アメリカ海兵隊の歴史<111>ボスニア戦闘機搭乗員救出作戦

〜添付図版等の公開準備中〜

ボスニア紛争で スルプスカ共和国軍の動きを監視するためのアメリカ空軍戦闘機がスルプスカ共和国軍に撃墜された。墜落する期待から脱出に成功したものの敵地のまっただ中に取り残されてしまったパイロットを、アメリカ海兵隊救出部隊が手際良く救出したTRAP(搭乗員救出)作戦。

  • 実施期間: 1995年6月8日
  • 実施場所: ボスニア
  • 作戦の性格: TRAP(航空機及び搭乗員救出作戦)
  • 関与部隊: アメリカ海兵隊第24海兵遠征隊(24MEU)、アメリカ海軍強襲揚陸艦キアサージ(LHD-3)

1992年に勃発したボスニア紛争に介入したNATO軍は、国連安保理決議781号に応じてボスニア・ヘルツェゴヴィナ上空に飛行禁止空域(no-fly zone)を設定し、スルプスカ共和国(ボスニアン・セルビア)陣営の飛行違反を監視し、後には地上戦闘に従事するNATO軍に対する近接航空支援も実施した。1993年4月12日から1995年12月20日まで続いたこのNATO軍の作戦(Operation Deny Flight)でNATO加盟12カ国の各種航空機により100,420ソーティ(出撃)に及ぶ監視飛行を実施した。

1995年6月2日、イタリアのAviano航空基地からアメリカ空軍第555戦闘航空隊所属のF-16Cファイティング・ファルコン2機がボスニア・ヘルツェゴヴィナ上空の飛行禁止空域目指して飛び立った。地上ではスルプスカ共和国軍(ボスニアン・セルビア軍)がNATO軍航空機を撃墜しようと、2K12KUB自走式低中高度防空ミサイル(NATO名SA-6)を展開させて待ち構えていた。

スルプスカ共和国軍の2K12KUBの真上をオグラディ大尉操縦のF-16Cとライト大尉操縦のF-16Cが通過した瞬間、2発の対空ミサイルが発射された。1発はオグラディ機とライト機の間で爆発したが、もう1発はオグラディ機に命中した。ライト大尉はオグラディ機が炎に包まれ真っ二つになるのを確認したが、脱出したオグラディ大尉のパラシュートを確認することは出来なかった。

実際には、オグラディ大尉は墜落するF-16Cから無事脱出しパラシュートで敵地に降下していた。大尉はサバイバルキットを手にすると素早く身を隠し、空軍パイロットが教えこまれているように墜落地点からできるかぎり離れるように森林山岳地帯を進んだ。やはり、撃墜されたパイロット・マニュアルの手順通り、墜落後しばらくは自分自身からは救援を求める無線発信は控え、味方の捜索シグナルを受信しやすい場所を目指した。食料が尽きると、「生存、回避、抵抗、離脱」(SERE)トレーニングを生かして、植物の葉、草、そして昆虫などを食し、雨水を飲みながら6日間を過ごすことになる。

撃墜されてから4日間待ち、オグラディ大尉は現在位置を知らせるための微弱信号の発信を開始した。6月8日夜中、第555戦闘航空隊F-16のパイロットと大尉は交信に成功し、大尉の身元と生存が確認された。同日4時40分、NATO軍はアメリカ海軍強襲揚陸艦キアサージ(LHD-3)で待機中のアメリカ海兵隊第24海兵遠征隊(24MEU)隊長バーント大佐に救出作戦実施命令を発令した。

空軍F-16Cが撃墜された直後から、アドリア海洋上の24MEUでは搭乗員救出作戦(TRAP)を準備しており、直ちに出動を開始した。バーント大佐が直接率いる24MEUの第8海兵連隊第3大隊から選抜された海兵隊員たち51名が2機の海兵隊CH-53シー・スタリオン大型輸送ヘリコプターに分乗し、キアサージから発進した。それを護衛するために2機の海兵隊AH-1Wスーパー・コブラ攻撃ヘリコプターと、2機の海兵隊AV-8ハリアージェット戦闘機もキアサージを離陸しオグラディ大尉が待つボスニア上空へと向かった。

6機の航空機とそれに乗り込んだ海兵隊TRAP部隊に万一の事態が発生した場合に備えて、全く同じ陣容の救出部隊がキアサージで待機していた。そしてTRAP作戦を援護するために、アメリカ海軍EA-6Bプロゥワー電子戦機2機、海兵隊F/A-18Dホーネット2機、それにNATO軍AWACS早期警戒管制機も飛び立った。

6時30分頃、救援部隊の先鋒を務める海兵隊スーパー・コブラがオグラディ大尉が待つ位置を確認し、付近に発煙弾を打ち込んだ。6時35分、救援部隊が乗り込んだシー・スタリオンが岩山頂上付近から上がる発煙弾のスモークを発見し極めて狭い着地地点にヘリコプターを着陸させた。着陸と同時に1機のヘリコプターからは海兵隊員たちが飛び降りて周囲に警戒網を敷き、もう1機からは大尉救出隊員が飛び出した。最後の力を振り絞り救出部隊に駆け寄ったオグラディ大尉は手際よくヘリコプターに収容され、それとともに警戒態勢をとった海兵隊員たちも順次ヘリコプターに乗り込んだ。点呼を取ると同時に、2機のシー・スタリオンは岩山を離脱、着陸から離陸までに要した時間は7分以下であった。

それまで厚い雲に覆われていたスルプスカ共和国軍が陣取っているボスニア上空から、この頃雲が消え去り、レーダーに探知されないように低空をキアサージに向かう海兵隊ヘリコプターが地上のスルプスカ共和国軍から目視で発見される可能性が高まった。そのため、レーダー網を戦闘機や攻撃機で破壊してしまう許可をアメリカ軍は求めたが、スルプスカ共和国軍との本格的戦争に発展するのを恐れたNATO軍は攻撃を許可しなかった。そのため、海兵隊ヘリコプターはそのまま低空(地上から45m)を高速(時速280km )で突っ切って帰還しなければならなかった。

案の定、スルプスカ共和国軍に海兵隊ヘリコプターは発見された。直ちにセルビア兵は携帯式地対空ミサイルを2発発射した。海兵隊パイロットは急旋回を繰り返しながらミサイルをかわしたものの、セルビア兵が乱射するAK-47自動小銃弾が多数2機のヘリコプターに命中した。幸い、小銃弾はヘリコプターにとって致命傷となることはなく、ヘリコプター室内まで打ち込まれた銃弾も海兵隊員の水筒で止まり記念品となった程度であった。ただし、高速でのジグザグ飛行は海兵隊始まって以来の劣悪な乗り心地の飛行であったと言われている。

7時15分、2機のスーパー・スタリオンは無事海上上空に達し、7時30分には全ての海兵隊航空機が強襲揚陸艦キアサージに着艦した。このようにして、海兵隊にとって初めての実戦でのTRAP作戦は、無事にオグラディ大尉を救出するのに成功し、救出部隊にも損害を出さずに成功裏に完了した。

この救出作戦は、全く形を変えてではあるが、ジーン・ハックマンとオーウェン・ウィルソン共演の「Behind Enemy Lines」の元になったと云われている。

参考文献:

  • R.R.Keene. 1999. “Kosovo: On The Ground.” Leatherneck: MCA&F.
  • Ross W. Simpson. 1995. “The REscue of BASHER 52.” Leatherneck: MCA&F.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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