アメリカ海兵隊の歴史<121>ナウ・ザッドの戦闘〜アフガニスタン戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 2008年3月〜現在
  • 実施場所: アフガニスタン・ヘルマンド州
  • 作戦の性格: 陸上戦闘・治安維持

2001年にアフガニスタン戦争が勃発して以降も、ヘルマンド州北部のナウ・ザッドとその周辺地域は比較的平穏な状態が続いていた。アヘン・ケシ栽培が地域経済を支えていたナウ・ザッドには国連や国際団体の支援によって井戸や診療所が建設された。

2006年になると、アフガニスタンでの「不朽の自由作戦」を主導するアメリカ軍から国連安保理決議1386号(2001年12月20日)によって発足した国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタン南部の治安維持支援活動を指揮することになり、イギリス軍部隊がヘルマンド州に進駐した。入れ違いに、イラクに兵力を集中させるべく、アメリカ軍のアフガニスタンでの兵力は縮小された。それに呼応するかのように、ヘルマンド州でのタリバン勢力の活動が活発化してきた。

ナウ・ザッド黙示録

これまで平穏であったナウ・ザッドでもタリバンが出現しだしたため、ヘルマンド州知事はイギリス軍に対してナウ・ザッドの治安維持を要請した。ヘルマンド州に展開しているイギリス軍部隊はそれほど大きな兵力ではなかったため、イギリス軍とグルカ兵からなる分遣隊がナウ・ザッドの治安維持を担当した。しかし、2006年後半から2007年にかけてタリバンとの間で激しい戦闘が繰り返され、国際機関の援助要員はもとより1万名ほどの住民も危険なナウ・ザッドから去ってしまった。2008年にはいると、ナウ・ザッドの小規模なISAFイギリス軍部隊を増強するためにエストニア軍部隊が到着したが、「ナウ・ザッド黙示録」と呼ばれるほどの惨状を呈してしまったナウ・ザッドの治安回復は進まなかった。

そこで、2008年3月、兵力200名ほどのアメリカ海兵隊部隊(第7海兵連隊第2大隊Fox中隊: Fox 2/7)がナウ・ザッドに投入された。海兵隊部隊の任務は地元の警察部隊を訓練して、ISAFの治安維持部隊とともにナウ・ザッドの治安を回復し維持することであった。しかし、海兵隊が到着したナウ・ザッドからはすでに警察部隊は逃亡しており、廃墟となった街ではタリバン勢力によるISAF部隊に対する攻撃が頻発していた。そのため、海兵隊Fox 2/7の任務は、タリバンとの本格的な戦闘になってしまい、Fox 2/7がナウ・ザッドに留まった半年近くは毎日のように銃撃戦が繰り返された。

その後、Fox 2/7は第8海兵旅団第3大隊Lima中隊(Lima 3/8)と交替しナウ・ザッドを去った。Fox 2/7とともにそれまでナウ・ザッドの治安維持任務に携わって来たイギリス軍部隊とエストニア軍部隊もナウ・ザッドから他の地域へと移動したため、ナウ・ザッドの治安維持はLima 3/8の海兵隊員だけが担うこととなった。数ヶ月間は“日常”となっていた海兵隊のパトロールに対する武装勢力の発砲に端を発する銃撃戦が繰り返された。しかし、武装勢力が支配している地域を攻撃し武装勢力を駆逐することは出来なかった。

2009年4月3日、Lima 3/8は多数の迫撃砲を結集するとともに戦闘攻撃機の支援をえて武装勢力地域に対する総攻撃を決行した。武装勢力が立て篭もる建物に対して3,236発の迫撃砲弾を打ち込むとともに、攻撃機の近接支援を得たLima 3/8が前進して武装勢力支配地域を数百メートル後退させるのに成功した。未だに武装勢力を制圧するには至らなかったが、武装勢力と海兵隊の間に大きな緩衝地帯ができたことにより、海兵隊側は兵力を増強して攻撃準備をするだけの地域を手にすることとなった。

Operation Eastern Resolve-II

引き続いてLima 3/8が第3海兵旅団第2大隊Golf中隊(Golf 2/3)と交替すると、Golf 2/3はナウ・ザッドのタリバン武装勢力に揺さぶりをかけて撃破するために、海兵隊とアフガニスタン国軍からの増援を得てナウ・ザッド渓谷一帯の戦略要地であるDahanehに立てこもっていたタリバン武装勢力を掃討する作戦、Eastern Resolve-II、を発動した。

2009年8月12日、海兵隊員400名とアフガニスタン国軍100名からなる連合軍は、ナウ・ザッドから陸路でDahanehに向かう部隊と、海兵隊CH-53大型輸送ヘリコプター3機に分乗してDahanehのタリバン陣営の後方に向かう部隊とに分かれて出動した。日の出前、海兵隊ハリアー攻撃機がDahanehのタリバン陣地に照明弾を投下するのと呼応して連合軍側の銃砲撃が開始された。タリバン側は、地の利を生かして頑強に抵抗を続け、激しい銃撃戦を中心とした戦闘は翌日まで続いた。連合軍側はアメリカ空軍A-10対地攻撃機によりDahaneh周辺のタリバン陣地に対して爆撃を加えるとともに、Dahaneh内のタリバンの拠点をジリジリと制圧していった。タリバン側はナイト・ビジョンを持たないため、海兵隊は3日目の夜明け前に総攻撃を実施し、タリバンの抵抗の中心となっていた建物やタワーなどを吹き飛ばし、主要兵器を破壊した。その後も、街の所々に立てこもり抵抗を続けるタリバン武装勢力を駆逐する戦闘は続き、ようやく作戦4日目の8月15日、タリバン武装勢力はDahanehとその周辺から駆逐された。これで、4年間にわたってタリバンによって支配されていたDahanehはタリバンの手から開放された。

連合軍側がDahanehをタリバンの手から奪いとったため、ナウ・ザッドに対する武器弾薬それにタリバン兵士の補給が困難になった。そのため、ナウ・ザッドでのタリバン武装勢力の抵抗は弱体化していった。

コブラの怒り作戦

2009年12月4日、およそ900名のアメリカ海兵隊、100名のイギリス軍、それに150名のアフガニスタン国軍を投入して、大規模なナウ・ザッド渓谷襲撃作戦「コブラの怒り」を実施した。陸上からの侵攻に加えて、第4海兵旅団第3大隊と海兵隊武装偵察部隊から形成された襲撃任務部隊はCH-53大型輸送ヘリコプターとV-22オスプレイに分乗して、タリバンの拠点に空から接近し強行奇襲を敢行してタリバン武装勢力を撃破した。この戦闘は、V−22オスプレイがアフガニスタンでの戦闘任務で最初に用いられた事例となった。渓谷のあちこちに立て篭もったり、仕掛け爆弾を設置したりしてタリバン側も抵抗を続けたものの、連合軍の攻撃が開始されて3日目には大きな衝突はなくなった。

この総攻撃によって、ナウ・ザッド中心地域からタリバン武装勢力が一掃された。とりわけナウ・ザッドの中心であるナウ・ザッド・バザールを海兵隊が完全に制圧したため、ISAFはナウ・ザッド制圧作戦の成功を宣言した。そのため、ナウ・ザッドに一般市民たちが戻り始めた。しかし、その後も現在に至るまでナウ・ザッド渓谷の所々にタリバンが抵抗拠点を築いたり、パトロール部隊を銃撃したりすることにより小競り合いが散発しており、ナウ・ザッド周辺から完全にタリバンを駆逐するには至っていない。

参考文献:

  • Rayment, Sean. 2008. Into the killing zone. London: Constable.
  • Seth G. Jones. 2010. In the Graveyard of Empires: America’s War in Afghanistan. W. W. Norton & Company.
  • Tomsen, Peter. 2011. The Wars of Afghanistan: Messianic Terrorism, Tribal Conflicts, and the Failures of Great Powers. New York: Public Affairs.
  • Hastings, Michael. 2012. The Operators: The Wild and Terrifying Inside Story of America’s War in Afghanistan. Plume.
  • Tapper, Jake. 2012. The Outpost: An Untold Story of American Valor. Little, Brown and Company.
  • Kilcullen, David. 2013. Out of the Mountains: The Coming Age of the Urban Guerrilla. Oxford University Press.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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