリバンとの戦闘が発生しても撃退可能と判断してパトロールに出発した。パトロール部隊の兵力は海兵隊ETT 2-8(将校・下士官)が14名、アフガニスタン国軍が60名、それにアフガニスタン国境警察が20名であった。このほかアメリカ陸軍偵察小隊が増援部隊としてガンジュガル渓谷まで同行して待機することとなった。

9月8日の早朝3時半頃、パトロール部隊はガンジュガル渓谷に入り陸軍部隊が渓谷入口を封鎖するための陣地を構築し、ETT 2-8と合同部隊はガンジュガルの集落に向かって進んで行った。夜明け前の5時半頃、ガンジュガル集落に接近したパトロール部隊に対して突然機関銃、迫撃砲、RPGそれに小銃による猛烈な銃砲撃が浴びせられた。合同パトロール部隊は反撃態勢をとったものの、前方と左右側面の三方をタリバン武装勢力に取り囲まれてしまったことが判明した。そして、塹壕や建物や高所から攻撃してくる敵勢力は、事前の情報のように20名程度などではなく、少なくとも100名以上おそらくは150名程度と考えられた。

このような緊急事態に直面したETT 2-8は司令部に対して砲撃支援を要請した。ところが、司令部より受け取った事前計画では直ちに砲撃支援が実施されることになっていたのであるが、ISAF司令部によって民間人に対する被害を極小にするためにROE(交戦規定)が変更されたために、ガンジュガルに対する砲撃支援は実施されなかった。ETT 2-8はパトロール部隊の交戦地域は集落から離れており民間人への被害が生じない旨を伝えたが、砲撃は許可にならなかった。また、計画ではすぐに出動可能であったヘリコプターによる支援も、他の渓谷での作戦に出動中とのことで実現しなかった。陸軍砲兵観察部隊や空軍の偵察部隊などからもガンジュガルに対する砲撃支援などの要請がなされたがいずれも却下された。

小火器しか携行していなかったパトロール部隊は、ガジュガル集落前方の低所に位置していたため猛烈な銃火にさらされ続け、苦戦を強いられた。その後も執拗に砲撃支援や航空支援の要請を続けたため、大隊司令部はようやくタリバン武装勢力の規模が大きく支援が必要と判断し砲撃の許可を出したものの、実際の砲撃が開始されたのは1時間ほど経ってからであった。すでにその時までには海兵隊員3名、海軍衛生兵1名それに数名のアフガニスタン国軍兵士が戦死しており、多数の負傷者が出ていた。砲撃が開始されたため、パトロール部隊はより安全な場所に撤退し始めたものの、無線の状態も劣悪であり部隊は分断されてしまい、依然として危険な地帯に取り残されてしまったものも多かった。ガジュガル集落での激しい戦闘の模様を察知した渓谷入口の陸軍部隊は装甲戦闘車両を急行させたが、悪路の斜面で横転してしまい、増援は到達できなかった。

ようやく急行してきた攻撃ヘリコプターによる攻撃が実施されたが、再度の出動は許可にならなかった。救援ヘリコプターも到着して負傷者の後送を始めたが、タリバンのスナイパーによるヘリコプターに対する正確な銃撃が開始されなかなか思うようにヘリコプターがパトロール部隊付近に着陸できない状態が続いた。帰還した攻撃ヘリコプターや救援ヘリコプターの搭乗員もガンジュガルの戦況は極めて厳しいため本格的航空支援が必要な旨を司令部に進言したが、狭小なガンジュガルでの激戦という状況を軽くしか受け止めることができなかった司令部は、航空支援を発令しなかった。

海兵隊のダコタ・メイヤー伍長は部下とともに取り残された海兵隊員やアフガニスタン国軍兵士を救出しようと軽装甲車輌で突撃を企てたが、雨あられと降り注ぐ銃弾や榴弾によって二度撃退させられた。しかし、その間に24名の負傷したアフガニスタン兵士が撤退することができた。そして彼らの軽装甲車輌の砲塔も破壊されメイヤー伍長自身も銃弾を受けてしまった。しかし、なんとしても仲間を救う、たとえ戦死者であっても遺骸はアメリカに連れて帰る、という海兵隊の伝統に忠実なメイヤー伍長たちは、機銃を失った車輌で銃弾の雨の中を突き進み、3名の海兵隊員と海軍衛生兵それにアフガニスタン兵が銃弾を受けて倒れている窪地に到達した。6名の戦死者の武器や衣類はタリバンによって剥ぎ取られ持ち去られていた。メイヤーたちは銃弾の降り注ぐ中をあと二往復して斃れた戦友たちと負傷した数名のアフガニスタン兵士たちを後方へと連れ帰った。ついに装甲車が破壊されると徒歩で銃弾の中を往復して斃れた戦友を連れ戻した。

このような勇敢な活躍によりメイヤー伍長はオバマ大統領から軍人の最高位勲章である「名誉勲章」を授与された。その感状は以下のように結ばれている。

「六時間にわたる戦闘を通して示されたメイヤー伍長の大胆不敵な決断力と勇敢なる戦闘精神は敵の攻撃を著しく分裂させるとともに友軍将兵に勇気を与え戦闘を継続させる支えとなった。彼の確固たる勇気と、絶体絶命の窮地に陥ったアメリカとアフガニスタンの同志たちにたいする不動の献身は、アメリカ海兵隊と合衆国海軍における最高の伝統を顕したものである。」

結局、パトロール部隊が待ち伏せの銃撃を受けてから、銃撃戦は九時間近く継続され、ようやくタリバン武装勢力からの攻撃は収束した。アメリカ・アフガニスタン連合部隊は104名中13名が戦死した。タリバン側はおよそ150名程度の戦力であり、何名戦死したかは定かではない。

この戦闘により、上記の海兵隊メイヤー伍長は、ベトナム戦争以来初めて生きながらにして「名誉勲章」を授与された海兵隊員となった。また、海兵隊ロドリゲス・チャベス二等軍曹と海兵隊ファバヨ大尉は「海軍十字章」(「名誉勲章」に次ぐ高位の勲章)を授与された。一方、数名の司令部要員や上級司令部要員は状況判断段階における過失を譴責された。また、実情にそぐわないROEに対しての公の批判が噴出したり、パトロールの情報漏れの疑いが囁かれたりと、しばらくは様々な調査が実施されたいわくつきの戦闘となった。

参考文献:

  • “We’re pinned down: 4 U.S. Marines die in Afghan ambush.” McClatchy. 2009 September 8.
  • “Deadly Afghan ambush shows perils of ill-supplied deployment.” McClatchy. 2009 September 12.
  • “Heroism in ambush may yield top valor awards.” 2010 August 2. Marine Corps Times.
  • “Ambush survivor up for Medal of Honor.” 2010 November 8. Navy Times.
  • “Marines receive Navy Cross for Ganjgal heroics.” 2011 June 10. Marine Corps Times.
  • Battle of Ganjgal Valley with Major General Brown Introduction. TBOC Sims Directorate. US Army.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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