- 実施期間: 1975年4月12日
- 実施場所: カンボジア・プノンペン
- 作戦の性格: NEO(非戦闘員撤収作戦)
- 参加部隊: アメリカ海兵隊第31海兵水陸両用部隊、第4海兵連隊第2大隊、アメリカ海軍第76任務部隊(増強)、アメリカ空軍第40救援回収飛行隊
- 撤収人員: 84名アメリカ市民、205名カンボジア市民・第三国市民
- 損害: 戦死・戦傷無し、空軍ヘリコプター1機が被弾(無事帰投)
1970年3月、王制社会主義を標榜し北ベトナム並びに南ベトナム民族解放戦線寄りのシハヌーク殿下が外遊中に首相兼国防大臣のロン・ノル将軍やシソワット・シリク・マタク皇子がクーデターを決行し、カンボジア王国は消滅し、10月にはクメール共和国が成立した。アメリカの支援を受けたロン・ノル政権は、カンボジアに逃げ込んでいた南ベトナム民族解放戦線に対するアメリカ軍の爆撃を許容したため、多数のカンボジアの農民も犠牲になった。このため、カンボジア国内には反ロン・ノル政権派の勢力が大きくなり、政府軍FANKと中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュCPNLAFとの間で内戦状態に陥った。
1972年には、ロン・ノルは軍事独裁政権を確立した内戦を収束させようとした。ロン・ノル政権支援のために南ベトナムに駐屯していたアメリカ軍部隊がカンボジア領内に投入されカンボジア内戦にアメリカが介入した。しかし、ロン・ノルのFANKとクメール・ルージュCPNLAFとの内戦は激化し、1973年にアメリカ軍が撤収すると、クメール・ルージュ側が優勢に転じプノンペンまでCPNLAF攻撃にさらされた。苦境に立ったロン・ノルは、一時は権力の座から追い落としたシソワット・シリク・マタク皇子などを復活させ合議制に移行し、アメリカ軍のカンボジア領内への空爆も停止した。
1974年に入るとクメール・ルージュ側がますます攻勢に転じ、CPNLAFはプノンペン近郊まで迫るだけでなくカンボジアの古都Odongも一時クメール・ルージュ側の手に落ちた。中国はクメール・ルージュに対する武器・弾薬の補給をますます強化し、ロン・メルのクメール共和国政府は追いつめられていった。ロン・メルは北京で亡命生活を送っているシハヌーク殿下と停戦交渉を試みたが失敗し、1975年4月1日、ハワイに逃亡した。シリク・マタク皇子やクメール共和国首脳はプノンペンに踏みとどまり停戦交渉を試みようとしたが、ロン・メルの亡命とともにFANKは崩壊し、クメール・ルージュ軍は首都プノンペンに迫ってきた。
カンボジア情勢がいよいよ逼迫してきたため、プノンペンからアメリカ大使館を撤収させるEagle Pull作戦をいつでも実施できるように第31海兵水陸両用部隊(第79.4任務部隊)ならびに第462海兵大型ヘリコプター飛行隊(HMH-462)を積載した3隻の水陸両用艦から構成されたアルファ水陸両用即応グループ(第76.4任務部隊)は4隻の護衛艦艇とともに、1975年3月3日、タイ湾のKampong Som 沖に到着した。(ちなみに、第31海兵水陸両用部隊は現在沖縄に駐屯している第31海兵遠征隊の前身である。)
クメール・ルージュ側には航空戦力が欠落していたため、撤収作戦を実施するヘリコプターを護衛する戦闘機の必要はなかったものの、地上からの対空攻撃に備えてタイのアメリカ空軍基地を拠点とするアメリカ空軍の支援部隊が準備を整えた。さらに、HMH−462のヘリコプターの数(CH-53大型輸送ヘリコプター14機、CH-46中型輸送ヘリコプター3機、AH-1攻撃ヘリコプター4機、UH-1汎用ヘリコプター2機)に不安を感じた統合参謀本部は、パールハーバーから25機のヘリコプターを有する第463海兵大型ヘリコプター飛行隊を積載した航空母艦ハンコック(CV-19)と、南ベトナムから撤収部隊の増援として第4海兵連隊第2大隊をKampong Som 沖に急行させた。
4月11日午後、第31海兵水陸両用部隊はイーグルプル作戦実施命令を受信した。翌朝6時、360名の海兵隊員を乗せたHMH−462のCH-53大型輸送ヘリコプター12機がKampong Som 沖から発進しおよそ160km先のプノンペンに向かった。
7時半、駐プノンペンアメリカ大使がカンボジア政府首脳たちに対してアメリカ大使館はじめアメリカ市民のプノンペンからの撤収を通告するとともに、同行希望者は9時半までにアメリカ大使館に集まるよう伝えた。アメリカ側の予期に反して、クメール・ルージュからは殺害予告がなされていたにもかかわらずカンボジア政府首脳たちは、臨時大統領を除いて、アメリカへの逃亡は希望しなかった。ロン・ノルとともに1970年のクーデターを主導したシソワット・シリク・マタク皇子も、亡命を進めるアメリカ大使に「私は、アメリカ人を信じた、という過ちを犯した」との言葉を残してプノンペンに残った。(マタク皇子はじめカンボジア政府首脳は、クメール・ルージュのプノンペン制圧後、直ちに処刑された。)
その頃、先着した海兵隊イーグルプル作戦司令部隊が、撤収ヘリコプター着陸地点(ホテルLZ)へと通じる道路を封鎖し、海兵隊ヘリコプターを支援するためにプノンペン上空に飛来したアメリカ空軍第56救援回収飛行隊のHC-130捜索救援機との交信を開始した。
7時43分、最初の海兵隊CH-53ヘリコプターがホテルLZに着陸し、直ちに海兵隊員たちは防御態勢を固めた。ホテルLZには3機のCH-53が着陸可能であったため、CH-53が着陸すると撤収するアメリカ市民やカンボジア市民それに第三国市民たちを次から次へとヘリコプターに収容し、直ちに離陸するという作業が繰り返された。当初は合計600名ほどの人々が撤収するものと見積もられていたが、実際にはアメリカ人84名とアメリカ人以外が205名と見積もりの半数であった。
プノンペン上空を旋回するCH-130の管制のもと、ヘリコプターによる撤収作業は順調に進んだ。9時45分、アメリカ大使館は閉鎖され、アメリカ大使を含む全員が10時41分までに海兵隊のヘリコプターによってプノンペンから離脱した。非戦闘員の撤収完了と同時に、第463海兵大型ヘリコプター飛行隊のCH-53が飛来し、撤収作戦を実施した海兵隊員たちの撤収作業が開始された。
10時50分、クメール・ルージュのロケット弾がホテルLZ周辺に着弾し始めた。そして、間もなく、迫撃砲弾がホテルLZに着弾し始めた。10時59分に、第4海兵連隊第2大隊の最後の撤収要員がヘリコプターに乗り込んでホテルLZを離陸した。そして、11時15分に空軍第40救援回収飛行隊のHH-53救難ヘリコプター2機が飛来し、イーグルプル作戦司令部隊の海兵隊員たちを収容し、プノンペンから離脱した。その際、1機のHH-53はクメール・ルージュの機関銃弾を被弾したが、無事にUbonタイ空軍基地に到着した。
結局、プノンペンで海兵隊ヘリコプターに収容された全ての非戦闘員は無事にカンボジア国外に退去し、作戦に参加した全ての要員も無傷で帰還した。
参考文献:
- Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.
- Dunham, George R. 1990. U.S. Marines in Vietnam: The Bitter End, 1973–1975 (Marine Corps Vietnam Operational Historical Series). Marine Corps Association.
〜添付図版等の公開準備中〜