アメリカ海兵隊の歴史<103>ベトナム戦争と海兵隊

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 1965年3月〜1975年4月
  • 実施場所: ベトナム・ラオス・カンボジア

第一次インドシナ戦争

日本の第二次世界大戦敗北により、1945年9月2日、ベトナム独立同盟(ベトミン)の指導者ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言した。しかし、旧宗主国フランスが再植民地化を画策し、1946年11月、フランスとベトミンの間で全面的武力衝突が勃発した。ここに第一次インドシナ戦争が開始された。

戦争は長期化したが、1949年10月に中華人民共和国が成立すると、中国共産党政府はホー・チ・ミンのベトナム民主共和国を正統政府として承認し、ベトナム民主共和国に対する援助を開始した。一方、中国に続きベトナムまでもが共産化することを恐れたアメリカ政府はフランス軍に対する軍事支援を開始した。ただし、フランス軍兵士の主力はフランス植民地から送り込まれ兵士であったため士気が低く、独立と祖国防衛のために戦うベトミンの優勢が続き、1954年3月から5月にかけてのディエンビエンフーの激戦でフランス軍は決定的な敗北を喫し、1万名以上のフランス軍将兵がベトミン軍の捕虜となった。(ベトミン軍戦死8,000、フランス軍戦死2,200)

ジュネーブ協定

ディエンビエンフーでの西洋植民地支配国軍が被植民地軍に大敗北をして1万名以上が捕虜になるという前代未聞の事態の結果、フランス、ベトナム国(フランスの植民地国家)、ベトナム民主共和国、ラオス、カンボジア、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦それに中華人民共和国により和平交渉が進められ、1954年7月、ジュネーブ協定が成立、第一次インドシナ戦争は終結した。フランスはインドシナ地域から全面撤退、ベトナム民主共和国の独立は承認された。しかし、ベトナムは北緯17度線で分割され南部の帰属は国民投票により決定されることとなった。

ジュネーブ協定が締結される直前、アメリカは自らの傀儡の反共主義者ゴ・ディン・ジェムによる政権を南ベトナムに樹立し、翌1955年4月に国民投票を実施して、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と北緯17度線で分断したベトナム共和国(南ベトナム)が成立した。そしてアメリカはベトナム米国軍事顧問団を設置して南ベトナム軍に対する軍事訓練を開始した。

1959年1月13日、北ベトナムは、ベトナムを分断してしまったアメリカとゴ・ディン・ジェム政権を打倒するための戦いを準備する決議、第15号決議、をなして、近い将来勃発するであろう対米戦争への準備のための補給ルートの構築を開始した。一方、南ベトナムではゴ・ディン・ジェム政権が独裁化し秘密警察組織を用いて反政府勢力を残虐に弾圧していたため、1960年12月20日、南ベトナム民族解放戦線(NLF)が結成されゴ・ディン・ジェム政権の打倒を目指した。北ベトナムの工作員も多数加わっていた南ベトナム民族解放戦線には、共産主義者だけでなく腐敗し残虐なゴ・ディン・ジェム政権に反感を持つ多くの南ベトナム市民も参加したため急速に勢力を拡大し、ゴ・ディン・ジェム政権とアメリカ帝国主義の打倒を掲げてテロ・ゲリラ戦を開始した。

アプバクの激戦

アメリカでは1961年1月にケネディ政権がスタートすると、共産主義の拡散をより強力に封じ込めるために南ベトナムに対する軍事支援を強化する政策が開始された。ベトナム米国軍事顧問団は、ケネディ政権発足1年でおよそ5倍の3千名以上に膨らみ、1962年2月には、ベトナム軍事援助司令部(MACV)へと改組されて実質的に駐ベトナム米軍戦闘部隊となった。

ベトナム軍事援助司令部はあくまで軍事顧問団であって米軍正規部隊ではないというのが国際法上の建前であったため、原則としてアメリカ軍の“作戦行動”は所謂特殊作戦に限定されていた。しかし、1963年1月2日、アプバク村周辺の南ベトナム民族解放戦線部隊を掃討するため出動した南ベトナム軍パトロール部隊が撃破されたため13輛のM-113装甲車をはじめとする米軍から供与された自動小銃、機関銃、迫撃砲など最新装備で武装した兵力1,500以上の南ベトナム軍増援部隊に15機のベトナム軍事援助司令部(MACV)のCH-21ヘリコプターが加わってアプバク村に出撃した。

アプバク村で待ち構えていた南ベトナム民族解放戦線部隊(NLF)は、最新兵器も持たず兵力も350名程度であったが、南ベトナム軍(ならびにMACV)に対して果敢な攻撃を実施して、MACVヘリコプター15機のうち5機を撃墜し9機にダメージを加え撤退させ、装甲車も3輌撃破した。MACVは攻撃ヘリコプターを出動させ反撃したものの、日が落ちるとともにNLF部隊は撤収してしまい、南ベトナム軍(ならびにMACV)はNLFとの初めての本格的戦闘に大敗を喫してしまった。(南ベトナム民族解放戦線軍の戦死18、負傷39; 南ベトナム軍の戦死83、戦傷100以上、米軍の戦死3、負傷8、CH-21ヘリコプター5機喪失)

引き続きゴ・ディン・ジェム政権による独裁と残虐な統治がますますエスカレートしたため、1963年11月、ベトナム軍事援助司令部の支援を取り付けた南ベトナム軍親米派がゴ・ディン・ジェムを殺害してクーデターを実施し軍事政権を樹立した。しかし、軍事政権内部では権力闘争が繰り返され、ようやく1965年2月25日のクーデターによりグエン・バン・チューが国家元首に、グエン・カオ・キが首相に就任して軍事クーデターの連鎖が集結し比較的安定した政府が発足した。

その半年前の1964年8月2日、トンキン湾を航行中のアメリカ海軍駆逐艦マドックスに対して北ベトナム哨戒艇が魚雷攻撃を加え、2日後には米駆逐艦ターナー・ジョイとマドックスが同様に魚雷攻撃を受けた。これに対してアメリカ連邦議会は8月7日「トンキン湾決議」によってジョンソン大統領に対して宣戦布告なしでベトナムにおいて軍隊を使用する権限を与えた。これにより、実質的にアメリカは北ベトナムならびに南ベトナム民族解放戦線と戦争状態に突入したことになった。

これをうけて、米海軍空母艦載機による北ベトナム戦略目標に対する爆撃が開始された。しかし当初は、純然たる軍事関連施設、それも外国(ソ連・中国)の船舶や代表団が存在しない地域に対しての攻撃に限定したため、戦果が上がらなかった。それどころか、ソ連による北ベトナム側に対する戦闘機の供給などが開始されるに伴い、アメリカ軍機の損害が急増したため、攻撃目標の限定を解除し広範囲の爆撃へと拡大された。そして、アメリカ軍による爆撃はナパーム弾を使用したりB-52超大型爆撃機まで投入しての無差別爆撃に近い形にまでエスカレートしていった。

一方北ベトナムでは、中華人民共和国からの小火器・軽火器・弾薬中心の軍事援助が続いていたが1964年にはソビエト連邦の軍事顧問団が派遣され、1965年2月にソビエト連邦のコスイギン首相が北ベトナムを訪問して以降はソ連から戦闘機や戦車ならびに重火器の供給が開始された。それに対抗して中国人民解放軍も軍事顧問団を派遣した。その結果、北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線の戦力は飛躍的に強化され、南ベトナム領内のアメリカ軍航空基地までが直接攻撃されるようになった。

アメリカ海兵隊ダナン上陸

空爆だけでは戦局を好転させることはできないとの判断に立ち至ったジョンソン大統領はアメリカ軍地上部隊を投入する決断をした。そして、1965年3月8日、第9海兵旅団3,500名が南ベトナム北部のダナンに上陸した。アメリカはいよいよ正規軍地上戦闘部隊をベトナムに送り込んだのである。

1965年3月8日午前9時3分、完全装備のアメリカ海兵隊員上陸部隊第一陣が揚陸艇からダナンの海岸に上陸を開始した。海岸には花束を持ったベトナム女性たちがニコやかに海兵隊員たちを出迎え「ようこそ勇敢なアメリカ海兵隊」という横断幕が張られていた。引き続き、12日までに、3,500名の第9海兵旅団は全てダナンに上陸した。やがて、3月下旬までには2個大隊と2個航空隊の合計5,000名ほどの海兵隊部隊がダナン航空基地の警備を開始した。

このような戦闘とは無縁のアメリカ海兵隊によるベトナム無血上陸の模様に加えて、海兵隊派遣に際して発せられた「南ベトナムでは、海兵隊は『限定的任務』に従事する」という声明は、多くのアメリカ国民に対して、海兵隊は本格的戦闘に投入されるわけではない、という誤解を与えた。

海兵隊のインクブロット作戦

ベトナムでのアメリカ軍の最高責任者であったベトナム軍事援助司令部(MACV)司令官ウェストモーランド陸軍大将の基本戦略である「索敵撃滅戦略」に疑問を感じたアメリカ海兵隊総司令官デイビッド・シャウプ大将ならびに太平洋艦隊海兵軍司令官クルーラック中将はじめ海兵隊指導者たちは、「インクブロット拡大理論」という方式に則って海兵隊のベトナムでの作戦を実施しようと考えた。

海兵隊が考えた「インクブロット拡大理論」というのは、北ベトナムや南ベトナム解放戦線のゲリラ勢力が南ベトナムの農村部に勢力を拡大するのを阻止するためには、たんにゲリラ勢力を武力により殲滅していくという方針だけでは困難であるという基本姿勢から誕生した。すなわち、それぞれの農村にゲリラ勢力が完全に浸透してしまう以前に、農村に対して医療活動や労働支援、それに学校建設やインフラ整備などを援助することにより、住民たちの海兵隊に対する信頼を勝ち取り、味方につけてしまうことによりゲリラ勢力の影響力が入り込むのを阻止し、海兵隊の支配領域を確保する。このような海兵隊すなわち米軍・南ベトナム軍側の農村を徐々に拡大していくことにより、支配する点を面に、そしてその面を拡大していこう、という基本戦略であった。

実際に、アメリカ正規軍として初めて南ベトナムに上陸しダナン空港周辺での駐屯を開始した比較的小規模な第9旅団がより規模の大きい第3海兵水陸両用軍と交替した1965年夏からは、海兵隊の担当するダナン南部地域でインクブロット戦略に基づいた農村村落の取り込みが試みられた。村落住民と接触した海兵隊部隊は、それぞれの村が自活し学校や施設を住民たち自身によって建設出来るだけの物資や装備を供給したり、海軍衛生兵(海兵隊隊員には衛生兵は存在せず海兵隊の衛生兵は海軍衛生兵である)や海軍軍医などを派遣して診療活動や衛生指導を行った。その結果、そのような活動を実施した村落の住民、とりわけそれらの指導者たちの信頼を勝ち取っていった。

もちろん、インクブロット戦略による海兵隊の活動が全て成功したわけではなかったし、このような作戦実施中にも農村への浸透を図る南ベトナム解放戦線部隊との戦闘も発生する危険な作戦であることには代わりはなかったものの、海兵隊指導部だけでなく海軍のグラント・シャープ提督それにマックスウェル・テイラー駐ベトナム大使など、この戦略を支持する人々は少なくなかった。

しかし、伝統的殲滅戦略の信奉者であるMACV司令官ウェストモーランド陸軍大将は、あまりにも平和的にすぎて南ベトナム解放戦線殲滅には資さないと海兵隊のインクブロット戦略に異を唱えた。また、マクナマラ国防長官も、インクブロット戦略の理想は評価できるが時間がかかりすぎコストパフォーマンスが低い方策であるとして、ウェストモーランド大将の索敵撃滅戦略を支持した。

結局、海兵隊独自の戦略である「インクブロット」は中止せざるを得なくなり、それ以降ベトナムでのアメリカ海兵隊部隊は、アメリカ陸軍部隊ならびに韓国軍を始めとするアメリカ同盟軍部隊同様に「索敵殲滅」作戦に従事し、陸軍部隊との目立った戦略・戦術上の相違はなく、単に精鋭のアメリカ軍戦闘部隊という存在に過ぎなくなってしまった。

参考: 大量虐殺に関する誤ったイメージ

ベトナムでの民間人虐殺事件をアメリカ海兵隊によるものと誤って伝える書物などを見受けるが、アメリカ海兵隊による組織的民間人虐殺は発生しておらず、大量虐殺の殆どは韓国軍部隊により引き起こされており、有名なソンミ村虐殺事件(504名虐殺)はアメリカ陸軍部隊により引き起こされた。

  • タイヴィン虐殺(1966年1月23〜2月26日):韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)が1,200名虐殺
  • タイピン村虐殺(1966年2月12日):韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)が68名虐殺
  • ゴダイ虐殺(1966年2月26日):韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)が380名虐殺
  • Binh Tai(1966年10月9日):韓国軍が66名虐殺
  • Dien Nien-Phuoc Binh(1966年10月9〜10日):韓国軍が280名虐殺
  • Binh Hoa(1966年12月3〜6日):韓国軍が430名虐殺
  • VinhXuan(1967年3月22日):韓国軍が15名虐殺
  • フォンニィ・フォンニャット虐殺(1968年2月12日):韓国海兵隊第2海兵師団(青龍師団)第1大隊が79名虐殺
  • ハミ虐殺(1968年2月25日):韓国海兵隊第2海兵師団(青龍師団)が135名虐殺
  • MyLaiソンミ村(1968年3月16日):アメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団第1小隊が 504名虐殺

高速機動力の取得

海兵隊がダナンに投入された直前に、海兵隊は海兵隊用に改良された最新鋭ヘリコプターUH-1E汎用ヘリコプターを受領した。UH-1Eは、少人数の高速移動の他、武装を施し対地攻撃能力を持たせて地上の海兵隊員を空中から支援する近接航空支援にも用いられた。やがて最大25名の完全武装海兵隊員を搬送可能な海兵隊用中型輸送ヘリコプターCH-46シー・ナイトが投入され、高速機動作戦が更に効率的になった。(ちなみに、CH-46はMV−22Bオスプレイに交代されるまで半世紀以上にわたって、“海兵隊の靴”として海兵隊とともに歩んだ。拙著『海兵隊とオスプレイ』並木書房、参照のこと。)また、開発中であった大型輸送ヘリコプターCH-53Aスーパー・スタリオンも完成し、1967年からベトナムに姿を現した。

1967年夏にアメリカ陸軍はUH-1ベースの攻撃ヘリコプターに変わる攻撃専用のAH-1Gコブラ攻撃ヘリコプターの運用を開始した。海兵隊もこの攻撃ヘリコプターを使用したが、海上の揚陸艦から発進する機会が多い海兵隊の場合、より強力なエンジンを備えた攻撃ヘリコプターを必要としたため改良版の登場を待ち望んだ。しかしながらエンジンを2機搭載し海兵隊用攻撃ヘリコプターAH-1Jスーパー・コブラが初飛行したのは、ニクソン大統領がアメリカ軍戦闘部隊のベトナムからの撤退を決定した1969年であり、運用が開始されたのは1971年となってしまった。

海兵隊独自のインクブロット戦略ではなく陸軍同様の索敵壊滅戦略に立脚した作戦に従事した海兵隊は、ベトナム戦争後に「陸軍と変わりがない海兵隊は必要ないのではないか?」という声にされされた。しかし、各種ヘリコプターを多用しての高度な機動作戦能力をベトナム戦争で身につけた海兵隊は、このような存続の危機に直面したものの、緊急展開部隊としての役割を見出し、組織の存続を成功させた。

また、ヘリコプターによる戦略的機動作戦だけでなく海兵隊自身が運用した攻撃機や攻撃ヘリコプターによる近接航空支援をはじめとした海兵隊陸戦部隊と海兵隊航空部隊の緊密な連携といった貴重な経験は、アメリカ海兵隊の行動組織構造である海兵空地任務部隊(MAGTF、マグタフ)を完成させることになった。

参考文献:

  • Jack Shulimson & Charles M. Johnson. 1978. U.S. Marines in Vietnam: The Landing and the Buildup. Washington D.C.: History and Museums Division, USMC.
  • Charles R. Smith. 1988. U.S. Marines in Vietnam: High Mobility and Standdown 1969. Washington D.C.: History and Museums Division, USMC.
  • Marine Alternatibve to Search and Destroy. June 12, 2006. Vietnam Magazine.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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