アメリカ海兵隊の歴史<120>第2次ラマディの戦闘〜イラク戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 2006年6月
  • 実施場所: イラク、アル・アンバー県、ラマディ
  • 作戦の性格: 地上(市街地)戦闘、治安維持

バグダットから110kmほど西に位置する人口およそ50万ほどの大都市ラマディは、2004年11月のファルージャ掃討戦以降イラク・アルカイダを主力とするイスラム過激武装勢力の拠点となっていた。ラマディ市内の数地点に海兵隊が前哨陣地を築いて警戒監視にあたっていたものの、市内の大半はテロリスト勢力が支配を続けていた。2006年に入っても、大規模な戦闘は発生しなかったものの、海兵隊前哨部隊のパトロール隊と武装勢力の間の武力衝突は日常的に生じており、ラマディは無法地帯の様相を呈していた。

2006年4月17日、ザルカウィ・グループが主導する武装勢力がラマディ市内の海兵隊前哨陣地(3ヶ所)とラマディ郊外のキャンプ・ラマディをほぼ同時に攻撃した。とりわけ、ヴァージニア・ポストと呼ばれていた海兵隊前哨陣地に対しては、強力な爆薬を積んだ自爆車輌が突入するとともに小火器やRPGの集中銃撃が加えられた。突然、武装勢力による大規模攻撃を加えられた第8海兵旅団第3大隊リマ中隊は猛然と反撃を開始し、数十名のジハディストを葬り去り、撃退するのに成功した。この日の一斉攻撃の模様は、ムジャーヒディーン諮問評議会によってインターネットで放映された

極めて小規模な海兵隊前哨部隊しか配置されていなかったために、アル・アンバー県の首都という重要都市でありながらラマディではザルカウィ・グループをはじめとするイスラム過激派の勢力を駆逐するどころか弱体化することすら出来ない状態が続いていた。そこで、2006年6月に入ると、アメリカ軍は本腰を入れてラマディの武装勢力壊滅させるために、第1陸軍機甲師団から抽出された第1旅団戦闘チームをラマディに派遣して海兵隊部隊を増強した。

同時に、ラマディの市民に対して米軍によるラマディ掃討戦が実施される旨の広報・警告活動が展開された。ファルージャの二の舞いになることをラマディ市民は恐れたが、アメリカ軍側もファルージャの再現を恐れたため、部隊は増強されたとはいえ、激しい空爆や砲撃などは当面差し控えて時間をかけて新しい前進陣地を構築しながらジワジワとラマディ市内に浸透していく方針がとられた。

7月に入ると、比較的“おとなしい”ラマディ市内掃討戦を続けてきた海兵隊ならびに第1旅団戦闘チームの市内パトロール部隊に対して武装勢力によるヒットアンドラン攻撃(路地や建物からライフルやRPGを発射すると同時に姿をくらましてしまう“盲撃ち戦法”)が激化するとともに、スナイパーによる極めて正確な狙撃も頻発するようになった。また市内各地には多数のIED(簡易爆発装置)が設置され、アメリカ海兵隊とアメリカ陸軍部隊による市内掃討作戦は暗礁に乗り上げてしまった。

第8海兵旅団第3大隊は、ラマディ市政府センタービルをラマディ市内掃討戦の前進攻撃拠点としていたが、武装勢力は政府センター周辺の建物から政府センターに対して断続的に猛攻を加え、海兵隊部隊の作戦行動は大きく阻害された。そこで海兵隊は、政府センター周辺からのヒットアンドラン攻撃を封圧するために政府センター周辺の建物を全て破壊して更地にしてしまった。

しかしながら、武装勢力は市内に聳えるラマディ・ゼネラル・ホスピタルから周囲の海兵隊や陸軍のパトロール部隊に対する銃撃やロケット弾攻撃を繰り返した。ラマディ・ゼネラル・ホスピタルは250床の総合病院で女性や子供も収容されていると考えられていたため、病院内や病院屋上から武装勢力が狙撃を繰り返していたものの、病院に対する攻撃は差し控えられていた。

しかし、病院からの攻撃が激しさを増してきたため、ついに第8海兵旅団第3大隊が病院に突入することとなった。ただし、民間人が病院に収容されている可能性も排除できなかったため、病院に対する事前の爆撃や砲撃それに突入作戦中の航空機による近接支援攻撃は予定されなかった。7月5日、海兵隊突入部隊が7階建ての病院に突入し仕掛け爆弾を爆破しつつ多数の武装勢力を殺害して病院を制圧した。病院内には民間人の収容者は存在せず、武装勢力に拉致されたイラク警察部隊員の斬首された死体などが転がっており、大量の小火器や弾薬を発見・押収した。

7月から8月にかけて、ラマディ市内に分散し抵抗を続ける武装勢力を発見しては捕縛あるいは殺害するサーチ・アンド・デストロイ作戦が第8海兵旅団第3大隊と陸軍第1旅団戦闘チームより実施された。9月には、第8海兵旅団第3大隊の交替部隊として第6海兵旅団第1大隊が到着した。それ以降11月中旬まで、陸軍第1旅団戦闘チームと第6海兵旅団第1大隊によるサーチ・アンド・デストロイ作戦が地道に続けられた。そして11月13日から15日にかけて、第6海兵旅団第1大隊と陸軍第一旅団戦闘チームは最後まで抵抗を続けていた武装勢力に対する総攻撃を実施した。米軍側にも多数の死傷者が出る激戦となったため、航空機による武装勢力最後の拠点に対する攻撃も実施されたが、その航空攻撃により女性と子供を含む30名の民間人が死亡するという事件も発生してしまった。

6月から11月まで続いたラマディ市内の戦闘で、アメリカ海兵隊員とアメリカ陸軍兵士は合わせて80名が戦死し200名以上が負傷した。一方、750名以上の武装勢力が殺害された。11月の戦闘によりほとんどの武装勢力は駆逐され、それ以降は第15海兵遠征隊が増強されておよそ4,000名の海兵隊員によってラマディの治安維持活動実施された。2007年以降は、海兵隊からアメリカ陸軍がラマディの治安維持を引き継いだ。

参考文献:

  • Lt.Col. Kenneth W. Estes. 2011. Into The Fray: U.S. Marines In Iraq, 2004-2005. Washington D.C.: History Division, USMC.
  • Lt.Col. Kenneth W. Estes. 2009. U.S. Marine Corps Operations In Iraq, 2003-2006. Quantico, Virginia: History Division Marine Corps University.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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