アメリカ海兵隊の歴史<114>ナーザリヤの戦闘〜イラク戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 2003年3月23日
  • 実施場所: イラク南部ナーザリヤ(ナーシリーヤ)
  • 作戦の性格: 陸上戦闘
  • 参加したアメリカ海兵隊部隊: 第2海兵遠征旅団(2nd-MEB:タラワ任務部隊)

多国籍軍のイギリス王室海兵隊第3コマンドウ旅団(アメリカ海兵隊15 MEU、SEAL、ポーランド特殊部隊を含む)はイラク侵攻開始3日間でイラク最大の港湾であるウンム・カスル港を占領し、Al Faw地域の油田地帯を制圧した。そして第3コマンドウ旅団の本隊に当たるイギリス陸軍第1機甲師団とともにイラク南部の要衝バスラの制圧に向かった。

一方、イラク軍主力の意表をついて迂回する多国籍軍主力のアメリカ陸軍第3機械化歩兵師団を中心とする部隊は、クウェート国境からイラク領内に侵攻し、ナーザリア手前でユーフラテス川南岸を迂回して北上しバグダットを目指す計画どおりにユーフラテス川南岸を進んでいた。同時に、イラク軍主力と正面対決するアメリカ海兵隊第1師団本隊は、イラク軍や民兵部隊が陣取るナーザリア、Al Kut、Al Hillahといった諸都市を制圧しながらバグダットにに到達すべくナーザリアを目指して進んでいた。

陸軍第507整備補給中隊

このような状況下の3月23日、アメリカ陸軍第3歩兵師団の600輌以上に及ぶ各種車輌からなる車列の最後尾を進んでいた大型低速車輌を担当する第507整備補給中隊は、進路を誤ってしまいイラク軍第3軍司令部が設置されていたナーザリアに向かって進んでしまった。ハイウェイ7号線を進んだ第507整備補給中隊の車列がナーザリア市内に差し掛かると、戦闘車両を伴わない米軍輸送部隊の出現に驚いたイラク軍の集中攻撃を浴びた。そこで初めて道に迷ったことに気がついた第507整備補給中隊は7号線を南に撤退したが待ち伏せしていたイラク軍により大半の車輌(大型トレーラーやトラック)が撃破され11名が戦死し6名が捕虜となり連れ去られてしまた。(捕虜となった6人の中には、後に有名になった19歳の女性兵士ジェシカ・リンチが含まれていた。)3名の兵士が乗り込んでいた1台のハンビーだけが脱出に成功し、それとは別になんとか郊外に脱出した残りの10名の兵士たちも半数は負傷しイラク側に取り囲まれてしまった。

南方に逃走した第507整備補給中隊のハンビーがナーザリア方面に向かって進出してきた第2海兵遠征旅団(2nd-MEB:タラワ任務部隊)の先鋒を進む戦車部隊と遭遇した。この海兵隊先鋒部隊は、味方の部隊が自分たちの前に存在するはずがないにもかかわらず前線からアメリカ陸軍兵士が救援を求めてきたのに驚きつつも陸軍補給部隊救出のために直ちにM1戦車、AAV7水陸両用戦闘車、対戦車ハンビーをナーザリアに向けて急行させた。多数のアメリカ陸軍大型車両が撃破されている状況を確認した海兵隊員たちは臨戦態勢を取りつつ接近していくと負傷兵士を抱え動けなくなっている陸軍整備部隊隊員たちを発見した。直ちに救出に取り掛かると、包囲していたイラク軍側から銃撃が開始された。海兵隊の救出部隊は海兵隊コブラ攻撃ヘリコプターと海兵隊F/A-18ホーネット戦闘攻撃機の近接航空支援を受けつつ反撃し、イラク軍の戦車や対空砲を撃破してイラク軍を撃退し10名の陸軍兵士を救出することに成功した。

ナーザリア制圧計画の変更

第2海兵遠征旅団の当初の計画は、イラク軍第3軍司令部が設置されており機甲部隊も有するナーザリアを迂回する形で奇襲攻撃を実施し、ユーフラテス川とサダム運河に掛かる2本の橋梁を確保するとともにナーザリアを制圧することになっていた。ハイウェイ8号線からハイウェイ7号線が分岐するとともに、ユーフラテス川にサダム運河が合流するナーザリアは交通の要衝であり、ユーフラテス川とサダム運河を渡る橋が2セット合計4本市内に掛かっていた。

西側の2本の橋を貫くハイウェイ7号線ルートはナーザリアの中心部人口密集地対を通るためそれらの橋を占領するには多数の民間人を巻き込む市街戦を覚悟せねばならないため、海兵隊指導部は東側の2本の橋梁を占領する計画を立てた。しかしながら、それらのユーフラテス川に掛かる南東橋とサダム運河に掛かる北東橋を結ぶ4kmの街路沿いにイラク軍部隊が待ちぶせ態勢を取るであろうことは必至であり、そのルートは「アンブッシュ・アレイ(待ちぶせ通り)」と名付けられた。

南東橋と北東橋を占領するには、どうしても「アンブッシュ・アレイ」も制圧しなければならないため、損害を極小にするためには奇襲が必須条件であった。しかし、陸軍第507整備補給中隊が迷い込んで戦闘が発生してしまったために、海兵隊による奇襲攻撃は不可能になってしまった。

海兵隊にとって更に運が悪かったことに、市街地戦でしかも待ち伏せが想定される戦闘には戦車が必須であったが、この襲撃の先鋒を務めるはずの第8戦車大隊は陸軍第507整備中隊救出に急行したため燃料を消費してしまい、燃料補給のために本隊後方の補給部隊まで戻らねばならなくなり、第2海兵遠征旅団によるナーザリア攻撃の先鋒を務めることが出来る戦車は2輌しかなった。本来上陸作戦用に開発された水上を航行する能力がある海兵隊水陸両用戦闘車AAV-7は、装甲が施されているといっても水上を浮かぶために45mmのアルミ鋼板で作られているため、地上戦闘用にEAAKと呼ばれる補強装甲を施したが、イラク軍が使用する14.5mm徹甲弾やRPGなどの攻撃にはひとたまりもなかった。

しかしながら第8戦車大隊が到着するまで侵攻を遅らせていると、ナーザリア侵攻の目的である橋梁が破壊されてしまう恐れもあった。ナーザリアの橋が通行できなくなると、バグダッドを目指す海兵隊の作戦は根本的に狂ってしまうことになるため、一刻も早くナーザリアに突入して南東橋と北東橋を占領する必要があった。

第2海兵遠征旅団の先頭を進む第2海兵連隊戦闘チーム(RCT-2)は、まずユーフラテス川に掛かる南東橋の安全を確保してから、「アンブッシュ・アレイ」に突入してすぐに「アンブッシュ・アレイ」を右折し東側の荒地に出てイラク軍の背後を攻撃しつつ北上してサダム運河にかかる北東橋直前で「アンブッシュ・アレイ」に戻り北東橋を確保する、という作戦を実施することにした。<地図>

アンブッシュ・アレイの悲劇

第2海兵連隊第1大隊A中隊が小銃弾が降り注ぐ中を南東橋を渡り防御陣を構築して南東橋の安全を確保した後、先鋒をつとめる第2海兵連隊第1大隊B中隊は戦車を先頭にAAV-7を後続させて南東橋を渡った。予想通りイラク軍の銃弾やRPGが集中したが、「アンブッシュ・アレイ」に突入するとすぐに右折して東方の荒地に脱出し荒地の北上を開始した。しかし、すぐに戦車とAAV-7は泥濘にキャタピラを取られて立ち往生してしまった。立ち往生したB中隊目掛けて「アンブッシュ・アレイ」で待ち伏せしていたイラク軍が攻撃を開始し、両軍の間で激しい銃撃戦が開始された。

B中隊は後続してくる第2海兵連隊第1大隊C中隊や第2海兵連隊戦闘チーム(RCT-2)司令部にAAV-7やハンビーによる荒地迂回が不可能と連絡しようとしたが、攻撃を加えていた3個中隊間の無線連絡が途絶してしまった。ところが、後続して南東橋を渡ったC中隊は東側荒地を迂回しているはずのB中隊と連絡が取れないのは戦車を先頭に突き進んだ先鋒部隊がすでに「アンブッシュ・アレイ」のイラク軍を制圧して北東橋に到達したからと判断し、「アンブッシュ・アレイ」を高速で突破することにした。結果的に泥濘地を迂回しなかったものの、先鋒のB中隊が「アンブッシュ・アレイ」を制圧したわけではなかったため、C中隊の11輛のAAV-7と3輛のハンビーには小銃弾や機関銃弾が雨あられと降り注いだ。しかし、C中隊は効果的に反撃を加えながら「アンブッシュ・アレイ」を突き進み、AAV-7にロケット弾を受けて重傷者を出しながらも1輛も擱座されることなく北東橋に到達することに成功した。

北東橋を確保し橋頭堡を構築したC中隊に対して、ナーザリア市街からも北東橋北方から猛烈な攻撃が加えられ始めた。計画では、合流して橋頭堡を確保するはずであったB中隊が姿を見せないためC中隊は極めて苦しい戦況に陥った。B中隊同様にC中隊も他の中隊やRCT-2司令部との無線連絡が不調になってしまった。さらに、C中隊には前線航空統制官もいなかったため、海兵隊ヘリコプターを始めとする近接航空支援の要請も出来ず、孤軍奮闘の形となってしまった。

同時刻、すべての車輌が泥濘に足を取られ立ち往生したB中隊は徒歩で北東橋方面に前進を試みていたが、イラク軍からの攻撃も激しさを増しB中隊の状況は悪化する一方であった。そこでB中隊には前線航空統制官がいたため急遽近接航空支援を要請した。運悪く、ナーザリアに急行できる海兵隊攻撃機はその時点では存在しなかったため、B中隊の航空支援要請は海兵隊ヘリコプター経由で空軍に転送され、ペンシルバニア州軍からアメリカ空軍部隊に編入されていた2機のA-10サンダーボルト対地攻撃機がナーザリアの海兵隊部隊の近接航空支援に急行した。

戦闘直後からB中隊はC中隊だけでなくRCT-2司令部との間の連絡も途絶していたため、B中隊が近接航空支援を要請した状況は北東橋で戦闘中のC中隊もRCT-2司令部も知る由もなかった。また、B中隊はC中隊が「アンブッシュ・アレイ」を突破して北東橋に橋頭堡を築いて死守している状況を知らず、海兵隊の最前線は自分たちB中隊であると信じていた。そのような情勢判断に基づいて飛来した空軍A-10対地攻撃機は、B中隊の前方橋梁周辺に多数の“イラク軍装甲車両”を発見し、それらがB中隊を攻撃するために接近するものと判断した。

2機のA-10サンダーボルトは、危機が迫るB中隊の海兵隊員たちを救うため、B中隊北方の“イラク軍装甲車両”に対して30mmアベンジャー・ガトリング機関砲による猛烈な機銃掃射を加えた。しかし、空軍対地攻撃機が機銃掃射した“イラク軍装甲車両”はそこに存在するはずでなかったC中隊のAAV-7水陸両用戦闘車であった。戦車を始めとする重装甲車両を撃破する強力なアベンジャー機関砲の掃射をうけた海兵隊AAV-7はひとたまりもなく、直ちに射撃中止の信号弾を上空に向かって発射したが、その信号弾をイラク軍の反撃と判断したA-10サンダーボルトはさらに機銃掃射を浴びせた。

ようやくC中隊が味方機の攻撃を受けている状況に気がついたRCT-2司令部からA-10サンダーボルトに対する攻撃中止要請により、空軍攻撃機による機銃掃射は止んだ。結局、C中隊の海兵隊員18名が戦死し19名が負傷、5輛のAAV-7が完全に破壊され2両が大破するという、海兵隊にとってはイラク戦争を通じて最大の悲劇が生じてしまった。(ただし、C中隊はサンダーボルトの機銃掃射を受けている最中にも、イラク軍からの猛烈な銃砲撃も受けていたため、戦死18名のうち8名はイラク軍からの銃弾によって斃されたことが確認された。)

任務達成

この同士討ちの悲劇が終わった14時すぎ、後続して進軍してきたRCT-2の第8海兵連隊第2大隊が南東橋に到着し、北東橋を死守しているC中隊やB中隊を始めとする第2海兵連隊第1大隊への救援・増援が開始された。それまで南東橋を確保していたA中隊が、イラク軍の銃火が弱まった「アンブッシュ・アレイ」を突破して北東橋のC中隊・B中隊と合流した。23日の夕方までには、第2海兵連隊第1大隊は北東橋北方の防御陣を強化して、北方のAl Kut方面からのイラク軍の反撃に備えた。南東橋周辺とその後方にはRCT-2本隊が防御陣を形成して、ナーザアリア市街の占領に備えた。

24日にはRCT-2の第8海兵連隊第2大隊の各部隊はユーフラテス川南部のナーザアリア市街のイラク軍陣地を一つ一つ制圧して海兵隊による支配地域を徐々に拡大していった。また、「アンブッシュ・アレイ」からナーザアリア市街中心部にかけてのイラク軍や民兵が立て篭もる建物も虱潰しに制圧する作戦が展開された。北東橋の橋頭堡を固める第2海兵連隊第1大隊にもヘリコプターによる補給が開始され、サダム運河北部での海兵隊支配地域も拡大された。

24日夜半から25日早朝にかけて第1海兵師団の第1海兵連隊戦闘チーム(RCT-1)をはじめ、海兵隊侵攻部隊主力も南東橋に到着し、「アンブッシュ・アレイ」での戦闘によってナーザリアの重要戦略目標である南東橋と北東橋を占領し死守した海兵隊の先鋒第2海兵連隊チーム(RCT-2)の任務は、同士討ちという悲劇を経験しはしたが、達成された。

ジェシカ・リンチ救出

以後、第1海兵連隊戦闘チーム(RCT-1)や第2海兵連隊チーム(RCT-2)そして第15海兵遠征隊(15 MEU)などの各部隊により、4月26日までにはナーザリア市街の大半からはイラク軍やサダム・フセイン派民兵組織は駆逐され、300名以上のイラク兵が投降してきた。その後も、市内にスナイパーなどが散在して抵抗を続けたため、海兵隊による残敵発見掃討作戦は数日間続いた。そして、サダム病院が最後のサダム・フセイン側抵抗勢力の拠点となったため、31日、第15海兵遠征隊は病院周辺地区に対する最後の残敵掃討攻撃の準備に取り掛かった。

ところが第15海兵遠征隊に接触してきたイラク市民から、負傷したジェシカと云う名のアメリカ兵士が病院におり、病院にはゲリラ部隊も陣取っている、という情報を得た。ジェシカは23日に捕虜となった米陸軍第507整備補給中隊のジェシカ・リンチ1等兵と考えられるため、このイラク人協力者に依頼して、更なる病院内の情報を収集した。幸い、この協力者の妻が病院の看護婦であったため、病院内の間取りや周辺敷地の配置を把握することが出来た。そして、ジェシカ・リンチならびに病院に連れ込まれている可能性が高い米陸軍捕虜救出支援のための第20任務部隊(TF-20)が急遽編成された。

TF-20は、病院周辺の地形の把握や配置されているスナイパーの発見と排除などを担当する海兵隊第2威力偵察隊、病院に救出部隊が突入する際に病院内のゲリラ部隊を誘い出すための陽動攻撃を実施する第15海兵遠征隊、病院への突入を担当する海軍特殊部隊SEAL、空軍救難降下部隊、陸軍レンジャー、陸軍特殊部隊DELTA、そして空軍特殊作戦軍AC-130スペクター・ガンシップによって構成された。

3月31日深夜、第15海兵遠征隊が病院郊外のフセイン派拠点に対して砲撃と銃撃を開始すると、第2威力偵察隊の誘導と警戒の中を、4月1日0時、海軍SEALや陸軍レンジャーを始めとする突入部隊を乗せた海兵隊ヘリコプター数機がサダム病院直近に着陸し、特殊作戦部隊が病院に突入した。ただちにジェシカ・リンチ一等兵を救出するとともに、「アンブッシュ・アレイ」で傷付き死亡した海兵隊員と米陸軍第507整備補給中隊員たちの死体を全て収容し、ヘリコプター着陸から25分後には突入部隊は撤収した。こうして、捕虜の救出、戦死者の遺体収容を無事達成し、TF-20の作戦は成功した。

この日、4月1日、をもってナーザリアにおけるイラク軍、サダム・フセイン派ゲリラによる武力抵抗は沈黙した。4月2日、アメリカ海兵隊第2海兵遠征旅団司令官ナトンスキー海兵准将は「悪漢どもはナーザリアの町から逃げ失せた。」とナーザリア平定宣言を発した。

参考文献:

  • John R. Andrew. 2009. U.S. Marines in Battle: An-Nasiriyah 23 March-2 April 2003. Washington D.C.: USMC History Division.
  • Lt.Col. Michael S. Groen et. al., 2006. With the 1st Marine Division in Iraq, 2003: No Greater Friend, No Worse Enemy. Quantico, Virginia: History Division Marine Corps University.
  • Lt.Col. Kenneth W. Estes. 2009. U.S. Marine Corps Operations In Iraq, 2003-2006. Quantico, Virginia: History Division Marine Corps University.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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