アメリカ海兵隊の歴史<105>サイゴン撤収作戦

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 1975年4月29日〜30日
  • 実施場所: ベトナム・サイゴン
  • 作戦の性格: NEO(非戦闘員撤収作戦)
  • 参加部隊: 第9海兵旅団(第4海兵連隊第2大隊、第9海兵連隊第2大隊)、アメリカ海軍第76任務部隊
  • 固定翼での撤収人員:50,493名
  • ヘリコプターでの撤収人員: 1,373名アメリカ市民、5,595名ベトナム市民・第三国市民、第三国市民400名の救出は放棄

泥沼化していたベトナム戦争は、1973年1月23日、米国のキッシンジャー大統領補佐官と北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問の間でかわされた平和協定仮調印と、それに引き続く1月27日、米国国務長官、南ベトナム外相、北ベトナム外相、そして南ベトナム共和国臨時革命政府外相の間で締結されたパリ協定によって、ようやく停戦状態にこぎつけた。そしてニクソン米国大統領は、1月29日、ベトナム戦争終結宣言を発した。

パリ協定を受けてアメリカ軍は南ベトナムより撤退するとともに、アメリカによる南ベトナム軍への支援規模は大幅に削減された。そのため、ソ連や中国からの軍事支援を受けていた北ベトナム軍と南ベトナム軍の戦力格差は次第に広がっていき、パリ協定を無視した北ベトナム軍による南ベトナム軍への攻撃もしばしばなされるようになった。そして1974年9月になると、北ベトナム軍が南ベトナムへの侵攻を開始した。

ちょうど同時期、1974年8月9日にはニクソン大統領がウォータ−ゲート事件によって辞職に追い込まれ、フォード政権が成立したもののアメリカ内政は混乱状態にあり、アメリカ経済も低迷し続けていて、とてもパリ協定を踏みにじった北ベトナム軍による南ベトナム侵攻を阻止するための直接軍事介入を再開できる状況にはなかった。

翌1975年3月10日、ついに北ベトナム軍は南ベトナム軍を壊滅させてベトナムを統一するための全面攻撃に踏み切った。攻撃開始後一ヶ月で、古都フエ、貿易港湾都市ダナンをふくんだ主要都市や軍事拠点を次々と占領した北ベトナム軍は南ベトナムの首都サイゴンを目指して進撃を続けた。4月21日、グエン・バン・チュー南ベトナム大統領は辞任し、穏健派が北ベトナム政府と和平交渉を試みたが失敗した。

このような情勢下で、アメリカ政府・アメリカ軍は北ベトナム軍がサイゴンに突入するまでにおよそ8,000名のアメリカ市民だけでなくアメリカに協力していたため北ベトナム軍に虐待される恐れのあるベトナム市民や第三国市民を救出する計画を立案していた。アメリカ政府の見積もりによると20万名近い人々をサイゴンから脱出させねばならなかった。

米政府・米軍は以下の4通りの脱出方法を考えた。

  • 1: タン・ソン・ニャット空港から民間航空機で脱出する。
  • 2: タン・ソン・ニャット空港あるいは他の飛行場から米軍航空機で脱出する。
  • 3: サイゴン港から船舶で脱出する。
  • 4: サイゴン市内からヘリコプターで洋上の米軍艦艇に脱出する。

そして、実際に米軍により実施されたのはタン・ソン・ニャット空港から米軍輸送機や民間旅客機によって脱出する方法と、北ベトナム軍によるサイゴン占領直前に実施されたヘリコプターによる脱出であった。切迫した状況下での実施が予想されるヘリコプターによる脱出は、アメリカ海兵隊第9海兵水陸両用旅団(9th MAB)が主導して実施することになり、その作戦名はFrequent Windであった。

4月1日、サイゴンの米国武官室(武官室といってもパリ協定以前は米軍南ベトナム軍事援助司令部、別名「東のペンタゴン」と呼ばれていた大規模な軍事組織であった)には海軍・海兵隊・陸軍・空軍から要員を集めて撤収コントロールセンターが設置された。また、海兵隊とエアー・アメリカ(CIAが設立した民間航空会社)がサイゴン市内で撤収用ヘリコプター発着地点の確認を開始し、エアー・アメリカのヘリコプターにより実地試験が行われた。

そしてヘリコプターを使った最終局面での撤収に先立ち、タン・ソン・ニャット空港からアメリカ軍輸送機やエア・アメリカ旅客機その他の固定翼機によるベトナム市民の国外退去が開始された。ただし、国外退去に関する南ベトナム政府の事務手続きが煩雑であったため、なかなか多くの人々の脱出がはかどらなかった。また、イギリス、オーストラリア、フランス、インドネシア、ポーランド、イランなどは軍用機をサイゴンのタン・ソン・ニャット空港に派遣し、自国市民や大使館関係者などをサイゴンから脱出させた。(日本政府はこの種の航空機は派遣しなかった。)

4月12日には、Frequent Wind作戦の発動が避けられない状況にあると判断した第9海兵水陸両用旅団は、駐サイゴンのマーチン米国大使にFrequent Wind作戦の準備進展状況を説明した、しかし、アメリカの南ベトナムからの撤収に反対であり、ましてヘリコプターによる非戦闘員脱出作戦などは思いもよらないマーチン大使は、作戦に異を唱えた。翌日、第9海兵水陸両用旅団司令官Carey准将がサイゴンに飛来して大使の説得に当たったものの「冷たくあしらわれた」。

北ベトナム軍がサイゴン周辺に迫ってきたため、アメリカ側が南ベトナム政府にベトナム市民の国外退去手続きを簡素化させたため、4月20日からは飛躍的に多くの人々の国外退去が可能となり4月22日までの3日間に20機のC-141大型輸送機と20機のC−130輸送機がタン・ソン・ニャット空港からフィリピンのクラーク空軍基地の間をピストン搬送した。さらに4月23日からはグアムやウェーク島それに横田基地へも脱出する人々の搬送が行われた。

4月25日、いよいよ北ベトナム軍によるサイゴン侵攻が切迫してきたため、すでにサイゴン沖合洋上の米海軍空母ハンコックで出動態勢を整えていた第9海兵水陸両用旅団から、40名の海兵隊員が平服でエアーアメリカのヘリコプターによってサイゴン市内のアメリカ武官室地区に入った。アメリカ大使館とアメリカ武官室地区は、24名の海兵隊保安警備隊(アメリカの各種在外公館の警備は、海兵隊保安警備隊に所属する海兵隊員が担当する)によって警備されていたため、最終局面での万一の戦闘に備えて兵力を増強するためであった。

しかしながら、マーチン大使はアメリカがサイゴンから撤退する必要はないであろうと楽観的に考えており、依然としてFrequent Wind作戦には反対であった。そのため海兵隊保安警備隊指揮官ケアン少佐がFrequent Wind作戦の準備を進めようとしても協力しなかったため、大使館庭の樹木を伐採してFrequent Wind作戦用のヘリコプター降着地点(LZ)を設置することもできなかった。

一方、サイゴン沖合洋上では、Frequent Wind作戦を実施する第76任務部隊を中心とする救出部隊の準備態勢が万全に整っていた。

(1) ヘリコプターによる非戦闘員撤収作戦実施部隊

  • 第9海兵水陸両用旅団(第79.1任務集団)
    • 第4海兵連隊第2大隊(2/4)上陸チーム
    • 第9海兵連隊第2大隊(2/9)上陸チーム
    • 第9海兵連隊第3大隊(3/9)上陸チーム
  • 第462海兵大型ヘリコプター飛行隊(MHM-462)
  • 第463海兵大型ヘリコプター飛行隊(MHM-463)
  • 第165海兵中型ヘリコプター飛行隊(MMM-165)
  • 第39海兵航空集団(MAG-39)補給・整備部隊
  • 空軍第21特殊作戦飛行隊
  • 空軍第40航空救援・回収飛行隊

2) 第76任務部隊

  • 旗艦: 水陸両用指揮艦ブルー・リッジ(LCC-19)
  • 第76.4任務集団: オキナワ(LPH-3)

(3) 第七艦隊

  • 旗艦: オクラホマシティ(CLG-5)
  • 水陸両用艦: マウント・バーノン(LSD-39)
    • バーバー・カウンティ(LST-1195)
    • Tuscaloosa(LST-1187)
  • 護衛戦隊

(4) 満一戦闘が発生した場合への備え

  • 空母エンタープライズ(CVAN-65)
  • 空母コーラル・シー(CV-43)

4月28日夕刻、北ベトナム軍に寝返った南ベトナム空軍のアメリカ製A-37攻撃機によるタン・ソン・ニャット空港の南ベトナム空軍駐機地区に対する爆撃が実施された。それに引き続き、地上からも散発的な砲撃やロケット攻撃も開始され、C-130輸送機なども機銃弾を被弾した。そのような攻撃の中でもアメリカ空軍輸送機による非戦闘員撤収は継続されたが、空港周辺だけでなくサイゴン市内への攻撃も開始された。

翌29日未明には、撤収コントロールセンターが設置されている米国武官室地区の警戒塔にロケット弾が直撃し、施設の警備に当たっていた海兵隊員2名が死亡した。これらの海兵隊員が、ベトナムでの地上戦における最後の戦死者となった。それ以降も、この米軍施設には多数の砲弾が着弾するようになった。

そして、北ベトナム軍のタン・ソン・ニャット空港に対する攻撃もますます本格化してきた。フィリピンから搬送してきた南ベトナム軍に対する支援兵器を下ろしてベトナム市民を乗り込ませるために誘導路を移動していたアメリカ空軍C-130輸送機に北ベトナム軍のロケット弾が命中し輸送機は炎上した。もう1機のC-130に撃破されたC-130の要員を収容し空港から離脱したが、これがタン・ソン・ニャット空港からの非戦闘員脱出作業を実施した最後の航空機となった。結局、タン・ソン・ニャット空港からの固定翼航空機での撤収は、2,678名のベトナム人孤児を含む50,493名で終了した。

そして、午前7時、米軍武官室責任者であるスミス少将はマーチン大使に、アメリカ市民やベトナム市民その他をヘリコプターにより洋上で待機しているアメリカ海軍第76任務部隊の艦艇へと撤収するFrequent Wind作戦を発令するように要請した。しかし、マーチン大使はタン・ソン・ニャット空港からの固定翼航空機での撤収にこだわり、なかなかヘリコプターでの非戦闘員退去には同意しなかった。しかし、10時過ぎになりようやく軍側の説明を受け入れてワシントンに作戦発令の許可を求めた。そして、10時51分、太平洋軍司令官はFrequent Wind作戦を発令した。しかし、指揮命令系統の混乱により、作戦実施部隊の指揮をとる第9海兵水陸両用旅団司令官Carey准将に命令が伝わったのは12時15分であった。

その頃には、すでにサイゴンから撤収するベトナム市民撤収リストに記載されている人々(ベトナム高官や軍幹部それに金持ちなど)が2,500名ほど大使館の敷地内に集まっていた。そして、撤収の噂を聞きつけた人々1万人近くがアメリカ大使館周辺に集まっており、大使館とその周辺は混乱状態に陥っていた。

これより先、エア・アメリカのヘリコプター(24機)が、タン・ソン・ニャット空港やサイゴン市内のビルの屋上などからベトナム市民(主としてCIA協力者や軍幹部それにそれらの家族)をピックアップして洋上の軍艦へ脱出させるヘリコプターによる撤収作業が、Frequent Wind作戦に先立って実施されていた。海兵隊や海軍のヘリコプターによる撤収が始まってからも、エア・アメリカのヘリコプターも活動を続け、最終の撤収ヘリコプターがTF76に帰還したのは21時であった。エア・アメリカによって1,000名以上の人々がTF76の軍艦に収容された。

Frequent Wind作戦の発令を受けて、かねてよりアメリカ市民ならびに北ベトナム軍に危害を加えられる恐れのあるベトナム市民をはじめとする撤収予定者たちに周知させてあったように、ヘリコプターによる緊急脱出作戦が発動になったことを知らせる暗号、「サイゴンの気温は112度でさらに上昇します。」というメッセージに引き続いて季節はずれのクリスマスソング「I am Dreaming of a White Christmas」が米軍放送網(AFN)のラジオ放送によって流れ始めた。あらかじめアメリカ市民をはじめとする撤収予定者たちの集合場所は米国武官室地区に、米国大使館関係者は米国大使館に、それぞれ伝達されていたため続々とサイゴンから退去する人々は武官室地区へと集まりはじめた。

14時6分、Frequent Wind作戦司令官海兵隊Carey准将と上陸部隊司令官海兵隊グレイ大佐それに海兵隊上陸部隊員たちを乗せた2機の海兵隊ヘリコプターが武官室地区に着陸した。ただちに指揮所を設置し、撤収作戦に従事するヘリコプターの受け入れ態勢を整えた。15時6分、12機の海兵隊CH-53大型ヘリコプターが海兵隊上陸大隊を乗せて武官室地区に到着。引き続き12機の海兵隊CH-53が15時15分に到着し、引き続いて第3波の海兵隊CH-53が2機、空軍のCH-53が8機、それに空軍のHH-53大型救難ヘリコプターが2機到着した。

海兵隊員が武官室本部ビルに、もし戦闘が発生した場合の最終抵抗拠点を設置するとともに、武官室地区の要所の防御態勢を固めた。海兵隊員が警戒する中、退去する人々が大型ヘリコプターに乗り込むと直ちにヘリコプターは洋上の艦艇向けて離陸し、第一陣は15時40分に着艦した。引き続き36機の大型ヘリコプターによる武官室地区から第76任務部隊の軍艦への撤収作業が繰り返された。

一方、アメリカ大使館では保安警備隊長ケアン少佐が指揮して海兵隊員が樹木を伐採して駐車場にヘリコプター降着地点(LZ)を設置したり、機密書類やドル紙幣(500万ドル以上)の消却作業がすすんでいた。しかし、作戦本部のほうでは大使館に集まった撤収予定ベトナム市民たちが大使館からバスで武官室地区に搬送されたものと考えていたため、市民たちの撤収用ヘリコプターは大使館にはなかなか飛来しなかった。ようやく17時に、最初の海兵隊CH-46中型ヘリコプターが大使館に着陸した。

19時、武官室地区からの撤収作業が完了に近づいてきたため、武官室地区を警戒していた海兵隊員のうち130名が大使館からの撤収作業を警備するために大使館へと転進した。そして、20時30分、武官室地区からの最後の撤収ヘリコプターがTF-76向けて飛び立った。その後、海兵隊による武官室地区各所の警戒箇所から22時50分までに海兵隊員たちが撤収し、23時40分からは衛星通信施設をはじめとする通信設備の破壊を開始した。そして4月30日0時30分、最後まで武官室地区に留まっていた第4海兵連隊第2大隊の部隊が2機のCH-53に乗り込み武官室地区を離脱しTF-76に帰還した。

アメリカ大使館では、175名の海兵隊員たちが警戒態勢を固める中、ヘリコプターによる撤収作業が進められていた。しかし、暗闇の中の離着陸が危険なため夜間のヘリコプターによる撤収は行わない、というのが作戦司令部の方針であった。しかしながら、大使館には未だ多数の撤収予定の市民たちが残留していた。そこで保安警備隊長ケアン海兵少佐は、駐車場に設置したヘリコプター降着地点(LZ)の周囲に自動車を止めてエンジンをかけヘッドライトでLZを照らし、19時以降の撤収を継続可能な態勢をとった。

第76任務部隊司令官Whitmire提督は、ヘリコプターによる撤収の延長は、どんなに遅くとも23時までが限界であると命令してきた。海兵隊CH-46中型ヘリコプターと海兵隊CH-53大型ヘリコプターが10分間隔で着陸しては撤収市民たちを乗り込ませて直ちにTF-76に向けて離陸するという撤収作業が続けられていたが、23時までではとても全ての撤収予定者を送り出すことはできそうもなかった。ケアン海兵少佐はマーチン大使に直接大統領に連絡を取り更なる作戦継続の許可を取り付けるように要請した。海兵隊Carey准将もWhitmire提督に延長を要請した。その結果、大使館からの撤収作業は更に継続されることになった。

4月30日午前2時15分、大使館側はあと19機の撤収ヘリコプターしか時間的余裕がないと通告した。ケアン海兵少佐はあと850名ほどの撤収予定市民(アメリカ人以外)たちが残っていると見積もった。それに加えてマーチン大使を始めとする大使館員と海兵隊員たちが225名残留していた。引き続き、3時27分、フォード大統領から「あと19回以内で撤収を完了せよ」との命令がくだされた。海兵隊のヘリコプターによる撤収作業が必死に続けられ19回の制限を超えた4時30分、再びフォード大統領の命令を海兵隊Carey准将がマーチン大使に伝えてきた。「アメリカ人だけを全て撤収させ、作戦を終了せよ。」

夜があけていたため、大使館員と海兵隊員たち最後のアメリカ人は大使館の屋上からヘリコプターで撤収することになった。大使館内に残されていた撤収予定者や大使館を取り囲んでいるベトナム市民たちが屋上に近づけないように、海兵隊員と海軍工兵隊員たちがビルの通路を封鎖しながら最後まで残留していたアメリカ人たちが屋上に集結した。4時58分マーチン大使を乗せた海兵隊CH-46中型ヘリコプターは大使館屋上を離陸し第76任務部隊旗艦ブルー・リッジへと向かった。7時までには海兵隊上陸部隊員たちがCH-46で撤収を完了した。最後まで撤収の指揮を執った大使館保安警備隊長ケアン海兵少佐は部下の10名の海兵隊員たちとともに、最後に大使館を離脱し7時53分強集揚陸艦オキナワに無事着艦した。

午前11時30分、北ベトナム軍の戦車がアメリカ大使館付近の大統領宮殿に突入し、南ベトナム解放民族戦線の旗が宮殿に翻った。ここに、ベトナム戦争は終結した。

参考文献:

  • Butler, David. 1985. The Fall of Saigon. New York: Simon and Schuster.
  • Dunham, George R.; Quinlan, David A. 1990. U.S. Marines in Vietnam: The Bitter End, 1973–1975. History and Museums Division, Headquarters, U.S. Marine Corps.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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