アメリカ海兵隊の歴史<116>第二次ファルージャの戦闘〜イラク戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 2003年11月7日〜12月23日
  • 実施場所: イラク・ファルージャ
  • 作戦の性格: 市街地戦
  • 参加部隊: 
    • 第Ⅰ海兵遠征軍・第一連隊戦闘団(RCT-1)
    • 第七連隊戦闘団(RCT-7)
    • アメリカ陸軍・第一騎兵師団第二旅団
    • イラク国防軍特殊部隊大隊、イラク第36コマンドウ大隊
    • イラク対テロ部隊、イラク内務省緊急対応部隊
    • イギリス軍・ブラックウォッチ連隊第一大隊、SBS、空軍攻撃機部隊

元の木阿弥となったファルージャ

2004年5月10日、アメリカ海兵隊第1連隊戦闘団はファルージャから完全に撤収した。それ以降第1海兵師団のあらゆる部隊はファルージャ市内に入ることはなく、ファルージャ郊外の前進基地、キャンプ・ファルージャ、を拠点にファルージャ市周辺の幹線道路などのパトロールに従事した。

ファルージャ市内の治安維持と武装勢力の摘発は、海兵隊から任務を移譲された(すなわちアメリカ軍が給与や経費を支払う)元バース党イラク軍将校ラティフ大佐が取り仕切るファルージャ旅団が請け負った。ただし、ファルージャ市中心からユーフラテス川をわたった西側半島部一角では、第1海兵師団の掃討作戦が開始される以前のアメリカ陸軍第82空挺師団が駐屯していた時期から、バグダットで構築されつつある新生イラク政府に忠誠を誓うスレイマン大佐が率いるイラク人によるイラク国家警備隊によって治安が維持されていた。

海兵隊がファルージャに足を踏み入れなくなると同時に、ファルージャ市街には「臆病な海兵隊を叩きだした!」「悪魔の海兵隊に勝利した!」と勝利の言葉をわめきながらAK自動小銃やRPGを振りかざした武装勢力が闊歩し始めた。ファルージャ旅団は武装勢力を取り締まるどころか武装勢力と一緒に市内に検問所を設置し警戒を始めた。

事態は更に悪化した。海兵隊が去って数日後、4月半ばにバクダッドを旅行中に行方不明になっていたアメリカ人青年が、インターネット上でテロリストのザルカウィのホームページに映しだされた。囚人服を着せられ痩せこけた青年の後ろにはAK自動小銃を手にした黒覆面のテロリストたちが立っていた。ザルカウィは、アブグレイブ刑務所でのイラク人捕虜に対する虐待への報復と宣言して、青年にナイフを突き立てた。そして青年は首を切断された。

かねてより海兵隊とCIAはザルカウィのアジトはファルージャ市内のジョラン地区と睨んでいた。そこで第1海兵師団司令官マティス少将はファルージャ連隊のラティフ大佐に海兵隊と共同でジョラン地区を徹底捜索してテロリストの頭目ザルカウィを検挙するプランを提案した。しかし、ラティフとファルージャ市の長老たちはファルージャ市内には外国人テロリストや武装勢力などはいない、と提案を拒絶した。ファルージャの長老たちは、海兵隊さえファルージャに入らなければ平和は保てると言い張り、話し合いは平行線をたどった。

5月下旬までにはファルージャ市内には続々とテロリスト武装集団が流入し、イスラム原理主義を看板にする怪しげな導師たちが武装集団とともにファルージャを支配していた。ファルージャ旅団は武装集団や犯罪者を取り締まろうとせず、イスラム原理主義に背いた市民は鞭打たれたり場合によっては処刑されもした。

5月末には、再びザルカウィからアルジャジーラにビデオが送りつけられてきた。ビデオには誘拐されていた韓国企業の韓国人通訳が映しだされた。韓国人通訳は泣き叫びながらイラクに駐留している韓国軍建設大隊の撤収を懇願した。アルジャジーラでのこのシーンの放映を受けて韓国世論は激高したが韓国政府は要求を拒絶した。するとアルジャジーラにザルカウィから韓国人通訳の首が切り取られる模様を写したビデオが届けられた。

第1海兵師団はファルージャ旅団のラティフ大佐にしばしば圧力をかけたが、アメリカ人との窓口になっているラティフ大佐の拠点に対してテロリスト武装集団は迫撃砲攻撃を仕掛けた。それ以降、ラティフ大佐はファルージャ旅団に対する影響力を全く失ってしまった。そして、米軍からファルージャ旅団に支給されている資金の一部はテロリスト武装集団に渡るようになった。このような状況下で、ファルージャ市の“頭目”にのし上がったのは元密輸業者であったジャナビという過激なイスラム導師であった。

イラク国家警備隊スレイマン大佐虐殺事件

6月には、連合国暫定当局からイラクの主権がイラク人の手に戻され、ガジ・ヤワル大統領とアヤド・アラウィ首相を中心とするイラク暫定政府が樹立され、翌年1月に総選挙をする約束をした。イラク新政権を援助するための連合国暫定当局代表はブレマー特使からネグロポンテ大使に交替した。連合軍の指揮をとっていたアメリカ中央軍司令官もアビザイド大将からケーシー大将に交替した。また第7統合任務部隊司令官もサンチェス中将からメッツ中将に替わった。

海兵隊も8月には人事異動が予定されており、第Ⅰ海兵遠征軍司令官コンウェイ中将はバグダッドでの調整作業に追われ、第1海兵師団司令官マティス少将と第1連隊戦闘団司令官トゥーラン大佐は、唯一信頼できるイラク人軍人であるイラク国家警備隊のスレイマン大佐と接触して、なんとかファルージャの状況を好転させるべく最後の工作をしていた。しかし、スレイマン大佐のイラク国家警備隊はファルージャ旅団に何の影響も与えることは出来なかったし、ファルージャはテロリスト、イスラム過激派武装勢力、犯罪者集団を取り仕切るジャナビ導師や過激派イスラム原理主義者が支配していた。

そこで、トゥーラン海兵大佐はスレイマン大佐にジャナビと海兵隊が交渉できるように工作するよう依頼し、スレイマン大佐や部下のイラク国家警備隊はジャナビ導師の一味と接触を開始した。しかし、ジャナビや原理主義者それに武装勢力はスレイマン大佐とイラク国家警備隊を「アメリカの手先となった裏切り者」呼ばわりを始めた。そして、7月中旬にはスレイマン大佐のボディガードが誘拐され殺害されてしまった。それでも、新生イラク国家に忠誠を誓っていた実直な軍人のスレイマン大佐は、アメリカに追従するのではなく海兵隊との協働が必要であるとの信念を曲げず、イスラム原理主義テロリストや武装勢力の脅しに屈することなく海兵隊第1連隊戦闘団のトゥーラン大佐との接触を保った。

8月9日、スレイマン大佐の部下の将校がジャナビと並んで武装勢力の頭目にのし上がっていたハディッドの手下に拉致されてファルージャ市中心部にあるマカディー・モスクに連れ込まれてしまった。ジャナビからモスクで話し合いに応ずるとの連絡を受け、部下を奪い返すためにモスクに赴いたスレイマン大佐も拘束されてしまった。そしてスレイマン大佐の腹心のジャッバール中佐も誘拐されてしまい、ハディッドからスレイマン大佐の家族とトゥーラン海兵大佐にスレイマン大佐たちを誘拐した旨の連絡があった。

第1連隊戦闘団のトゥーラン大佐はすぐさま海兵隊救援部隊を組織するとともに、ファルージャ市幹部やファルージャ旅団に対して救出要請をしたが、すぐに開放されるだろうとの返事があるのみで全く動こうとはしなかった。海兵隊救援部隊は、スレイマン大佐をはじめとするイラク国家警備隊幹部たちがどこで監禁されているのか特定できないため、ファルージャ市内に突入することは出来ず、情勢を見守った。

ところが数日後、虐殺されたスレイマン大佐の遺体がファルージャ市内のモスク前の路上に転がっているのが発見された。そして、拷問を受けているスレイマン大佐が自分は海兵隊のスパイであったと告白させられたあとハディドが首を切り取る模様を収めたビデオと、スレイマン大佐はアメリカの手先だったと告白し命乞いをするジャッバール中佐のビデオがアルジャジーラに届き放映された。

激怒したトゥーラン海兵大佐は、ファルージャ旅団やファルージャ警察の幹部を呼び出すと、第1海兵師団はファルージャの武装勢力を壊滅させるため攻撃を実施する旨の警告をした。もちろんこれはトゥーラン大佐の独断であったため第Ⅰ海兵遠征軍から派遣されていた参謀たちは前線部隊指揮官の独断に当惑したが、アメリカ海兵隊にはトゥーラン大佐に反対するものはいなかった。

CIAの得た情報でも、スレイマン大佐やイラク国家警備隊幹部の誘拐にはファルージャ旅団も手を貸していたことが判明し、もはやファルージャ旅団を使ってファルージャの治安を回復しようという毒を以て毒を制する構想は100%誤りであったことが明らかになった。マティス海兵大佐はファルージャ旅団を皆殺しにするとの決意を表明し、独断で戦車部隊を先頭にしたファルージャ侵攻部隊を武装勢力が待ち受けるファルージャ市クィーンズ地区に突入させ、武装勢力と海兵隊の銃砲撃戦が始まった。

ファルージャで戦闘が開始されたとの情報を聞き驚いたイラク暫定政府のアラウィ首相は、アメリカ軍による攻撃は認めない旨言明し、イラク暫定政府は第Ⅰ海兵遠征軍に対して直ちに第1海兵師団によるファルージャ攻撃を停止させるよう要求した。第Ⅰ海兵遠征軍司令部は、トゥーラン大佐の判断に賛成ではあったが、公式にイラク暫定政府から抗議と攻撃中止の要請があった以上、第1海兵師団に攻撃中止命令を発せざるを得なかった。数時間の砲撃の後、正式な中止命令を受けたトゥーラン大佐は、攻撃部隊を撤収させた。

ファルージャ総攻撃準備

夏が終わるまでに第Ⅰ海兵遠征軍司令官はコンウェイ中将からサットラー中将に、第1海兵師団司令官はマティス少将からナトンスキー少将にそれぞれ交替した。そしてこれまでイラクに駐留していた第1海兵師団の各大隊も交替の時期となった。

9月7日、トゥーラン大佐指揮下の大隊の一つである2/1大隊が引き上げ準備をしていたところに武装集団の自爆テロリストが突っ込んで海兵隊員7名が戦死した。翌日トゥーラン大佐はファルージャの武装勢力に対して報復攻撃を独断で実施した。そして、9月半ば、いよいよトゥーラン大佐自身もファルージャからアメリカに引き上げる日が訪れた。

トゥーラン大佐が第一連隊戦闘団(RCT-1)の指揮をシャップ大佐に引き継いでファルージャを去った数時間後、武装勢力の発射した迫撃砲弾が連隊本部を直撃し幹部将校が戦死した。

攻撃再開しかファルージャの治安を回復する手段はないと決心していた第Ⅰ海兵遠征軍司令官サットラー中将は、ファルージャ攻略戦争計画の立案を急いだ。エイモス少将が率いる海兵隊航空部隊の戦力と、クラムリック准将が率いる海兵隊兵站部隊の戦力はファルージャ総攻撃にとって十分な水準を維持しているとサットラー中将は判断した。

マティス少将の後任の第1海兵師団司令官ナトンスキー少将は、4月に実施されたファルージャ攻撃方針を修正して、今回はファルージャの北側から一気に武装勢力を殲滅する方策を立案した。そのためには、攻撃開始以前にファルージャ市内から一般市民を退去させることと、強力な火力を持った地上戦闘部隊が必要であった。武装勢力殲滅戦には第1連隊戦闘団(第1海兵連隊第3大隊、第5海兵連隊第3大隊)と第7連隊戦闘団(第8海兵連隊第1大隊、第3海兵連隊第1大隊)を投入する予定であったがこれらの精鋭部隊を更に強化したかった。そこで、第Ⅰ海兵遠征軍司令官サットラー中将は統合任務部隊司令官メッツ中将にナトンスキー少将の計画を示して陸上戦闘部隊の増援を要請した。

メッツ中将は市街地戦のエキスパート部隊である陸軍タスクフォース2-7と陸軍タスクフォース2-2をそれぞれ海兵隊第1連隊戦闘団と第7連隊戦闘団に編入するとともに、殲滅攻撃中のファルージャ周辺包囲のためにアメリカ陸軍第1騎兵師団第2旅団(機械化旅団)とイギリス陸軍ブラック・ウォッチ連隊第1大隊を投入することにした。

これらアメリカ海兵隊、アメリカ陸軍、イギリス陸軍の陸上戦闘部隊に加えて、あくまでもイラク人によるファルージャに巣食う武装勢力と外国テロリスト集団の掃討戦という名目を明示するために、イラク国家警備隊特殊作戦大隊、イラクコマンドウ大隊、イラク対テロ部隊、それにイラク陸軍から5個大隊が投入され、海兵隊攻撃部隊に付属して作戦に参加することとなった。半年前の4月にはほとんど使い物にならなかったイラク人の部隊も、訓練が行き届いて戦闘準備は完了しており士気も高かった。

このようにして、第1海兵師団は強力な陸上戦闘部隊と航空部隊それに兵站部隊から構成されるファルージャ攻撃戦力を確保した。次の課題は、できるだけ多数のファルージャの一般市民を総攻撃開始以前にファルージャから退去させるという難作業であった。イラク軍将校や米軍情報関係者たちはファルージャ市民に対して連合軍による総攻撃が開始される日が近づいていることを広報して回り、戦闘に巻き込まれないためにファルージャ市から避難することを勧告した。そして、4月と違って絶対に停戦は実施されないことや、テロリストや武装勢力の拠点には徹底的な空爆攻撃をするといった“脅し”的宣伝も連日行った。

その結果、多くのファルージャ市民は爆撃や戦闘の巻き添えになることを恐れて、続々とファルージャ市から出て行った。無人偵察機の映像には、市民の庭先の洗濯物が見当たらなくなってきている状況が映し出された。10月末までには以前は20万近い人口であったファルージャ市の人口は、3万名以下になったと見積もられた。そして、11月に入るとファルージャは、中心街でも人影も車も殆ど見当たらない見捨てられた街の様相を呈していた。

武装勢力の聖戦準備

4月の戦闘の際にはおよそ1,500〜2,000名ほどと見積もられたファルージャの武装勢力は、半年の間に外国人ムジャヒディーンやテロリストが続々と加わり、11月にはプロの戦士だけでも1,000名以上、その他の武装勢力を加えると少なくとも3,000名から4,000名はファルージャ市内に立てこもっていると推測された。

武装勢力の主たる兵器はイラク国内に数百万丁は存在するAK47自動小銃、RPG、その他の小火器であり、迷路のような路地や建物からから飛び出してライフルやRPGをパトロール部隊にぶっ放すと同時に路地や建物に姿を消してしまうというヒットアンドラン戦法が主流と考えられた。また、武装勢力には少なからぬ数の腕の確かなスナイパーがおり、長距離から海兵隊員たちを一人ひとり狙い撃ちにすることも、4月の経験から十二分に予測できた。これらの伝統的ゲリラ戦士にくわえて厄介なのが、建物内に陣取って突入して来る海兵隊員に対して自殺的攻撃を仕掛けて殉教者として戦死することを熱望する殉教者戦士(martyrs)たちの存在であった。このような殉教者戦法のために“要塞”として用いることが出来る建物はおよそ4万戸そして部屋数は40万室もあった。とりわけ強力な要塞となりうるモスクがファルージャ市内には多数存在した。

なんといっても海兵隊にとって最も危険と考えられたのがIED(簡易爆発装置)であった。一方的停戦とファルージャ旅団への権限移譲のために、武装集団は大量のIEDを作成し、それらを様々な場所に仕掛けるための十二分な時間を手に入れていた。IEDは通常の小型のものからプロパンガスタンクを利用した大型のものまで様々であった。道脇に埋められていたり、建物の柱や、電柱に仕掛けられていたり、マンホール蓋に取り付けられていたり、動物の死骸に埋め込まれていたりと多種多様の用いられ方をする。いずれにせよ、IEDの側を海兵隊員や車輌が通りかかるとリモートコントロール(携帯電話など)のスイッチを入れて爆発させ、海兵隊員や車輌を吹き飛ばすのである。

ファルージャ市内全域に、テロリストの“要塞”化した建物や部屋、それに狙撃スポットが散在しており、要所要所には塹壕やバリケードが築かれ、小火器や手榴弾なども様々な隠し場所に用意してあり武装集団戦士たちはファルージャ市内どこでも武器弾薬を調達することができるようになっていた。

また、海兵隊が掴んだ情報によると、武装勢力はAK-47やRPGといったテロリスト御用達の小火器のみならず、M-14バトルライフル、M-16アサルトライフルといった米軍の小銃を数多く揃えているだけでなく、米軍や多国籍軍のユニフォームやボディー・アーマーそれにヘルメットなども多数装備しているらしく、そのような装備を身につけて奇襲攻撃を仕掛けてくる可能性も否定できなかった。

「幽霊の憤怒」作戦

2004年11月2日に実施されたアメリカ大統領選挙でジョージ・W・ブッシュが辛くも民主党のジョン・ケリーを破り、共和党ブッシュ政権継続が確実になった。それに安堵したイラク暫定政府のアラウィ首相は、シーア派が主導するイラク暫定政府にとって厄介な存在であるスンニ派と原理主義テロリストの巣窟であるファルージャの始末を多国籍軍に要請するとともにイラク軍に命令した。ファルージャを攻囲し武装勢力を殲滅するのは上述したアメリカ軍、イラク軍、イギリス軍連合部隊である。今回のファルージャ総攻撃は「幽霊の憤怒」作戦(イラク軍では「新しき夜明け」)と命名され、作戦開始D-Dayは11月7日夜(バグダッド時間19時)と決定された。

攻撃軍を主導するアメリカ海兵隊第1海兵師団司令官ナトンスキー少将の作戦は、ファルージャ西方のユーフラテス川対岸地域、ファルージャ市南縁郊外、東縁郊外に強力な機甲部隊(米陸軍、イギリス軍)を配置し、ファルージャ市北縁に並列に配置した4個歩兵大隊(海兵隊、イラク軍)と2個機械化大隊(米陸軍、イラク軍)で一気にファルージャ市内に突入し、強大な火力を投入して武装勢力を殲滅しながら、厄介な建物は戦車により建物自体を踏み潰す力攻めにより、武装勢力を市街南部に追い詰め、南縁郊外で待ち受ける機甲部隊の火力によって殲滅する、というものであった。もちろん、歩兵部隊や機械化部隊による攻撃と連携して海兵隊F/A-18戦闘攻撃機や空軍AC-130ガンシップ(4月は“スレイヤー(殺し屋)”というコードネームであったが、あまりに露骨なネーミングとの批判もあったため今回は“バッシャー(攻撃者)”に変更した)による近接航空支援の準備も完了していた。

ファルージャ市街攻撃軍

  • 1: 海兵隊第一連隊戦闘団(RCT-1)
    • 1-a: アメリカ海兵隊第1海兵師団、第1海兵連隊第3大隊
      • 第Ⅰ海兵遠征軍の陸上戦闘部隊として、カリフォルニア州のキャンプ・ペンドルトンを本拠地にしている部隊。Thundering Thirdと呼ばれている。
    • 1-b: アメリカ海兵隊第1海兵師団、第5海兵連隊第3大隊
      • 第Ⅰ海兵遠征軍の陸上戦闘部隊として、カリフォルニア州のキャンプ・ペンドルトンを本拠地にしている部隊。Consummate Professionalsと呼ばれている。
    • 1-c: アメリカ陸軍第1騎兵師団、第3旅団第7騎兵連隊第2大隊(タスクフォース2-7)
      • 第1騎兵師団はアメリカ陸軍最大規模の師団でテキサス州フォート・フッドを本拠地にしている。第2大隊、タスクフォース2-7、はGhost Battalionと呼ばれ、市街地戦のエキスパート部隊。
    • 1-d: イラク陸軍第1旅団第4大隊
    • 1-e: イラク陸軍第3旅団第6大隊
  • 2: 海兵隊第七連隊戦闘団(RCT-2)
    • 2-a: アメリカ海兵隊第2海兵師団、第8海兵連隊第1大隊
      • 第Ⅱ海兵遠征軍の陸上戦闘部隊として、ノースカロライナ州のキャンプ・レジューンを本拠地にしている部隊。アンバー州を担当している第1海兵師団を増強するために派遣された第2海兵師団の部隊の一つ。
    • 2-b: アメリカ海兵隊第3海兵師団、第3海兵連隊第1大隊
      • 沖縄に司令部がある第三海兵遠征軍の陸上戦闘部隊として、ハワイ州オアフ島カネオヘ・ベイのキャンプ・ハワイを本拠地にしている部隊。Lava Dogsと呼ばれている。
    • 2-c: アメリカ陸軍第1歩兵師団、第2歩兵連隊第2大隊(タスクフォース2-2)
      • Big Red Oneと呼ばれる第1歩兵師団はケンタッキー州フォート・ノックスを本拠地にしているが、Ramrodsと呼ばれる第2大隊は、ドイツVilseckのローズ・バラックスを本拠地にしている。タスクフォース2-2はタスクフォース2-7同様に市街地戦のエキスパート部隊。
    • 2-d: イラク緊急即応部隊(イラク内務省直属)
    • 2-e: イラク陸軍第1旅団第2大隊
    • 2-f: イラク陸軍第1旅団第5大隊

11月7日―D-day―22時過ぎ、海兵隊第3軽装甲偵察大隊を中心とする海兵隊ならびにアメリカ陸軍部隊とイラク第36コマンドウ大隊(特殊作戦部隊)がファルージャ市街からユーフラテス川を渡った西の半島部とユーフラテス川にかかる橋周辺に防御線を構築し市街からの武装勢力の移動を遮断した。そしてファルージャ病院とその周辺に立てこもっていた武装勢力を急襲し激戦の末病院を占領した。その後8日の1045時までには、海兵隊第4民生群第4民生チームがファルージャ病院を統括して大量の医療物資と人道支援物資を病院に運びこんだ。市街地への本格的攻撃に先立ってファルージャ病院を確保したのは、4月のファルージャ戦の際に、武装勢力側にファルージャ病院の一般市民を海兵隊が虐殺しているとの工作宣伝が行われたため、そのような宣伝活動を防止するためであった。

一方、D+1day11月8日未明、ファルージャ市街北縁郊外には第1連隊戦闘団(第5海兵連隊第3大隊(3/5大隊)、第1海兵連隊第3大隊(3/1大隊)、タスクフォース2-7で構成)と、第7連隊戦闘団(第8海兵連隊第1大隊(1/8大隊)、第3海兵連隊第1大隊(1/3大隊)、タスクフォース2-2で構成)がファルージャ市街への進撃を開始するための配置についた。それぞれの大隊には、イラク軍部隊が配属されていた。

8日午前11時前、一斉砲撃とともに第1連隊戦闘団と第7連隊戦闘団は横一列になりファルージャ市内へ突入を開始した。陸上戦闘部隊突入の障害になる鉄道地帯を第3海兵航空団司令官シュタルダー少将自ら率いる第242海兵戦闘攻撃機中隊のF/A-18Dホーネットが200ポンド精密誘導爆弾GBU-31で爆撃し突破口を開くとともに、アメリカ海軍建設工兵隊(シー・ビー)部隊がファルージャ市全域の電力供給を遮断した。海兵隊・陸軍そしてイラク軍で混成された陸上戦闘部隊が横並びで突入してしばらくは、武装勢力側の反撃は限定的であり、攻撃側も予想される激戦に備え慎重に横並びの陣形を崩さないように建物を一軒一軒しらみつぶしに捜索しながら占領地域を広げていった。また、地上部隊の要請を受けて空軍C-130ガンシップが、武装勢力の拠点を機銃掃射し、地上からの攻撃で撃破するのに手こずった多くの建物を破壊していった。

8日の夜以降、いよいよ多国籍軍部隊の攻撃は本格化しファルージャ市を南下するスピードが高まるに連れ武装勢力の反撃も本格化し激戦が開始された。武装勢力には盲滅法にライフルやRPGを発射しながら建物から飛び出しては別の建物に姿を消してしまう戦法をとるもの、建物内に潜み捜索に入ってくる海兵隊と刺し違える覚悟でライフルや手榴弾で攻撃を加えるもの、自爆用爆薬を身にまとい戦車や装甲車目指して突入しようとするものといった自殺的攻撃を単独で敢行する聖戦戦士の他に、軍事訓練を受け集団で行動して攻撃拠点を転々と変えたり、迫撃砲を正確に海兵隊部隊目掛けて打ち込んでくるプロ戦士たちも少なくなかった。

11月9日から10日にかけては、場合によっては多数の武装集団が立て篭もる堅固な建物を戦車で建物ごと粉砕しながら突き進む陸軍の機械化大隊(タスクフォース2-2とタスクフォース2-7)と、要塞化された建物に踏み込んで武装勢力と近接銃撃戦を展開しながらジリジリと南下する海兵隊歩兵大隊の進行速度にズレが生じ、ファルージャ市内中央部を横断しているハイウェイ10号線まで横並びに武装勢力を掃討する予定が狂い、陸軍部隊が突き進んだ背後に武装勢力が回りこみそれを陸軍部隊と海兵隊それにイラク軍部隊が行きつ戻りつしながら殲滅していった。

とりわけ多くの武装勢力の“要塞”が連合軍の行く手を最後まで阻み激戦が10日の夜まで続いていたのがジョラン地区であった。この地区を担当していた第5海兵連隊第3大隊と第1海兵連隊第3大隊の海兵隊員とそれらに配属されたイラク軍兵士は、AAV-7水陸両用戦闘車を土塀や建物に体当りさせて突破口を開けつつ、手榴弾や銃弾が降り注ぐ中を建物に突入しては近接銃撃戦を繰り返して、粘り強くジョラン地区の制圧を進めた。4月の戦闘の際には、戦闘が開始されるとほとんどのイラク軍兵士は逃亡してしまったのであったが、今回は訓練が行き届いていたため、イラク軍兵士も海兵隊員とともに勇敢に戦った。夕暮れになると、さしものジョラン地区に立てこもっていた武装勢力も殲滅されるかファルージャ市南部へ脱出するかしたものとみえて、銃声は散発的になった。そしてファルージャ全域の夜空には第9心理戦大隊が拡声器で流す「海兵隊讃歌」が響き渡った。

11月10日はアメリカ海兵隊の229回目の誕生日である。大使館守備チームなどを含めて世界各地の海兵隊部隊では、それぞれ大小様々な誕生パーティーを実施し、伝統的儀式にのっとって海兵隊の誕生日を祝うことになっている。ファルージャで戦う海兵隊の部隊も、第9心理大隊が拡声器で流す「海兵隊讃歌」をバックミュージックにしてそれぞれの方法で激戦場での誕生式典を行っていた。

ファルージャ市の東部を南下する第3海兵連隊第1大隊は、かつて4月の戦闘の際に激戦が発生し多数の海兵隊員が死傷した武装勢力の“要塞”で、攻撃目標リストでも上位に指定されている建物から猛攻を仕掛けてくる武装勢力と激戦を交えていた。LAV-25軽装甲車の強力な機銃の援護を受けた海兵隊は頑強に抵抗する“要塞”を破壊し突入すると25名の武装勢力を斃していた。一箇所で撃破した武装勢力の数としては最大であった。引き続きモスクを占領し終わると、海兵隊誕生日を祝うために隊員が集合し誕生ケーキを取り出した。伝統に則り、最古参の下士官がケーキの最初の一切れを最年少の隊員に与えた。ちょうどその時、武装勢力が攻撃を仕掛けてきた。式典を祝う全1/3大隊員のライフルが火を吹いて武装勢力は撃退された。再び、心理大隊が流す「海兵隊讃歌」を背景にして式典は続けられた。

11月10日夜半までには、六個の大隊によるハイウェイ10号線までの横並びの進撃は完了した。11日からは、ハイウェイ10号線から南部地区に逃げ込んだ武装勢力の排除と、これまで占領した北部地区に未だに潜伏している武装勢力に対する残敵掃討戦が実施された。

北部地区に引き続いて南部地区での索敵撃滅戦を実施するのはタスクフォース2-7とタスクフォス2-2それに第8海兵連隊第1大隊ならびにそれぞれに配属されたイラク軍部隊であった。西側をユーフラテス川で防御したタスクフォース2-7を主力とする部隊がユーフラテス川沿いのファルージャ市南西部の武装勢力を南部中央部に追い詰める。ファルージャ市東側郊外をアメリカ陸軍部隊(ストライカー軍団)とイラク陸軍部隊が防御しつつタスクフォース2-2を主力とする部隊が南東部のインダストリアル・エリアの武装勢力を南部中央部に追い詰める。そしてハイウェイ10号線南部の中央を第8海兵連隊第1大隊とイラク軍部隊が南下し、武装勢力を包み込む形て殲滅しつつ南部中央に追い込む。ファルージャ市南部包囲ラインにはイギリス陸軍、アメリカ陸軍、イラク陸軍そしてイラク国家警備隊などの部隊が逃亡を企てる武装勢力を捕捉する万全な体制を敷いて待ち構えている。

一方、ハイウェイ10号線北部では、すでに武装勢力の主たる“要塞”は破壊ないしは占領したとはいえ、未だに建物の一角に篭って最後の抵抗を試みる殉教者戦士やスナイパーたちが散在していた。そのため、ジョラン地区北部を第5海兵連隊第3大隊が、ジョラン地区南部を第1海兵連隊第3大隊が、ハイウェイ10号線沿い中心部を第3海兵連隊第1大隊が、その他の地域を各軍から動員された特殊作戦部隊が、全ての建物を文字通り一件ずつ虱潰しに残敵の発見、殺害あるいは捕縛をした。もっとも、最後まで抵抗するため立てこもっている殉教者武装勢力は、ほとんど降伏はしないため、海兵隊側も多大な損害を受けながら殺害していった。それと同時に、逃げ遅れた一般市民や、武装勢力への協力を拒否したため拷問を受けていた市民などを救出し、民生チームにより保護する活動も進められた。

南部でも、敗北が明らかになった武装勢力は、爆発物を身にまとい銃を乱射しながら装甲車輌に突っ込んできたり、捜索部隊が屋内に入ると押入れなどに潜んでおり手榴弾やIEDを爆発させて自ら木っ端微塵になるとともに海兵隊員やイラク軍兵士も巻き添えにする、といった自殺攻撃を多用するようになり、タスクフォース2-2の将校2名が戦死するなど連合軍の損害も増加した。それだけでなく、近接戦闘の悲惨な状況がますます悪化していった。

11月16日には米軍によるファルージャ全域の占領完了宣言がなされた。ただし、未だに市内の所々に立て篭もる武装勢力全員を捕縛あるいは殺害してはおらず、海兵隊とイラク軍それに特殊作戦部隊による残敵掃討戦は継続中であることも付言された。さすがに、この段階での武装勢力はすでに強力ではなくなっていたものの、ファルージャ市民が市内に戻り平穏な生活を開始するためには、全ての武装勢力を排除せねばならないため、強力ではない残敵とはいえ殉教のために自殺攻撃を仕掛けてくる敵を捜索しつつ排除する危険極まりない掃討作戦は1ヶ月にも及んだ。

12月12日には、大規模な武装勢力の攻撃が発生し海兵隊側が戦車による砲撃や戦闘攻撃機による近接航空支援を受けつつ35名の武装勢力を殺害するという戦闘が発生した。そして12月23日、海兵隊はファルージャ市内の全ての武装勢力抵抗拠点を無力化し武装勢力を完全に掃討したことを確認した、とのファルージャ完全制圧宣言をなした。ここに、イラク戦争を通して最も残虐でかつ双方ともに最も多数の死傷者を出したファルージャの戦闘は終結した。

第二次ファルージャの戦闘(「幽霊の復讐」作戦)での戦死傷者数

  • アメリカ軍: 戦死95名、戦傷560名以上
  • イラク軍: 戦死8名、戦傷43名
  • イギリス軍:戦死4名、戦傷10名
  • 武装勢力: 戦死1,500名程度、捕虜およそ1,500名
  • ファルージャ民間人(武装勢力と特定できないものを含む): 800名程度

参考文献:

  • Lt.Col. Kenneth W. Estes. 2011. Into The Fray: U.S. Marines In Iraq, 2004-2005. Washington D.C.: History Division, USMC.
  • Lt.Col. Michael S. Groen et. al., 2006. With the 1st Marine Division in Iraq, 2003: No Greater Friend, No Worse Enemy. Quantico, Virginia: History Division Marine Corps University.
  • Lt.Col. Kenneth W. Estes. 2009. U.S. Marine Corps Operations In Iraq, 2003-2006. Quantico, Virginia: History Division Marine Corps University.
  • Bing West. 2005. No True Glory: A Frontline Account of the Battle for Fallujah. 2005. New York: Bantam Books.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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