- 実施期間: 1991年1月29日〜2月1日
- 実施場所: サウジアラビア、ハフジ市
- ケース性格: 陸上戦闘(砂漠戦)
- 参加部隊: サウジアラビア国家警備隊、カタール軍戦車部隊、アメリカ海兵隊第3海兵旅団(監視部隊)第3大隊(捕虜奪還部隊)砲兵部隊
- 敵対勢力: イラク軍第1機械化師団、第5機械化師団、第3戦車師団
1991年1月17日に勃発した「湾岸戦争」では、当初、多国籍軍による徹底したイラク軍に対する空襲が実施され陸上での戦闘は行われてなかった。多国籍軍側は、空襲によりイラク空軍、レーダー基地、長距離ミサイルを徹底的に破壊するとともに地上軍にも壊滅的打撃を与えた後に、クウェート解放のための地上での作戦を実施する予定であった。
ところが多国籍軍の徹底した空爆が続き劣勢に追い込まれていたイラク軍の士気を高めるため、サダン・フセインは地上軍によりクウェートからサウジアラビアのハフジに奇襲反撃を実施する計画を立案し、1月27日にバスラでイラク軍将軍たちと作戦実施を確認した。
ハフジはクウェート国境に近いサウジアラビアの都市である。ハフジ北方のサウジアラビア・クウェート国境沿いにはペルシア湾岸から内陸に至る8ヶ所に多国籍軍の監視所が設けられていた。それらの監視所には第1海兵師団、第2海兵師団から抽出された部隊ならびにサウジアラビア国家警備隊、サウジアラビア海兵隊、モロッコ陸軍の諸部隊が配置されていた。
1月28日、アメリカ空軍のE-8Aジョイントスターズ早期警戒機がハフジ市の向かいのクエート側でイラク軍部隊が動きを見せていることを探知した。また、国境沿いのいくつかの監視所でもイラク軍が集結している気配を察知した。それらの情報はアメリカ中央軍司令部に報告されたが、中央軍指導部はイラク軍に対する空爆作戦に忙殺されており、地上での動きには関心を示さなかった。(その結果、イラク軍は奇襲攻撃を、限定的ではあるものの、成功させることになるのである。)
1月29日夜、第1機械化師団、第5機械化師団、第3戦車師団から抽出された兵力およそ2,000のイラク侵攻部隊は数百輌の戦車・装甲戦闘車(T-72戦車、T-60戦車、T-55戦車、BMP-1歩兵戦闘車など)に分乗してクウェート側からサウジアラビア国境に押し寄せた。
夜8時頃、第4監視所で配置についていた海兵隊監視部隊は装甲戦闘車両の大群が接近してくる状況を捕捉し司令部に報告しようとしたがコミュニケーションラインが確立するまで30分もかかってしまい、多国籍軍側は迫り来るイラク軍に対して発砲を開始した。そのため、イラク軍第6機甲旅団からの攻撃が開始され、海兵隊の軽装甲戦闘車LAV-25しか装甲車両や重火砲を保有しない多国籍軍監視部隊は第4監視所から撤退を開始した。ようやく連絡が取れたため、支援にアメリカ空軍A-10対地攻撃機数機が飛来したものの、海兵隊LAV-25が同士討ちにより撃破され11名の海兵隊員が戦死してしまった。結局、第4監視所は破壊されてしまったものの、A-10をはじめとする多国籍軍による航空攻撃が激しくなったため第6機甲師団は国境から撤退した。
湾岸戦争での最初の陸戦となった第4監視所での戦闘が行われている頃、海兵隊監視部隊が配置についていた第1監視所や第2監視所にもイラク軍第5機械化師団の100輛近いBMP歩兵戦闘車や数十輌のT-62戦車が殺到した。直ちにA-10攻撃機やF-16戦闘攻撃機により徹底した反撃を実施した結果、イラク軍は国境から撤退した。
これらの海兵隊の監視所への侵攻と時を同じくして、サウジアラビア軍を中心とする多国籍軍監視部隊へもイラク軍第5機械化旅団の戦車・装甲戦闘車部隊が攻撃を仕掛けた。サウジアラビア国家警備隊は、イラク軍との本格的戦闘は避けるよう指示されていたため、イラク軍の砲撃が始まると多国籍空軍への航空支援を依頼するとともに直ちに撤退を開始した。アメリカ空軍AC-130ガンシップ(対地攻撃機)が飛来してイラク第5機械化旅団の装甲車両数輛を撃破したものの、応援の攻撃機が来援しなかったためイラク軍部隊の進撃を止めることはできなかった。結局、サウジアラビア軍が配置についていた区域を突破したイラク軍部隊は1月30日零時30分までにハフジ市を占領した。
サウジアラビア軍の司令官Khaled bin Sultan将軍は、アメリカ陸軍ノーマン・シュワルツコフ大将に対して航空攻撃によってハフジ市のイラク軍を撃破してくれるよう要請した。しかし、シュワルツコフ司令官は、サウジアラビア軍を中心とする陸上部隊によってハフジを奪還するべきであるとして、この要請を拒絶した。
多国籍軍は、サウジアラビア軍を中心とした部隊によりハフジ奪還のための反撃を行うことにし、同20日、サウジアラビア国家警備隊ならびにカタール戦車部隊をアメリカ海兵隊とアメリカ陸軍特殊部隊が支援する形で反攻を開始した。ハフジを占領しているイラク機甲部隊の火力が強力であったため、奪還部隊に対してアメリカ海兵隊砲兵部隊が援護砲撃を実施した。
ところがこの日の夜、輸送任務中に道に迷ったアメリカ陸軍の大型トレーラー部隊がハフジ市内に迷い込んでしまった。イラク軍からの集中銃撃を受けたトラックのうち一台が捕獲されてしまった。そこで、アメリカ海兵隊第3海兵連隊第3大隊が救出部隊を編制してハフジ市内に突入した。しかしながらアメリカ陸軍兵士たちはすでに捕虜となりイラク軍に連行されてしまったため、救出はできなかった。時を同じくして、イラク軍攻撃に向かったアメリカ空軍C-130対地攻撃機がイラク軍の対空ミサイルによって撃墜され搭乗員14名全員が即死した。
1月31日朝、サウジアラビア国家警備隊第5、第7、第8大隊とカタール軍が総力を挙げてハフジ市に突入した。多国籍軍は、徹底した航空攻撃をイラク軍に加え続け、徐々にイラク機甲部隊は打撃を被っていった。夜になっても多国籍軍の空襲とサウジアラビア軍・カタール軍の攻撃は継続され、多数のイラク軍装甲車両が撃破された。2月1日になると、イラク側の反撃は散発的になり、結局イラク兵は降伏しハフジはサウジアラビアに奪還された。
結局この戦闘で11名の海兵隊員が同士討ちにより戦死、C-130が撃墜されたため14名の空軍将兵が戦死し、米軍には合わせて25名の戦死者が出た。サウジアラビア・カタール軍には18名の戦死者を数え、多国籍軍側損害は戦死43名、戦傷52名であった。この他アメリカ空軍のC-130ガンシップ(対地攻撃機)1機が撃墜され、カタール軍のAMX-30戦車2輛が撃破され、サウジアラビア軍のV-150軽装甲車両10輛が撃破された。またアメリカ海兵隊のLAV-25装甲車両2輛が同士討ちによって破壊された。
一方のイラク軍は、戦死71名、戦傷148名、行方不明702名とされているが、アメリカ側は少なくともイラク軍の戦死者は300名としている。またイラク軍の戦車・装甲戦闘車輛は少なくとも90輛以上が撃破された。
この湾岸戦争始まって以来初の地上戦によっても、多国籍軍は地上での侵攻作戦は開始せず、これまで通りにイラク地上軍の戦力を破壊するための徹底的な空襲を継続した。多国籍軍による、地上作戦が開始されるのは更に3週間の空爆を続けた後の2月24日になってからである。
参考文献:
- Department of Defense. 1992. Final Report To Congress: Conduct of the Persian Gulf War. United States Government Printing Service.
- アメリカ海兵隊戦史部. 2008. U.S.Marines in Battle: Al-Khafji(PCN 106 000 400). Washington D.C.: USMC History Division.
- アメリカ海兵隊戦史部. 1999. U.S. Marines in the Persian Gulf 90-91 Combat Service Support (PCN 190 003 146 00). Washington D.C.: USMC History Division.
- Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.
〜添付図版等の公開準備中〜