アメリカ海兵隊の歴史<108>駐ソマリア大使館撤収

  • 実施期間: 1991年1月1日〜1日
  • 実施場所: ソマリア、モガディシオ
  • 作戦の性格: NEO(非戦闘員救出作戦)
  • アメリカ海兵隊: 第4海兵旅団Special-MAGTF
  • アメリカ海軍: 強襲揚陸艦グアム、揚陸輸送艦トレントン、SEAL
  • アメリカ空軍: AC-130ガンシップ

1990年末ソマリアの首都モガディシオのアメリカ大使館は武装勢力や暴徒に取り囲まれ危険な状況に直面していた。アメリカ大使の要請により、アメリカ市民や大使館員撤収のためアメリカ海兵隊を中心とする救出部隊が派遣され、モガディシオから大使館員を始め30カ国の合計281名を無事救出撤収した。湾岸戦争の影に隠れてしまったかたちになったが、見事に成功した非戦闘員救出作戦である。

ソマリアでは1980年代より武力による衝突も含めて混乱を極めていたが、1990年末には首都モガディシオでも多数の死者を数えるにいたり、アメリカをはじめ諸国外交団すらも見の危険を感ずる段階に立ち至った。そしてモガディシオ北東部に位置し広大な敷地を有するアメリカ大使館施設内だけがかろうじて安全な場所であったものの、そこにも武装勢力を始めとする暴力の危険が迫ってきた。

1991年1月1日、ついにアメリカ大使ジェームス・ビショップは、国務省に対してアメリカ外交団の撤退許可を要請した。(じつはビショップ大使はリベリア大使を務めた際も、緊急撤収要請をした経験があった。)1月2日、国務省から国防総省へ大使館ならびにアメリカ人救出要請が伝達され、海兵隊特別MAGTFチームを編成して海軍艦艇で急送してNEO(非戦闘員救出作戦)を実施するための部隊を編成することとなった。

当時、海兵隊を含むアメリカ軍はOperation Desert Shield実施中であり、ペリシア湾やアラビア海には多くのアメリカ海軍艦艇が存在していたものの、全て作戦行動中であった。そこでOperation Desert Shield従事中の強襲揚陸艦グアム(LPH-9)と輸送揚陸艦トレントン(LPD-14)を、モガディシオでの非戦闘員救出作戦(NEO)の母艦として転進させることにした。

それらの軍艦に、第4海兵遠征旅団から抽出したNEO実施上陸部隊(SP-MAGTF)と空中給油能力が備わっているため航続距離が長い海兵隊CH-53Eスーパー・スタリオン大型輸送ヘリコプター2機、海兵隊の標準装備とも言えるCH-46E シー・ナイト中型輸送ヘリコプター2機を割り当てると共に、海軍の特殊作戦部隊であるSHEALsから9名の隊員を加えて揚陸艦でモガディシオ沖を目指して出動した。この海軍・海兵隊部隊によるソマリアからの日戦闘員撤収作戦、Operation Eastern Exit、を空から支援するために空軍のAC-130ガンシップも派遣されることとなった。

救出部隊艦隊がアラビア海をソマリア目指して南下していた1月4日には、モガディシオのアメリカ大使館は武装勢力や暴徒に囲まれいよいよ危機的な状況となりつつあった。モガディシオ最後の安全地帯である(と言っても時折武装した暴徒が侵入する状況となっていた)アメリカ大使館内では、アメリカ大使館の警備にあたっていた海兵隊保安隊員が機密文書を焼却したり、暗号装置や通信設備を破壊するとともに、暴徒の乱入に備えて警戒態勢をとっていた。

このように危機が迫りつつあったため、揚陸艦がモガディシオ沖に接近してから救出部隊を発進させては遅すぎると判断し、5日0345時(ソマリア時間)モガディシオから466海里(およそ863km)ほど離れた洋上を急行する強襲揚陸艦グアムから、60名の海兵隊員とSEAL隊員を搭載したCH-53E大型ヘリコプター2機がモガディシオ目指して発進した。2機のCH-53Eには、どちらか1機が墜落あるいは何らかの理由により到着できなくても救出活動が可能なように、司令部要員、SEAL隊員、海兵隊員をバランスよく配置した。途中、バーレーンから飛来した海兵隊の2機のKC-130空中給油機から困難な夜間空中燃料補給を2度にわたって受けながら、午前6時頃モガディシオのアメリカ大使館上空に到着した。

海兵隊CH-53が到着した時には100名ほどの武装した暴徒が大使館の塀にはしごを掛けて乱入しようとしている状況であった。暴徒の頭上をヘリコプターがかすめたため、強烈なローターの風圧で暴徒たちは塀から離れた。引き続きCH-53の到着に合わせて上空に現れた空軍AC-130 ガンシップが威嚇射撃態勢を取り、ヘリコプターからは海兵隊員とSEAL隊員が避難者たちの救出作業を開始した。

着陸してから1時間と経たない7時20分、2機のCH-53Eに第一陣61名の避難者(大使館員ではない民間のアメリカ市民とトルコ大使、UAE大使それにナイジェリア大使)たちを乗り込ませてモガディシオ沖をめがけて急行中の揚陸艦目指して離陸した。途中、2機のヘリコプターはおよそ2,000km彼方のオマーンから飛来した1機の海兵隊空中給油機から極めて困難な空中給油をしてモガディシオからおよそ350海里の洋上で無事LPH-9グアムに着艦した。10時40分であった。しかしながら、ひき続いて予定されていたCH-53Eによる2回目の救出作戦は、アメリカ中央軍海軍司令部によってキャンセルさせられ、2機のCH-53Eは輸送揚陸艦トレントンに移り任務を終了した。

その頃アメリカ大使館では、海兵隊が大使館の建物周囲を防御態勢で固め、暴徒たちからは時おり海兵隊員に向かって銃弾が打ち込まれたが、海兵隊側からは発砲はしなかった。ところが、アメリカ大使館から数ブロック離れた軍事協力事務所(OMC)と呼ばれる建物に数名のアメリカ人とその他の外国市民が取り残されていた。そこで、簡易装甲処置を施した自動車に海兵隊員とSEAL隊員が乗り込み大使館から暴徒の囲みを突き破ってOMCに突入しアメリカ民間人・フィリピン市民・ケニア市民合わせて22名を収容して、再び蝟集している暴徒の群れを突き抜けて大使館に救出してくるという出来事もあった。

その後、モガディシオの状況は完全に収集がつかなくなってしまったため、モガディシオに残留していた外交団の中にはアメリカを頼って国外脱出を図ろうとする国も少なくなかった。アメリカ側は、いかなる国の外交団といえども、アメリカ大使館に避難してきたものは後続が予定されている救出ヘリコプターによって退避させることを厭わない方針を明らかにした。しかし、海兵隊とSEALによる防衛体制は大使館を防御するだけで手一杯であったため、アメリカ大使館までの避難に関しては各国外交団が独自に安全を確保する以外手段はなかった。イギリス外交団やソビエト大使を含むソ連外交団などはソマリア警察に高額の手数料を支払い警護団を構成してもらいアメリカ大使館まで避難することができた。

ソマリアFSN指導者やソマリアの人々もアメリカ大使館からの国外逃亡を希望した。しかし、ビショップ大使は、国際法によると内戦状態での当事国の人々の逃亡は非戦闘員撤収のルールに反するという理由と、そのような逃亡を支援することはアメリカが内戦に関与することとなり撤収作戦全体が更に危険に晒されてしまうため、ソマリア人の避難は断固として拒絶した。

予定されていた第2陣のCH-53Eによる救出部隊によって大使館の警備や撤収作業のための海兵隊員が増強されるはずであったが、その部隊がキャンセルされたため、第一陣で到着した海兵隊員・SEAL隊員それに大使館の海兵隊警備隊員だけで、大使館の防衛と脱出準備(ECC)を実施しなければならなくなった。そこで、大使を始めとする大使館員たちも武力行使以外の作業やヘリコプター着地ゾーンの整備などを分担して救援部隊の到着を待った。

1月5日夜半から6日未明にかけて、海兵隊CH-46E中型輸送ヘリコプターによる撤収作戦が実施された。5機のCH-46Eを1編隊とする救出部隊2個編隊が2度揚陸艦と大使館を往復して、つまり四波の救出飛行により大使館員を始めとする非戦闘員と救援部隊全員を撤収させることになった。モガディシオ上空を旋回する空軍のAC-130により大使館での撤収活動を空から援護する計画であった。そして予備のヘリコプターが、万一の事態に備えて発進態勢をとって待機して万全を期した。

1月6日午前0時43分(ソマリア時間)、モガディシオに十分接近していた強襲揚陸艦グアムから海兵隊CH-46Eによる救出部隊第一波が大使館を目指して飛び立った。大使館では海兵隊前進航空管制員(FAC)によりCH-46EならびにAC-130を誘導した。午前1時、第一波のCH-46Eが大使館に整備された着陸ゾーンに到着し、20分以内に75名の避難者たちを手際よく搭乗させて、直ちにLPH-9グアム目指して大使館を後にした。第一波と入れ替わりに、1時33分、第二波のCH-46E5機が大使館に着陸、やはり手筈通り避難者たちを手際よくヘリコプターに乗り込ませて1時51分には離陸した。

しかし、この時、大使館のゲートを守っていたソマリア軍指揮官(すでにアメリカ側から金銭の支払を受けていた)が、このようなヘリコプターによる脱出をソマリアは許可していたいため、ヘリコプターを攻撃すると警告しだした。そこでアメリカ大使と海兵隊指揮官たちがソマリア側と交渉を開始した。この交渉中に第三波の海兵隊ヘリコプター5機が大使館に到着したが、ソマリア側からの攻撃はなされなかった。更に大使たちはソマリア軍指揮官と交渉し、現金数千ドルと大使館の自動車数台を指揮官に贈ることでついに決着した。しかし第三波出発ギリギリまでビショップ大使は交渉していたため護衛のSEAL隊員たちとともに残留し、第三波のうち4機が2時10分に大使館を離陸した。

2時20分、最終救援ヘリコプター5機が大使館に到着した。大使が残留したため、手順に混乱をきたしたものの、海兵隊員たちは警備態勢を解き素早くヘリコプターに撤収した。6機の海兵隊ヘリコプターが発進しかけたその時、ヘリコプター搭乗員が2名の海兵隊員が通信態勢を取り残留しているのを発見した。2名は後続のヘリコプターが到着するものと勘違いして撤収していなかった。2時49分、これら最後の海兵隊員がヘリコプターに収容されると同時にCH-46E中型輸送ヘリコプターはアメリカ大使館を飛び立った。

最後の海兵隊ヘリコプターが大使館を離陸した直後、武装勢力や暴徒たちが大使館内になだれ込み徹底した略奪が開始された。それらの模様は、飛び去るCH-46Eのクルーからも視認できた。

6日午前3時23分、最後まで大使館にとどまっていたビショップ大使と海兵隊員たちを乗せた6機のCH-46EがLPA-9グアムに無事着艦した。これで、前日第一陣救援部隊の2機のCH-53Eが強襲揚陸艦グアムを発進してからおよそ24時間で、281名(この内の一人は、避難中に生まれた新生児であった)の非戦闘員全員を無事にアメリカ大使館から救出・収容する作戦は完了した。その後、2隻の揚陸艦は北上を続け、1月11日、Muscatに避難者たち全員を無事送り届け、Oparation Eastern Exitは無事終了した。

  • 撤収者損害: なし
  • 救出側損害: なし
  • 暴徒側損害: なし

参考文献:

  • Adam B. Siegel. Eastern Exit: The Noncombatant Evacuation Operation (NEO) From Mogadishu, Somalia, in January 1991. Center for Naval Analyses: Alexandria: Virginia.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

〜添付図版等の公開準備中〜

    “征西府” 北村淳 Ph.D.

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