アメリカ海兵隊の歴史<110>クウェート奪還作戦〜湾岸戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 1991年2月24日〜2月28日
  • 実施場所: サウジアラビア、クウェート、イラク
  • 作戦の性格: 陸上戦闘(砂漠戦)
  • 参加部隊: 第一海兵遠征軍(第1海兵師団、第2海兵師団)、陸軍第2機甲師団第一旅団(タイガー旅団)
  • 敵対勢力: イラク軍

多国籍軍陸上部隊によるサウジアラビアからクウェート国境ならびにイラク国境を超えた侵攻作戦(「砂漠のサーベル」作戦)の発動日(G-Day)は2月24日が予定されていた。そこで、1月17日から実施されていた多国籍空軍によるイラク軍に対する徹底した航空攻撃は2月23日まで継続された。

多国籍軍はサウジアラビアのクエート国境沿い(アメリカ海兵隊第Ⅰ海兵遠征軍、サウジアラビア軍、クウェート軍、オマーン軍、アラブ首長国連邦軍、シリア軍、エジプト軍)ならびにイラク国境沿い(アメリカ陸軍第7軍、イギリス陸軍第1機甲師団、アメリカ陸軍第19空挺軍団、フランス陸軍第6軽機甲旅団、アメリカ陸軍第5特殊作戦軍団)に配置についた。サウジアラビアからクウェート・シティへの最短ルートのクウェート側には、クウェートを占領しているイラク軍がサダム・ラインと呼ばれる強力な防御隊を構築し機甲部隊を中心としたイラク軍精鋭が多国籍軍を待ち構えていた。そのサダム・ラインを突破する任務は第Ⅰ海兵遠征軍に与えられた。そしてクウェート・シティをアラブ諸国連合軍とともに開放することが第Ⅰ海兵遠征軍の主目的に設定された。

第Ⅰ海兵遠征軍の第1海兵師団はサダム・ライン右翼を突破し、アメリカ陸軍第2機甲師団第1旅団(タイガー旅団)の応援を得た第Ⅰ海兵遠征軍第2海兵師団はサダム・ライン左翼を突破し、クウェート・シティを目指す。海兵隊によりサダム・ラインのイラク軍を撃破するのに呼応して、第Ⅰ海兵遠征軍の右翼ペルシャ湾沿岸域からサウジアラビア・オマーン・アラブ首長国連邦連合軍部隊はクウェート国境を越えてクウェート・シティへと進撃する。同様に、第Ⅰ海兵遠征軍の左翼内陸国境からは、サウジアラビア・クウェート・シリア・エジプト連合軍がクウェート国境を越えてクウェート・シティへと進撃する。そして、最終的にアラブ諸国連合軍がクウェート・シティに突入するという作戦であった。

G-Day(2月24日)

午前4時、第1海兵師団は国境を越えてクウェートに侵攻した。行く手を遮るサダム・ラインは2重の地雷原を中心とした障害帯である。対地雷装置を装備したM60戦車とAAV7水陸両用強襲車により地雷を除去しつつ障害帯に通路を開削していく作業が開始された。反撃を企てるイラク軍機甲部隊やイラク軍陣地に対しては海兵隊AV-8ハリアー戦闘攻撃機やAH-1コブラ攻撃ヘリコプターにより攻撃を加え、地上の海兵地部隊の進撃を支援した。

午前5時30分、第2海兵師団も二重の障害帯へと突入した。増強され第2海兵師団に組み込まれたタイガー旅団のM1A1戦車、海兵隊のM60戦車、AAV-7水陸両用強襲車、戦闘装甲ブルドーザーを連ねて、地雷原に数本の通路を開削しつつ前進した。第1海兵師団が突破した部分よりも多数の地雷が埋められていたため、数量の戦車が擱座させられ戦死傷者まで出すなど突破には難航した。

昼過ぎにはサダム・ラインの東側に14本の突破路を開削した第1海兵師団とサダム・ラインの西側に6本の突破路を開削した第2海兵師団はそれぞれM-60戦車、M1A1戦車、それに対戦車ミサイルを装備したHMMWVやLAV-25などを先頭にしてクウェート・シティ方面を目指し進撃した。ときおりイラク軍機甲部隊と戦闘を交えたが、海兵隊第3航空隊のAH-1W攻撃ヘリコプターやAV-8B攻撃機それにF/A-18戦闘機による近接航空支援を受けながら突き進む海兵隊侵攻部隊は、旧式戦車(T-55, T-62)を主力にするイラク軍諸部隊を次々に撃破しつつ快進撃を続けた。

G-Dayの日没までには第Ⅰ海兵遠征軍侵攻部隊は国境から20マイル進撃し、8千名以上のイラク兵を捕虜にした。この日の夜間には、多数の海兵隊CH-46中型輸送ヘリコプターとCH-53大型輸送ヘリコプターが、第1海兵師団と第2海兵師団の前進拠点に補給物資を搬送し、イラク兵の捕虜を後送するというピストン輸送を繰り返し実施した。

G+1-Day(2月25日)

第Ⅰ海兵遠征軍左翼の第2海兵師団は最左翼に陸軍第1機甲師団タイガー旅団、中央に第6海兵旅団、右翼に第8海兵旅団を配して前進を開始した。防御態勢を立て直そうとするイラク軍の抵抗は激しさを増したが、海兵隊各種航空機の近接航空支援をうけつつイラク軍機甲部隊を次々と撃破した。アイスキューブと呼ばれた格子状の建造物エリアでは、タイガー旅団と海兵隊の戦車部隊ならびに歩兵部隊のコンビネーションにより頑強に抵抗するイラク軍を制圧し、夜半までにはイラク軍の抵抗は沈静化した。

一方、第Ⅰ海兵遠征軍の右翼を進む第1海兵師団はAl Burqan油田地域でイラク軍による頑強な抵抗を受け数時間にわたる激戦が展開された。AH-1W攻撃ヘリコプター、AV-8C戦闘攻撃機、M60戦車、LAV25軽装甲車の組み合わせにより、イラク軍戦車部隊を徐々に撃破し、ジリジリと油田地帯を押し進んだ。同時に、昨日は占領せずに迂回して取り残しておいたAhmad Al-Jabir飛行場施設に歩兵を中心とする海兵隊部隊が突入して完全に制圧した。結局この日一日で、第1海兵師団は、およそ100輛のイラク軍装甲戦闘車両を撃破し1,500名以上のイラク兵を捕虜にした。この日、 第Ⅰ海兵遠征軍は、クウェート・シティまであと10マイルを残す地点まで進出した。

G+2-Day(2月26日)

夜通し十二分な補給を受けた第Ⅰ海兵遠征軍の本日の攻略目標はクウェート国際空港とAl-Mutl’a峠であった。

Al-Mutl’a峠はクウェート・シティと交通の要衝Al-Jahraの中間に位置する高地で、この地域をコントロールするとイラク軍によるクウェート・シティ占領軍への補給は途絶するとともに、クウェート・シティを占領しているイラク軍の退路も絶たれることになる。Al-Mutl’a峠の占領は第2海兵師団が担当し、その先鋒は陸軍第1機甲師団から第2海兵師団に増強されてきたタイガー旅団戦車部隊が務めた。

アメリカ海兵隊の動きを察知したイラク軍司令部は、クウェート・シティ占領部隊が包囲されてしまうと考え、撤退命令を発した。しかし、Al-Mutl’a峠を抜けてAl-Jahraに抜けイラク方面に撤収すべくクウェート・シティを出発したイラク軍部隊は、Al-Mutl’a峠周辺の高地でAl-Mutl’a峠を目指して急行してきたタイガー旅団と第3海兵大隊に捕捉され激戦となった。しかし、イラク軍の対空砲を徹底的に破壊したタイガー旅団戦車部隊は海兵隊攻撃ヘリコプターや海兵隊戦闘攻撃機それにアメリカ空軍A−10対地攻撃機の強力な近接支援を受けて、イラク軍戦車部隊を完全に撃破し、Al-Mutl’a高地を制圧した。

イラク軍の戦車を始めとする装甲戦闘車両や車輌は、空と陸からの掃射を受けて徹底的に破壊されたためAl-Mutl’a高地を抜けるルートは「死のハイウェイ」と名付けられた。命からがら車輌から脱出したイラク兵たちは続々と捕虜となるため投降した。

タイガー旅団と第3海兵大隊がAl-Mutl’a高地を制圧する間に、その他の第2海兵師団の部隊はAl-Jahraを目指した。Al-Jahra郊外に陣地を設置し待ち受けていたイラク軍部隊は、新型のT-72戦車を備えた精強部隊で、第2海兵師団の先鋒の第6海兵旅団と激しい戦闘を交えた。結局、第2海兵師団はイラク守備隊を撃破して、Al-Jahraの市内に突入した。これは、湾岸戦争の地上作戦において多国籍軍側部隊が初めてクウェートの市街地に足を踏み入れ、クウェート市民と接触した出来事であった。比較的容易に投降してくる他のイラク軍部隊と違い、Al-Jahraを守備していた部隊は頑強に戦闘し降伏しなかったため、捕虜は少なかった。

一方、クウェート国際空港を目指して進撃していた第1海兵師団は、国際空港前面でイラク軍の強力な機甲部隊と衝突した。そのため、海兵隊航空部隊による近接航空支援に加えてペルシア湾洋上からはアメリカ海軍戦艦ウィスコンシン(BB-64)からの艦砲射撃もイラク軍側に加えて頑強な抵抗を排除し、国際空港に迫っていった。結局、夜中すぎまで、国際空港をめぐる攻防戦は続いたが27日、0330時までにはクウェート国際空港は完全に第1海兵師団がコントロールした。

G+3-Day(2月27日)

クウェート国際空港、Al-Mutl’a高地それにAl-Jahraを占領した第Ⅰ海兵遠征軍各部隊は、海兵隊の侵攻地域の右翼海岸沿いにクウェート・シティに接近してくるサウジアラビア・オマーン・アラブ首長国連邦連合軍部隊と、海兵隊の侵攻地域の左翼内陸部を進撃してくるサウジアラビア・クウェート・シリア・エジプト連合軍部隊の到着を待っていた。

午前5時、内陸を進んできた連合軍部隊の先鋒エジプト軍部隊がタイガー旅団の守備する地点に到達し、午前9時までには全てのサウジアラビア・クウェート・シリア・エジプト連合軍部隊が第2海兵師団の前進拠点を通過してクウェート・シティに向かった。第2海兵師団はAl-Mutl’a高地それにAl-Jahraにかけての地域での残敵掃討作業を開始したが、Al-Jahraで待っていたのはクウェート・レジスタンス達による歓迎夕食会であった。

一方、クウェート国際空港を完全に制圧し、連合軍部隊の到着を待っていた第1海兵師団は、クウェート・シティに小規模な武装偵察隊を潜入させ状況の把握を試みた。逃げ遅れたイラク兵による散発的な抵抗はあったものの、すでにクウェート市民たちはクウェート国旗とアメリカ国旗を掲げて多国籍軍のクウェート到着を待っていた。

結局クウェート・シティは、多国籍軍によって開放され、クウェート・シティならびにAl-Jahraそれのその周辺地域におけるイラク残留兵による抵抗も、翌28日早朝までには完全に制圧され、クウェートでの戦闘は終結した。

参考文献:

  • Department of Defense. 1992. Final Report To Congress: Conduct of the Persian Gulf War. United States Government Printing Service.
  • アメリカ海兵隊戦史部. 1999. U.S. Marines in the Persian Gulf 90-91 Combat Service Support (PCN 190 003 146 00). Washington D.C.: USMC History Division.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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