アメリカ海兵隊の歴史<106>マヤグエス号事件

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 1975年5月12日〜15日
  • 実施場所: カンボジア・コータン島
  • 参加部隊: アメリカ海兵隊第9海兵旅団(第4海兵連隊第2大隊、第9海兵連隊第2大隊)アメリカ海軍第76任務部隊
  • 交戦相手: クメール・ルージュ軍コー・タン島守備隊
  • 海兵隊戦死:11名
  • 海兵隊行方不明:3名(後に戦死あるいは処刑されたことが判明)負傷50名
  • 海軍戦死:3名(海兵隊上陸部隊と行動を共にしていた海軍衛生兵)
  • 空軍戦死:1名(海兵隊を上陸させたヘリコプターのパイロット)
  • 空軍事故死:23名(作戦準備中にヘリコプターが墜落)

1975年5月12日14時過ぎ、香港を出発しタイへ向かっていたアメリカ船籍の民間コンテナ船「マヤグエス」号が、タイランド湾のポロワイ島沖を航行中、威嚇射撃をしながら接近してきたクメール・ルージュの高速警備艇2隻によって拿捕され、ポロワイ島東部に回航させられた。クメール・ルージュ側は、一方的に90海里領海宣言をなしており、マヤグエス号はカンボジア領海を侵犯したという理由で拿捕されたのであった。

マヤグエス号のSOSならびにメーデーを受信したとの報告がジャカルタのアメリカ大使館経由でアメリカの国家軍事指揮センター(NMCC)にもたらされたのは事件発生からおよそ2時間後、アメリカ東海岸時間午前5時12分であった。フォード大統領は国家安全保障会議(NSC)を招集してこの事件への対処を検討した。「アメリカはカンボジアとベトナムから立て続けに撤退し(4月にはカンボジアのプノンペンからの撤収作戦(イーグル・プル)によってアメリカは撤退したし、4月30日にはベトナムのサイゴンからの撤収作戦(Frequent Wind)によってアメリカは撤退した)国威が大きく損なわれているため、今回の事件でも更に国威を喪失させるようなことがあってはならない」という理由と、「プエブロ号事件のような人質事件になる前に、速やかに軍事力を投入して事態を収束しなければならない」といった理由により、外交関係のないカンボジア(クメール・ルージュ)との交渉が見込めない場合には軍事力を行使してマヤグエス号の乗組員を奪還することに決定した。

キッシンジャー国務長官は、クメール・ルージュの友好国である中国に交渉を打診するため在ワシントン中国外交代表部に接触したが中国側は拒絶した。そこでキッシンジャーは北京のアメリカ外交代表団ブッシュ代表(後、大統領)に中国外交部にメッセージを伝えさせたが、中国側はアメリカ側の要望を受け入れなかった。

フォード大統領は、クメール・ルージュによる「海賊行為」を非難する声明を発表し、シュレジンジャー国防長官は、一刻も早くマヤグエス号を発見し乗組員たちがカンボジア国内に移送するのを実力を行使してでも阻止せよ、という命令を発した。

フィリピンのキュビ・ポイント米海軍航空基地とタイのU-Tapaoタイ海軍航空基地からアメリカ海軍P-3オライオンがポロワイ島方面に向かって発進した。また、オーストラリアに向かっていた空母コーラル・シーをはじめ、アメリカ海軍艦艇が現場海域を目指して急行するよう命令を受けた。同時に、フィリピンのスービック・ベイに駐屯していたアメリカ海兵隊第4海兵連隊第1大隊と沖縄に駐屯していた第9海兵連隊に緊急出動準備命令が下った。

翌13日早朝(現地時間)、P-3オライオンはマヤグエス号を発見し接近するとクメール・ルージュの警備艇から対空砲火が浴びせられ、マヤグエス号はポロワイ島からカンボジア本土方面へと移動を始めた。タイのNakhon Phanom タイ空軍基地から飛来したアメリカ空軍のF-111戦闘爆撃機がP-3からマヤグエス号の追尾をバトンタッチしたが、コー・タン島沖でマヤグエス号は停止した。その後もアメリカ空軍のF-4戦闘機や、A-7D攻撃機それにF-111などが入れ替わりタイから飛来して、時にはマヤグエス号周辺に機銃による警告射撃までして、マヤグエス号の更なる移動を阻止した。同日夕刻、マヤグエス号の乗組員はクメール・ルージュ兵士たちとともに小型釣り舟でマヤグエス号からコー・タン島に移動した。

現場に急行していたアメリカ海軍艦艇のうちフリゲイト「ホルト」と駆逐艦「ウィルソン」は15日には到着予定であったが海兵隊は運んでいなかった。海兵隊が乗り組んでいるHancockの現場周辺海域到着予定は16日であり、同じく海兵隊を運んでいるOkinawaの到着見込みは18日であった。そこで、より早く救援作戦を実施するため、フィリピンから第4海兵連隊第1大隊が、沖縄から第9海兵連帯第2大隊がタイのU−Tapaoタイ空軍基地に空輸されることとなった。

海兵隊によるマヤグエス号乗組員救出作戦と並行して、空軍特殊作戦飛行隊による救出作戦も計画された。そのために、14日早朝、タイのNakhon Phanomアメリカ空軍基地から空軍特殊作戦飛行隊のヘリコプター12機がU-Tapao基地に派遣されたが、そのうちの1機が墜落し23名が死亡した。この事故を受け、そして空軍の救出作戦に対する再検討の結果極めて危険な作戦であるとの結論が出たため、空軍による救出作戦は中止となった。

同じく14日早朝、クメール・ルージュはマヤグエス号乗組員を釣り船に乗せ高速警備艇数隻の先導によってカンボジア本土のKampon Samを目指した。この船団を発見したアメリカ空軍偵察機は戦闘攻撃機の応援を得て威嚇射撃により航行を阻止しようとしたが、警備艇からの反撃が始まったため更にAC-130Hガンシップも加わり船団への攻撃を開始した。しかし、釣り船に白人が乗っている様子を確認した旨の報告を受けたワシントンのフォード大統領はじめNSCは、釣り船への攻撃を中止させた。その後もアメリカ空軍機と警備艇の交戦は続き、すべての警備艇は撃沈されたが、釣り船はKampon Sam港に到達してしまい、アメリカ空軍側は小型釣り船を見失ってしまった。

実際には、マヤグエス号のすべての乗組員を乗せた釣り船はKampon Samから沿岸沿いの小島Rong Sam Lemに移動した。しかし、この状況はアメリカ側は探知することができなかったため、乗組員の多くはコー・タン島で抑留されており、少数の乗組員はマヤグエス号内に残され、何名かの乗組員がカンボジア本土に連行されたのではないかとアメリカ側は判断していた。

フィリピンからの第4海兵連隊第1大隊救援チームは14日午前6時前に、嘉手納からの第9海兵連隊第2大隊上陸チームは14日14時に、それぞれU-Tapaoタイ空軍基地に到着した。翌15日夜明けを期して、第4海兵連隊第1大隊(1/4)D中隊がマヤグエス号を奪還し、第9海兵連隊第2大隊(2/9)上陸チームがマヤグエス号乗組員をコー・タン島から救出することになった。そして、救出奪還作戦実施と並行して、現場海域に急行している空母コウラル・シーから攻撃機を派遣してカンボジア本土の空軍飛行場を爆撃し、作戦に従事するヘリコプターにとって脅威となる航空機や燃料施設を破壊することとした。

海兵隊2/9上陸チームによるコー・タン島での人質救出作戦は、海兵隊員が分乗した8機の大型輸送ヘリコプターでコー・タン島の西岸と東岸に着陸して、航空偵察から判断して20〜30名程度と予測したクメール・ルージュ守備部隊を包囲急襲し、一気に人質を奪還する事になった。しかしながら、実際には、クメール・ルージュのコー・タン島守備隊は100名を超える部隊であった。(コー・タン島守備隊は、ベトナムとの国境紛争に備えるための部隊であり、かつてアメリカから支給された火器を含む比較的強力な武装をしていた。)そして何よりも、マヤグエス号の乗組員はコー・タン島には一人もいなかった。

海兵隊1/4D中隊57名によるマヤグエス号の奪還は、15日未明に現場周辺海域に急行してくる米海軍フリゲイト「ホルト」(FF-1074)に奪還部隊がタイからヘリコプターで乗り込み、ホルトがマヤグエス号に接舷して海兵隊員が貨物船内に突入しクメール・ルージュ兵を制圧し乗組員を保護、マヤグエス号を奪還する予定であった。しかし、突入する海兵隊部隊には貨物船の知識がないため、フィリピンのスービック米海軍基地に滞在していたUSNSグリーンビル・ビクトリーの民間商船隊の6名の有志が海兵隊員とともにマヤグエス号に突入することとなった。

15日午前3時、現場に急行中のホルトに、3機のCH-53に分乗して飛来した海兵隊員や商船隊有志たちが乗り移った。(大型のCH-53はフリゲイトのヘリコプター・パッドには着陸できなかったので、ロープによる降下と、CH-53ヘリコプターの後輪だけ着艦しホバーリング状態で飛び降りて乗艦した。)ホルトは更にマヤグエス号に接近していった。

午前6時12分、海兵隊2/9上陸チームがコー・タン島に到着しそれぞれ予定の着陸地点へと接近した。6時20分、西海岸の着陸地点に1番機(Knife-21)が着陸し28名の海兵隊員が降着を完了するやいなやクメール・ルージュ軍の攻撃が開始されKnife-21は被弾して緊急退去したが沖合に不時着水。2番機Knife-22も被弾し大きな損傷を受けたため海兵隊員を下ろすことができず護衛ヘリコプターのJolly Green-11とJolly Green-12がエスコートしながら反転して、タイ領内でクラッシュ着陸してしまった。結局西海岸には1部隊しか着陸できなかった。

東海岸では6時30分に着陸態勢に入った一番機(Knife-31)にクメール・ルージュ軍のRPG2発が直撃し沖合に墜落、空軍パイロットと、海兵隊員5名それに海軍衛生隊員3名が即死し、岸に泳いで向かおうとした海兵隊員3名が射殺され、機体と共に浮いていた1人の海兵隊員も死亡、残りの海兵隊員10名と空軍クルー3名は現場に急行してきた米海軍駆逐艦ヘンリーBウィルソンによって、2時間後に救出された。

Knife-31に引き続きKnife-23もRPGの直撃を受け大破しクラッシュ着陸したが、海兵隊員20名と空軍クルー5名は無事で防御陣を構築した。さらにKnife-32も被弾したため、東海岸での着陸を断念し西海岸に向かった。そこに空軍ガンシップAC-130スペクターが来援し、クメール・ルージュ軍に対する攻撃を実施したため、Knife-32、Jolly Green-41、Jolly Green-42mの3機の空軍ヘリコプターから81名の海兵隊員が西海岸に降り立った。最後のJolly Green-43も東海岸から西海岸に転進したが南方に大きくズレて29名の海兵隊員を降着させた。7時までには空軍ヘリコプターは不時着水していたKnife-21のクルーを救出して現場を離脱した。結局、予定より少ない兵力しか着陸できなかった海兵隊は3地点に分離した状態でクメール・ルージュ守備隊と対峙することとなった。

コー・タン島作戦の第一波襲撃に参加した8機の空軍ヘリコプターのうち、3機(Knife-21、Knife-23、Knife-31)は撃破され、4機(Knife-22、Knife-32、Jolly Green-41、Jolly Green-42)は大破し以後の作戦に使用出来る状態ではなかった。ある程度“無事”な状態で帰投したのはJolly Green-43ただ1機という有様であった。

一方海上では、7時頃、マヤグエス号奪還部隊を乗せたホルトはゆっくりとマヤグエス号に近づきつつあった。そして接舷直前に空軍A-7Dコルセア攻撃機がマヤグエス号に催涙ガス弾を投下した。7時25分、アメリカ南北戦争以降100年以上も行われたことがなかった接舷強行移乗による貨物船奪還のためにガスマスクを装着した海兵隊員たちがマヤグエス号に突入した。しかし、何らの反撃はなく、1時間にわたってくまなく船内を捜索した結果、マヤグエス号は無人であったことが判明した。

これより先の同日午前6時7分、クメール・ルージュはマヤグエス号とその乗員たちの解放をラジオで放送した。6時30分にはマヤグエス号乗組員たちと以前より拘束されていたタイ漁民たちを乗せたタイ漁船がRong Sang Lemを出港しマヤグエス号に向かった。この声明は7時15分(アメリカ東海岸時間14日20時15分)にホワイトハウスに伝わったが、NSCはマヤグエス号の乗組員が実際に解放されるのが確認されるまでは軍事作戦を継続することに決定した。アメリカ海軍P-3オライオンが、9時35分にこのタイ漁船を発見しクメール・ルージュの砲艦の疑いがあったため航行を阻止しようとしたが、間もなく甲板上に白人を視認したため攻撃を中止。やがて、マヤグエス号の乗組員たちはアメリカ海軍駆逐艦ウィルソンに乗り移り、ホワイトハウスに無事が報告された。フォード大統領は、11時27分(米国東海岸時間15日0時27分)、マヤグエス号と乗組員たちを無事奪還したとの声明をテレビで発表した、ただしクメール・ルージュによって自主的に乗組員たちが解放されたという事実はあいまいにされた。

無人であったマヤグエス号は無血で確保され、クメール・ルージュが解放したマヤグエス号の乗組員たちも無事保護されたため、海兵隊によるアメリカ人奪還作戦の目的はすでに達成されていた。しかし、一人の乗組員も存在せずその代わりにベトナムとの紛争に備えるためにクメール・ルージュが軍備を固めていたコー・タン島では、海兵隊とクメール・ルージュ守備隊との激しい戦闘が続いていた。そのため、海兵隊増援部隊が空軍ヘリコプターでコー・タン島へ向かっていた。

11時55分、統合参謀本部は、「直ちにクメール・ルージュとの戦闘を停止して、可及的速やかに全軍撤収せよ」との命令を海兵隊に発した。しかし、増援部隊を送り込まねば撤収は困難であったのでそのまま島に突入し、12時10分、4機の大型ヘリコプター(Knife-51、Jolly Green-43,-11,-12)はコー・タン島におよそ100名の海兵隊増援部隊を降着させ、負傷した海兵隊員たちを収容するのに成功した。この時点で、コー・タン島西海岸には205名の海兵隊員が、東海岸には20名の海兵隊員と5名の空軍クルーがクメール・ルージュ守備隊と対峙していた。

空軍攻撃機が海兵隊員たちと交戦しているクメール・ルージュ守備隊側に対して攻撃を加えたが、クメール・ルージュ側の勢力は衰えず、海兵隊員を収容すべくコー・タン島に近寄るヘリコプターは激しい銃撃を受けなかなか着陸できなかった。AC-130ガンシップやF-4ファントム戦闘機やA−7コルセア攻撃機を投入して上空から攻撃を加えたり、OV-10軽攻撃機が空から誘導して駆逐艦ウィルソンが機関砲で攻撃を加えたりしたものの、守備隊の攻撃はなかなか止まなかった。

18時過ぎ、5機のC-130が巨大なBLU-82“デイジー・カッター”爆弾を投下しクメール・ルージュ側がひるんだところで海兵隊員の撤収を行うことにした。しかし“デイジー・カッター”を投下する直前の18時15分、Jolly Green-11が東海岸の救出ゾーン地表スレスレでホバーリングしながら海兵隊員20名と空軍兵士5名を収容するのに成功した。Jolly Green-11が離脱するのと同時に、“デイジー・カッター”が投下され大爆発と強烈な爆風が西海岸の海兵隊員たちをも襲った。そのため、これ以上の爆撃は不要と判断し、AC-130ガンシップの援護射撃に守られながらヘリコプターが西海岸に向かった。

流石の精強なクメール・ルージュ守備隊主力は18時40分頃には撤退を開始した。それと入れ替えに西海岸からは海兵隊員たちがヘリコプターに収容され空母コーラル・シーに向けて撤収を開始した。ただし、クメール・ルージュからの銃撃が完全に止んだわけではなく、引き続き銃弾が飛び交う中の極めて危険な撤収作業となった。最終の撤収ヘリコプター、Knife-51、が海兵隊員の収容のため東海岸に着陸したのは20時であり、あたりは真っ暗なうえ相変わらずクメール・ルージュの銃撃が続いていた。Knife-51は20時10分に収容作業を完了しコー・タン島から離脱した。

海兵隊の伝統では、たとえ亡骸となっても仲間は必ずアメリカに連れて帰る、という不文律があった。しかしながら、コー・タン島ではクメール・ルージュの銃火が凄まじいうえに、不安定な地表スレスレでのホバーリング状態のヘリコプターに乗り込んでの撤収であったため、海兵隊は現場で戦死した海兵隊員と空軍兵士の遺骸を連れ帰ることができなかった。

それだけではなかった。最後の撤収ヘリコプターに乗り込む際に3名の海兵隊員たちを置き去りにしてしまったことに、空母到着後しばらく経過するまで誰も気が付かなかった。空母コーラル・シー艦上では第73任務部隊司令官クーガン海軍少将、海兵隊2/9上陸チーム司令官オースティン中佐、最後に西海岸から撤収した部隊の指揮官デイビス大尉はじめ士官、准士官たちが救出作戦の協議を行った。

海兵隊は海兵隊2/9上陸チームのボランティアと在艦していた14名の海軍特殊部隊シールズ隊員が3機のヘリコプターにより、直ちにコー・タン島に取って返して夜陰に乗じて突入し3名を救出する作戦を提案した。しかし、クーガン海軍少将は更なる損害を避けるようにとの第7艦隊司令部の命令を踏まえて、強行奪還作戦は却下した。

翌日、4月16日、駆逐艦ウィルソンがコー・タン島沿岸に近づき、英語・フランス語・クメール語のメッセージを3時間に渡り島に向かって流し続けた。そして、駆逐艦の乗組員が総出で海岸やジャングルを監視した。しかし、海兵隊員からもクメール・ルージュからもなんの反応もなかった。結局、3名の海兵隊員の生死は確認できないまま、駆逐艦ウィルソンはコー・タン島を去った。

3名の海兵隊員は、4月16日、クメール・ルージュと銃撃戦を行い1名が戦死し、2名はジャングルに潜伏した。そして1週間後、それらの2名はクメール・ルージュに捕えられてカンボジア本土に送られ、処刑されてしまった。これら3名の遺骨そしてコー・タン島で戦死した15名の遺骨の回収・特定は現在もJAPACによって継続されている。

参考文献:

  • Major Dunham, George R., Colonel Quinlan, David A. 1990. U.S. Marines In Vietnam: The Bitter End 1973-1975, Headquarters USMC, Washington D.C.
  • USMM.org. 2000. Capture and Release of SS Mayaguez by Khmer Rouge forces in May 1975. 
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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