アメリカ海兵隊の歴史<115>第一次ファルージャの戦闘〜イラク戦争

  • 実施期間: 2003年4月4日〜4月28日
  • 実施場所: イラク・ファルージャ
  • 作戦の性格: 市街地戦
  • 参加部隊: 第Ⅰ海兵遠征軍・第一連隊戦闘団(RCT-1)

ファルージャ:最も反米的な都市

2003年4月12日にバグダッドが陥落し、4月末までにはイラクの主要拠点がアメリカ軍を中心とする多国籍軍によって占領された。バグダッドのおよそ70km西方ユーフラテス河畔の都市ファルージャにも、4月23日、アメリカ陸軍第82空挺師団(第2旅団第1大隊)が進駐し占領統治を開始した。

ファルージャの住民の大多数はスンニ派でありバース党員や軍人を多数輩出した土地柄で、依然としてサダム・フセインに忠誠を誓う反米勢力が力を持っていた。そのため、フセイン政権崩壊後も、他のイラク諸都市で発生したようなバース党施設や政府機関や商店などに対する略奪騒ぎは、ファルージャでは殆ど起こらなかった。その反面、アメリカ軍が占領することに対する反感は極めて大きく、4月28日、アメリカ軍が発布した戒厳令に反対する数百名のファルージャ市民が第82空挺師団占領部隊司令部に対してデモ行列を組んで押しかけた。それに対して第82空挺師団は発砲したため、デモ隊側に17名の死者と70名の負傷者が発生した。

4月30日、ファルージャの占領部隊は第82空挺師団からアメリカ陸軍第3機甲騎馬連隊(連隊といっても200名規模は小さい部隊)に交替した。しかし、ファルージャでの反占領軍デモは収まらず、より大規模な本格的戦闘部隊による占領統治が必要と判断された。そのため、再びアメリカ陸軍第3歩兵師団(第2旅団、兵力1,500名)がファルージャ占領統治部隊として送り込まれた。

第3歩兵師団占領部隊は、ファルージャ市内の武装勢力や武器密売業者の摘発を強力に実施するとともにファルージャ市のインフラ整備を支援する努力もした。しかし6月30日、アル・ハッサン・モスクの屋根がテロリストが仕掛けた爆弾によって吹き飛び聖職者や市民数名が死亡するという事件が生きた。反米勢力は、この爆発をアメリカ軍による秘密攻撃と非難して、ファルージャ市民の反米感情はますます強くなった。そのような反米都市ファルージャには、イラク武装反米勢力や外国からのテロリストが続々と紛れ込みだした。

第3歩兵師団は武装勢力摘発・撃破作戦とインフラ整備援助という“飴と鞭”占領統治を強力に推進したが、武装勢力・テロリストは占領軍に対する散発的な小火器による攻撃や様々な場所に仕掛けたIED(簡易爆発装置)による攻撃を繰り返し、ファルージャは「最も反米感情が強い都市」として各国のメディアが取り上げ有名になった。

結局、第3歩兵師団もファルージャの険悪な空気を改善することが出来ないまま、8月末に再び小規模な第3機甲騎馬連隊に交替したが、やはり強力な軍隊を配置する必要から、9月初旬には、第82空挺師団がアフガニスタンの戦場から舞い戻ってきた。今回の占領統治部隊はドリンクワイン中佐が指揮をとる第505空挺歩兵連隊第1大隊であった。ドリンクワイン中佐はファルージャ市の有力者や聖職者などに占領軍側への協力者を造り出す努力を開始したが、第82空挺師団パトロール部隊に対する武装勢力からの攻撃やIEDの設置は減少するどころか益々増大し続けた。

統一性を欠いたイラク占領統治

ファルージャは多国籍軍が占領していたイラクの数多くの都市、地域の一つにすぎない。そして、連合国によるイラク統治は、第二次大戦後日本を占領統治した連合国軍最高司令部のように単一の占領統治機構が実施した単純明快なものではなかった。

アメリカ国防総省内に設置されたもののアメリカ国務省の役人・外交官であったポール・ブレマー特使が代表を務める連合国暫定当局(CPA)が、イラクにイラク人による正規の安定した政府が設立されるまでの暫定的なイラク政府としての役割を果たした。

ただし、イラクの暫定政府といっても、連合国暫定当局には占領統治にあたる多国籍軍を監督する権限はなく、占領統治のためイラクに駐留する多国籍軍を統括したのはアビザイド陸軍大将が司令官を務めるするアメリカ中央軍であった。

連合国暫定当局とアメリカ中央軍司令部はともにアメリカ国防長官の指揮下にあったため、アメリカ大統領直属の占領統治監督機関としてライス国家安全保障担当大統領補佐官のもとでブラックウィル特使が統括するイラク安定化グループが活動した。このように、イラク占領統治は“3つの頭”があり統一性が欠ける性格を本来的に持っていたのである。

多国籍軍による占領統治は、イラク人自身の手による政府が発足し機能するまでの暫定期間であるため、行政機関と同時にイラク人による警察組織や将来的にはイラク軍となるイラク人将兵によるイラク国家警備隊などの編成も急がれた。イラク国家警備隊は、アメリカ軍を中心とする多国籍軍から軍事顧問団が派遣され始動・育成されることとなった。

第1海兵師団ファルージャ進駐

第82空挺師団が武装勢力と対決しながら治安を維持していたファルージャに、2004年2月、イラク人将校スレイマン中佐が指揮するイラク国家警備隊の二個大隊が進駐しアメリカ占領軍とともにファルージャの武装勢力を制圧し治安を回復することとなった。

2月12日、「イラクで最も反米的でかつ最も武装勢力の力が強い」ファルージャでイラク国家警備隊が治安維持活動を開始したのを記念して、多国籍軍のトップであるアメリカ中央軍司令官アビザイド大将が視察に訪れた。ところが、記念式典の最中にその会場の敷地内に武装勢力が発射した2発のRPGが着弾した。

そして2日後、武装勢力がイラク国家警備隊の基地と警察署を襲撃し激しい戦闘となった。第82空挺師団が急行した時には武装集団は姿をくらましており、23名のイラク人警察官が殺害され75名の囚人が開放されてしまった。アビザイド大将まで危険に晒されたのみならず、“バレンタインデーの虐殺”まで発生し、ファルージャの治安は益々悪化していることが再認識されるに至った。

このような武装勢力の攻撃と対峙しながら第82空挺師団のファルージャ駐屯期間であるである7ヶ月が経過した。陸軍部隊に代わってファルージャを含むアンバル州を占領統治するのは、一年前に多国籍軍の先鋒部隊の一つとしてイラクに侵攻し引き続きバグダッドに乗り込んだコンウェイ中将率いるアメリカ海兵隊第Ⅰ海兵遠征軍であった。そしてファルージャを担当するのはマティス少将が指揮する第1海兵師団となった。

2004年3月18日、第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊のオルソン中佐と第82空挺師団のドリンクワイン中佐が引き継ぎを行い、市内の見張りを海兵隊部隊に交代している最中、武装勢力の迫撃砲弾とRPGが敷地周辺に着弾し、海兵隊は着任早々4名の負傷者を本国に送還する羽目となった。このような武装勢力の“歓迎”を受けた第1海兵師団のファルージャ占領統治は3月24日から公式に開始されたのである。

ブルックリン橋の惨劇

3月31日朝、補給トラックを護衛して2台の三菱パジェロに乗り込んだ4名のブラックウォーター社の民間武装警備隊がイラク警察車両の先導でファルージャの中心街を貫くハイウェイ10号線を通りかかった。4人とも海軍特殊部隊や陸軍特殊部隊に所属していた元アメリカ軍兵士でアフガニスタン戦争でブロンズ・スター勲章を授与されたものもおり戦場には慣れた戦士たちであった。しかし、補給車列のファルージャ通過は警備を担当している第1海兵師団には通告していなかった。

車列が警察署脇を抜けるとすぐに、AK-47ライフルを手にした数名の武装勢力が2台のパジェロに無数の銃弾を浴びせた。さすがの歴戦の4人も反撃することが出来ず銃弾を浴びた。先導していた警察車両はその場を逃げ去った。ライフルを撃ち尽くした武装勢力は直ちに姿をくらましたが、それと入れ替えに多数の一般市民たちが蜂の巣にされたパジェロに群がってきた。息のあった一人がパジェロから転がりでると、群がってきた群衆がこのアメリカ人を蹴りつけナイフでめった刺しにして切り刻み始めた。ガソリンタンクを持った子供がパジェロに駆け寄り、車と遺体にガソリンをぶちまけると、群衆は火をつけ2台のパジェロは黒い煙に包まれた。やがて、黒焦げになった4人の死体を群集たちは踏みつけ、遺体の手足は引き千切られ、もぎ取られた黒焦げの足にロープがかけられ電線にぶら下げられた。

ファルージャ市内でアメリカ人が乗り込んでいた車列が襲撃されたらしいとの情報を得た第1海兵師団司令部は、直ちに無人偵察機(UAV)を発進させファルージャ上空から黒煙の上がっている地域上空に向かわせた。UAVは2台の燃えている車の周囲を群集が取り囲み、真っ黒になった遺体を群集たちが棒で打ち据えたり蹴りつけている様子がを鮮明に捉えた。海兵隊の記録には、本日ファルージャを通過する部隊はなかったので、襲撃されたのはブラックウォーター社の警護車両と判明した。そして、4人の民間武装警備隊員たちが死んでいるのも明らかに確認された。

この情報は、UAVのビデオ映像とともに、第1海兵師団司令官マティス少将、第1海兵遠征軍司令官コンウェイ中将、そしてイラク駐屯軍実働部隊の総責任者である第7統合任務部隊(JTF-7:以下、統合任務部隊)司令官サンチェス中将にも、伝わった。それらの司令官たちも、全ての司令部要員たちも怒りに震えた。もちろんファルージャを担当する第1海兵師団第1連隊戦闘団(RCT-1)の全ての海兵隊員たちも怒り心頭に達した。

しかし、RCT-1司令官ダンフォード大佐は、直ちに海兵隊が急行して損壊を加えられている遺体を回収しようとする場合、少なくとも数百人の群衆を子供も含めて殺害することになるのは確実な状況である、と状況を分析した。したがって、怒りは別にして、海兵隊は静観せざるを得ないと判断した。このダンフォード大佐の判断を、マティス少将もコンウェイ中将も支持し、海兵隊は興奮した群衆の騒ぎが収まるまでは涙をのんで出動を差し控えることとなった。

群集たちは黒焦げになりボロボロになった遺体を車にロープでぶら下げると、アメリカ軍がブルックリン橋と呼んでいるユーフラテス川に架かる鉄橋まで引きずっていった。二人分の遺体がブルックリン橋の橋梁にロープでぶら下げられ、橋を取り囲んだ群衆が歓喜の声を上げ記念撮影をした。遺体を回収しようと看護婦たちが近寄ったが、遺体に触れたら殺害すると脅かされた。群集たちは夕暮れまで「臆病なアメリカ人め」と罵りながら気勢を上げていた。UAVの望遠カメラは一部始終を撮影し海兵隊司令部は惨劇の全容を把握していた。

CIAと軍情報部は、直ちに襲撃犯人の特定を急いだ。すぐに20名ほどの武装勢力が特定され、指導者と思しき過激派のファルージャ市の高級住宅街の中にある住居や襲撃拠点とみられるファルージャ市内のアジトが浮上した。海兵隊は、市街地での特殊作戦の専門部隊である陸軍特殊部隊6-26任務部隊の助力を得つつ数週間をかけてじっくり襲撃犯人たち全員を捕獲あるいは殺害する計画の立案に着手した。

しかし、アメリカ人が惨殺された事件に激怒した連合国暫定当局のブレーマー特使それに統合任務部隊司令官のサンチェス陸軍中将は、間髪をいれずにアメリカ民間人を殺害した行為に対して復讐を加える必要があると考えた。そこで、サンチェス中将は目に見える復讐としてブルックリン橋を爆撃し破壊することを海兵隊に提案した。しかしコンウェイ海兵中将は、ブルックリン橋はファルージャ制圧作戦で海兵隊にとっても必要となる、として反対した。それならば、とサンチェス中将は、特定されたアジトをピンポイント攻撃して破壊してしまおう、と提案した。しかしコンウェイ中将は、アジトにあるコンピューターなどを分析すれば有用な情報が得られるであろうし、市内のアジトを襲撃するとファルージャ市民にも死傷者が出てしまう、と反対した。サンチェス中将は、郊外の高級住宅地の邸宅を爆撃するのなら問題はあるまい、と更に提案した。しかしコンウェイ中将は、邸宅には武装勢力だけでなく家族もいるかもしれないと反対した。

ブレーマー特使やサンチェス中将をはじめとする統合任務部隊司令部は、海兵隊は武装勢力に復讐する気があるのかと非難した。しかしコンウェイ中将と海兵隊は、怒りに任せた過剰反応はさし控え、じっくりと着実に犯人を見つけ出して全員を殺害する、との決心を固めていた。しかしながら、海兵隊の慎重にかつ確実に武装勢力だけにたいするピンポイント攻撃を実施するという基本戦略は実現されなかった。

アメリカ民間人が惨殺され遺体が損壊された模様を見たブッシュ大統領は激怒し、感情的になり極めて好戦的になった。このようなアメリカ人に対する残虐行為は、サダム・フセインの圧政からイラクの人々を開放したアメリカに対する嘲りであり重大な挑戦であり即刻報復しなければならないとホワイトハウスは考えた。そこでアメリカ政府は、イラクの統合任務部隊司令部に対して、直ちにファルージャに巣食う武装勢力を殲滅するための総攻撃を開始するよう命令した。それを受けた統合任務部隊司令官サンチェス中将は、4月3日、ファルージャ攻撃開始に関する文書による公式命令を第Ⅰ海兵遠征軍司令官コンウェイ中将に発した。

ベトナム戦争で、アメリカ海兵隊が時間はかかるが着実にベトナム市民に浸透してゲリラ戦略を駆逐していこうとしたインクブロット戦略を却下されて、アメリカ政府首脳やアメリカ陸軍が主導した索敵殲滅戦略を実施させられた事例と、似通った構図が再び繰り返されようとしていた。しかし、政治統制(civilian control of the military)原則に従う民主主義国家の軍隊であるアメリカ海兵隊は、政府が下したファルージャに対する索敵殲滅作戦命令を実施する以外選択肢は存在しなかった。

海兵隊「油断なき解決」作戦

命令を受け取ったコンウェイ中将は第Ⅰ海兵遠征軍参謀たちに攻撃の具体的作戦計画の立案を急がせるとともに第1海兵師団司令官マティス少将にファルージャ攻撃の総指揮を命じた。しかしながら海兵隊に対してファルージャ攻撃において最も重要な攻撃の持つ戦略的目標やファルージャ占領後の統治計画などは統合任務部隊司令部からも国防総省からもホワイトハウスからも何も示されなかった。しかし、占領後に関してはアメリカ政府が責任を持つと明言したため、海兵隊としてはともかくファルージャの武装勢力を一掃し、犯罪者を逮捕し、市内に無数に散らばっているAK自動小銃やRPGなどを回収してファルージャを完全に制圧する作戦を実施することにした。

4月4日、第1海兵師団第1連隊戦闘団(RCT-1)を主力攻撃部隊としたファルージャ制圧作戦、「油断なき解決作戦」、が開始された。作戦初日、各部隊を配置につける間に、RCT-1司令官トゥーラン大佐はファルージャ市内の部族長や有力者たちを集めて、ファルージャ市内に分散している武装勢力や武器を引き渡し海兵隊に協力すれば市内での戦闘は発生しない、といった説得工作を続けたが、部族長たちはアメリカを非難し復興資金を要求するのみで協力関係の構築は全くはかどらなかった。しかし、ファルージャ市民の中には戦闘に巻き込まれることを避けてファルージャから避難するものも少なくなかった。

4月4日の夕刻、配置場所に向かっていた海兵隊の部隊に対して武装勢力がAK自動小銃やRPGを乱射し海兵隊員1名が戦死した。これによりファルージャの戦闘が開始された。4日夜は、大きな戦闘は生じず、判明していた武装勢力拠点に対する散発的爆撃が実施されただけであった。翌5日朝、ファルージャに通づる道路を全て封鎖した兵力およそ2,000名強のRCT-1は、4つの大隊部隊によってファルージャ市内に四方面から侵攻を開始した。<作戦図−1>

ファルージャ市街を進む海兵隊の部隊に対して、住宅の中庭やビルの一室や屋上などで待ち伏せする武装勢力は迫撃砲やRPG攻撃をかけたり、路地から飛び出すとAK自動小銃やRPGを乱射しては別の路地に走りこむといった移動攻撃を仕掛けたりした。武装勢力を追いかけても、群衆の中に逃げ込まれると攻撃はできない。それどころか、子供を抱えた女性たちの間からライフルやRPGをぶっ放す武装勢力も少なくなく、周囲の一般市民もそれをスポーツ観戦するように眺めており、子どもたちは笑いながら見ている、といった状況がファルージャ市街のあちこちで普通に見られた。

武装勢力が立て篭もって攻撃をしてくる拠点を突き止めた場合には、各部隊の前線航空統制官が空軍のAC-130ガンシップ“スレイヤー”と連絡を取り合い武装勢力の拠点に対してAC-130が機銃掃射を加えたり、周囲に一般市民が存在するおそれがない場合は海兵隊や空軍の戦闘攻撃機によるピンポイント爆撃を要請し一つ一つ武装勢力の拠点を潰していった。

もちろん、そのような航空機による攻撃に適さない建物に対しては、数量的にはこの場合のほうがはるかに多かったのであるが、海兵隊員たちが突入し近接銃撃戦によって武装勢力を斃して拠点を占領していくしか方法はなかった。そのため、海兵隊側にも多くの死傷者がでることは避けられず、まさに死闘の様相を呈するに至ったのである。

政治の判断

ファールージャでの戦闘が勃発すると、イラク各地で多国籍軍の占領統治に反感を抱く様々な武装勢力が占領軍に対する攻撃を開始した。ファルージャの西30マイルにあるアンバー州の州都ラマディでは、4月6日、占領部隊である第1海兵師団第4海兵連隊第2大隊とアメリカ陸軍第1師団第1旅団戦闘チームのパトロール部隊に対してスンニ派の武装勢力が攻撃を開始し、それから数日間わたって激しい戦闘が繰り広げられた。このほか、バクダッド郊外でもシーア派の聖職者モクタダ・アル・サドル師が組織する民兵組織が占領統治に対する反乱を起こし、それに呼応してナジャフ、ナーザリア、クト、バスラ、クファ、カルバラなどイラク各地の主要都市で武装勢力や民兵が騒動を起こした。

ファルージャやラマディをはじめとするイラク各地での占領統治軍と武装勢力の間の戦闘だけでなく、NGO組織や外国人民間人に対する攻撃や誘拐も多発し、殺害される外国人まで発生した。4月8日には日本の民間人3名が誘拐され、犯行グループからサマーワに駐屯する自衛隊部隊の撤退要求の声明が衛星放送局アルジャジーラに送りつけられた。同日、サマーワの自衛隊駐宿営地付近に迫撃砲砲弾が着弾した。ただし、この時期にはスンニ派武装勢力やシーア派サドル民兵組織などがサマーワには入り込んでおらず、その後小規模なデモが発生したものの、占領統治警備を担当していたオランダ軍や復興支援のために駐留していた自衛隊との武力衝突は発生しなかった。

スペイン政府はスペイン軍の撤収を決定したためナジャフの警備を担当していたスペイン軍部隊は戦闘を放棄し撤収した、クトを担当していたウクライナ軍部隊とカルバラを担当していたブルガリア軍部隊はそれぞれサドル師支持派武装勢力に撃破されてしまった。

そして、ファルージャとラマディでのスンニ派反米武装勢力と海兵隊部隊との戦闘は激しさを増した。それにともなってカタールを本拠地としていた衛星放送局アルジャジーラとドバイを本拠地とする放送局アルアラビアによる“アメリカ軍によるファルージャ市民に対する無差別攻撃”の衛星放送ニュースはアラブ世界のみならず欧米のメディアによっても世界中に放映された。そして、アルジャジーラやアルアラビアが発信する“女子供も殺戮する極悪非情の海兵隊”にたいする報道はインターネットをとおして次から次へと世界中を駆け巡った。

このような状況を受けて、多国籍軍を構成する国々の中でもアメリカに最も協力的であったイギリスまでが、ファルージャに対する海兵隊による攻撃に反対の意を表明し始めた。バクダッドの連合国暫定当局の監督下に設置されているイラク人自身による政府設立のためのイラク統治評議会は海兵隊によるファルージャでの戦闘に対して強烈に反駁し、フセイン反対派から構成されていたにもかかわらず辞任を表明する評議員も現れたため、連合国暫定当局のブレマー特使は窮地に立たされた。

イラク問題担当大統領次席補佐官ブラックウィル特使も、ブレマー特使同様にイラク人による政府樹立を急いでいた、そのため、ブラックウィル特使にとってもイラク統治評議会が機能しなくなりイラク政府成立が遠のくことはどうしても避けなければならない事態であった。これら二人の外交官は、ブッシュ大統領にイラク人による政府樹立を急ぐほうが地方都市ファルージャを占領するより遥かに重要であると進言した。

ブレマー特使はアメリカ中央軍司令官アビザイド大将と統合任務部隊司令官サンチェス中将と会合し、ファールジャへの攻撃によりイラク暫定統治が挫折する可能性を指摘し、ファルージャでの戦闘停止を要請した。アビザイド陸軍大将ならびにサンチェス陸軍中将に対して第Ⅰ海兵遠征軍司令官コンウェイ中将は、(4月8日現在で)海兵隊はファルージャ市の3割近くを制圧しており、武装勢力側の弾薬供給ルートの遮断にも成功しているため、このまま本格的な攻撃を継続すれば数日以内に武装勢力の弾薬は底をつき、ファルージャ市内での武装勢力の抵抗は鎮圧できるとの見通しを述べ、戦闘停止には反対した。

しかし、ブレマー特使やブラックウィル特使の政治的判断にアビザイド大将は理解を示し、ファルージャの攻撃は中止したほうが良いと考えるに至った。そしてサンチェス中将もブレマー特使に同意した。その結果、4月8日夕方、アビザイド大将はコンウェイ海兵中将に対してファルージャ攻撃を中止するよう命令した。4月9日、ブレマー特使とアビザイド大将は、ファルージャでのアメリカ軍側による24時間の停戦を一方的に宣言した。

悪魔との取引

ファルージャでの停戦宣言はアメリカ側からの一方的宣言であり、戦闘を交えている海兵隊と武装勢力が停戦合意をなしたわけではなかった。したがって、海兵隊による積極的攻勢作戦は中止されたものの、海兵隊に撤収命令が出たわけではなく依然としてファルージャ市内各地には海兵隊部隊が武装勢力と対峙していた。アメリカ側の一方的停戦宣言は、当然のことながら武装勢力にとっては無関係の出来事であり、武装勢力側からの海兵隊部隊に対する激しい攻撃は9日以降も続けられた。

連合国暫定当局の停戦宣言では停戦時間は24時間ということであった。しかし、10日になっても11日になっても攻撃再開許可は命じられなかった。その間も、海兵隊に対する武装勢力による攻撃は頻発した。ファルージャ市東側を確保していた第4海兵連隊第3大隊(3/4大隊)は、とりわけ激しい迫撃砲弾の集中攻撃を浴びていた。第1海兵師団司令部も第Ⅰ海兵遠征隊司令部も3/4大隊が反撃できずに攻撃を受け続けることは容認できなかった。そこで第1海兵師団は3/4大隊に攻撃再開を許可した。これを機に、ファルージャでの戦闘は再び激化した。

しかし連合国暫定当局や統合任務部隊司令部からの停戦中止・攻撃再開命令は依然としてくだされないため、海兵隊側は現に占拠している地点に対して武装勢力が攻撃してきた場合にのみ武装戦力を攻撃したり、狙撃兵により武装勢力狙撃手や攻撃準備をしている武装勢力を発見して排除する作戦を実施し、占領地域拡大のための攻撃は実施しなかった。

一方バグダッドでは連合国暫定当局やイラク人のイラク統治評議会は、“停戦中”のファルージャから海兵隊が手を引いた後、イラク人の手で武装勢力から武器を取り上げファルージャの治安を回復し再生させるための方策を模索していた。その結果、停戦から2週間経った4月24日、イラク人で構成されるイラク国家警備隊と海兵隊が合同でファルージャ市街をパトロールするということで、連合国暫定当局や統合任務部隊司令部とコンウェイ中将が率いる海兵隊側が合意に達した。

ホワイトハウスも、アルジャジーラをはじめとするメディアが「海兵隊によるファルージャでの民間人殺戮」といった映像を流し続けているので、これ以上ファルージャで激戦が展開されることは望まず、合同パトロールという形をとってイラク人の手でファルージャを安定させようとする方策に飛びついた。イラク国家警備隊とアメリカ海兵隊の合同パトロールは4月27日から開始されることになった。

じつは海兵隊のコンウェイ中将はイラク国家警備隊との合同パトロールによってファルージャの武装勢力を制圧できるなどという甘い見通しは持っていなかった。連合国暫定当局による一方的な停戦が宣言されて以降も、毎日のように海兵隊員が負傷したり戦死したりしており、とても強力な軍事力以外で武装勢力を抑えこむことができるなどと考えることは海兵隊には出来なかった。

そこで、連合国暫定当局や外交官たちそれに軍上層部が合同パトロールといったイラク人による平和的解決を模索している間、コンウェイ中将は密かに“悪魔との取引”を開始していた。すなわち旧バース党員や旧イラク軍将校と接触し、それら武装勢力に対して睨みが効く指導者に治安維持部隊を指揮させて武装勢力を統制したほうが、合同パトロールよりもマシな結果が期待できると考えていた。それに実質的に何の権威もなく訓練もなされていないイラク国家警備隊との合同パトロールを実施すれば、海兵隊の死傷者数が増えることは確実であるが、武装勢力を駆逐出来る見込みは低かった。

実際に、4月27日を待たずに、イラク国家警備隊の多くの隊員たちは合同パトロールに尻込みしたうえ、4月26日には武装勢力が海兵隊部隊を攻撃し激戦が起きて海兵隊員1名が戦死27名が負傷した。そこで、コンウェイ中将は、元イラク軍のサレー少将とラティフ大佐にファルージャの治安を維持するためのイラク人(スンニ派)による軍事組織、ファルージャ旅団、を組織させてファルージャの治安維持の権限を第1海兵師団からファルージャ旅団に移管するという、ラティフ大佐の提案を受け入れ統合任務部隊司令官サンチェス中将に許可を求めた。ラティフ大佐は旧イラク軍人や武装勢力からも大変尊敬されているとの情報であり、ラティフ大佐もファルージャ旅団ならば、ファルージャの治安を確実に維持する事ができると明言しているため、サンチェス中将はコンウェイ中将にゴーサインを出した。

海兵隊撤収

4月30日、ファルージャ市の東、停戦宣言直後に第1海兵師団3/4大隊が武装勢力と激戦を交えた地区に、サレー将軍が率いるファルージャ旅団200名が整列し、第Ⅰ海兵遠征軍司令官コンウェイ中将とこれまでファルージャの治安維持のために武装勢力と対峙してきた第1海兵師団第1連隊戦闘団のトゥーラン大佐の到着を待っていた。旧イラク軍の制服を着用したサレー将軍は、にこやかにコンウェイ中将とトゥーラン大佐をむかえ、海兵隊からファルージャ旅団にファルージャの治安維持の任務の移譲が開始された。

5月2日、アメリカ統合参謀本部議長マイヤーズ将軍は、ファルージャ旅団の任務はファルージャの過激武装勢力を取り締まり、ファルージャに流れ込んでいる外国人テロリストを追放し、ファルージャ市内の兵器を処分し、ブラックウォーター社のアメリカ人警備員を殺害した犯人たちを検挙することである、と明言した。それとともに、元フセイン派イラク軍将軍をファルージャ軍団の指揮官として認めるこに対する批判を受けて、サレー将軍を罷免してラティフ大佐をファルージャ旅団の指揮官に任命する旨も発表した。

ブルックリン橋の惨劇の後、海兵隊は自らが反対していたにもかかわらずファルージャ攻撃を命じられた。いったん攻撃に踏み切った以上は武装勢力を一掃すべく第1海兵師団は武装勢力に対する集中攻撃と武装勢力への弾薬補給の遮断を実施し、あと数日で武装勢力を制圧できる状況に持ち込んだ。それにも関わらず、今度は海兵隊の作戦を完遂すべきであるとの意見が受け入れられずに、統合任務部隊司令部からファルージャ攻撃の中止を命じられた。しかし、武装勢力の攻撃は続き、一方的停戦により攻勢的作戦が取れなくなった海兵隊の損害は増すばかりであった。そのような状況を打開するため、海兵隊指導部はファルージャ旅団にファルージャの治安回復を以上するという“悪魔との取引”に最後の希望を託したのであった。

5月10日、ファルージャの政府センターにAK自動小銃で武装したイラク警察官が乗り込んだ警察車両に先導された第1海兵師団のマティス少将 一行が乗り込んだ海兵隊LAV25とAAV7が到着した。マティス少将はファルージャ旅団司令官ラティフ大佐とファルージャ市長にむかえられ、海兵隊がファルージャ市内に自由に入れる最後の日の式典が行われた。式典中、政府センター中庭で階級章を外したサダム・フセイン・イラク軍の軍服に身を包んだサレー将軍がファルージャ旅団を指揮していた。

欧米のメディアはイラクの米陸軍アブグレイブ刑務所で起きた米軍兵士によるイラク人捕虜虐待事件に関心が移っており、ファルージャでの式典の取材に訪れたのはアラブ系と日本のテレビ取材班だけであった。式典が行われている間、ファルージャ市内では一発の銃声も聞かれなかった。歩道では嘲りの表情で人々が見送る中、マティス少将が乗り込んだ海兵隊の車列はファルージャを去っていった。

第一次ファルージャの戦闘(「油断なき解決」作戦)での戦死傷者数

  • 海兵隊: 戦死27名、戦傷90名以上
  • 武装勢力: 戦死184名以上
  • ファルージャ民間人(武装勢力と特定できないものを含む): 616名

参考文献:

  • Lt.Col. Kenneth W. Estes. 2011. Into The Fray: U.S. Marines In Iraq, 2004-2005. Washington D.C.: History Division, USMC.
  • Lt.Col. Michael S. Groen et. al., 2006. With the 1st Marine Division in Iraq, 2003: No Greater Friend, No Worse Enemy. Quantico, Virginia: History Division Marine Corps University.
  • Lt.Col. Kenneth W. Estes. 2009. U.S. Marine Corps Operations In Iraq, 2003-2006. Quantico, Virginia: History Division Marine Corps University.
  • Bing West. 2005. No True Glory: A Frontline Account of the Battle for Fallujah. 2005. New York: Bantam Books.

〜添付図版等の公開準備中〜

    “征西府” 北村淳 Ph.D.

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