アメリカ海兵隊の歴史<102>長津撤退作戦〜朝鮮戦争

〜添付図版等の公開準備中〜

  • 実施期間: 1950年11月
  • 実施場所: 韓国長津貯水湖周辺
  • 作戦の性格: 陸上戦闘(野戦)
  • 参加部隊: アメリカ海兵隊第1海兵師団、アメリカ陸軍第7歩兵師団第31連隊戦闘グループ、イギリス海兵隊第42コマンドウ
  • 交戦部隊: 中国義勇軍(中国人民解放軍)

クロマイト作戦による仁川上陸とソウル奪還によって攻勢に転じた国連軍は北朝鮮軍への反撃を開始した。第8軍はソウルから平壌を経て朝鮮半島西岸平野部を北進し、第1海兵師団を先鋒として仁川に上陸しソウルを奪還した第10軍団は海路朝鮮半島東側へ転進して韓国軍第1軍団とともに太白山脈西部東岸を北上し、それぞれ北朝鮮軍を朝鮮・満州の境界をなす鴨緑江方面まで押し返す作戦であった。

中国共産党政府は、韓国軍以外の国連軍が38度線を越えて侵攻した場合には中国は戦争に介入する、と国連に対して警告したが、トルーマン大統領はとりあわなかった。しかし仁川上陸からおよそ1ヶ月後の10月19日、38度線を越えて北進する第8軍を主力とする国連軍が平壌を占領すると、彭徳海を総司令官とする兵力およそ27万の中国人民志願軍と命名された中国人民解放軍部隊が密かに鴨緑江を越え南下を開始した。

平壌を占領し勢いづいたアメリカ陸軍第8軍、韓国軍、トルコ軍それにイギリス軍の諸部隊から構成される国連軍は、朝鮮半島西岸平野部を鴨緑江方面へと北上した。中国人民志願軍(以下、中国軍)は隠密裏に国連軍側に悟られないように国連軍部隊を取り囲み、10月25日に突如国連軍に対して一斉攻撃を加えた。完全に奇襲された形となった国連軍は大混乱に陥り、中国軍によって潰走させられてしまった。

一方、太白山脈の東側の朝鮮半島東岸では、アメリカ軍第10軍団(第1海兵師団と第7歩兵師団)と韓国軍部隊(第1軍団)それにイギリス海兵隊などが北上を開始していた。第1海兵師団を中心とする部隊は東岸から内陸の長津貯水湖周辺を経由して朝鮮半島中央部を北上し第7歩兵師団を中心とする部隊は東岸沿岸地帯を北上する計画であった。

朝鮮半島東岸を陸路北上し長津貯水湖を目指していた韓国軍第1軍団は、10月25日、中国軍第42軍団と遭遇し長津貯水湖南方のFunchilinn峠で釘付けにされてしまった。長津貯水湖周辺を制圧するため韓国軍第一軍団と合流すべく海路北上していたアメリカ海兵隊第1師団が、10月26日、元山に上陸し長津貯水湖に向かう態勢を整えた。同様に海路北上していたアメリカ陸軍第7師団も、10月29日、Iwonに上陸し東岸沿いに北上を開始した。

長津貯水湖を目指して進撃を開始した第1海兵師団は中国軍第124師団と交戦しながら徐々に内陸へと支配地域を拡大していった。海兵隊の元山上陸によって不意をつかれた毛沢東は、急遽人民解放軍第9軍を越境させ長津貯水湖方面へと急行させた。中国軍側は、日中戦争や国境内線の経験に基づいて抵抗しながらジリジリと撤退し第1海兵師団を内陸の長津貯水湖方面へと誘い込み、第9軍の大兵力で取り囲み第1海兵師団を殲滅することにした。

元山上陸後およそ1ヶ月で、第1海兵師団は元山と長津貯水湖を結ぶ唯一のルートの長津貯水湖入り口の古土里とハガル里に飛行場を含む補給基地を設置するとともに長津貯水湖西岸の柳潭里まで進出した。そして第10軍団司令官は、細長くのびきってしまった第1海兵師団諸部隊の右側面を支援するため第7歩兵師団第31連隊戦闘チーム(31RCT)を急遽派遣し長津貯水湖東岸のSinhung-niまで進出した。この他、兵力25,473の第1海兵師団を補強するため、イギリス海兵隊(第41コマンドウ)とアメリカ陸軍第3歩兵師団と第7歩兵師団から増援部隊が急行した。結局、長津貯水湖周辺に陣を敷いた国連軍兵力はおよそ30,000名であった。

そして、これらの進出出部隊に対して、Yonpo飛行場と洋上のアメリカ海軍第77任務部隊の5隻の空母を拠点とする第1海兵航空隊(1stMAW)の戦闘攻撃機が近接支援をする態勢が整った。また、日本からはアメリカ空軍極東戦闘輸送軍所属の輸送部隊が、一日あたり250トンの補給物資を空中投下する態勢も完了した。

国連軍が長津貯水湖を制圧して更に侵攻する態勢を固めた頃には、中国軍第9軍の精鋭補強部隊は、それまで韓国軍第1軍団やアメリカ海兵隊諸部隊と交戦していた第42軍団や第124師団と合流し長津貯水湖周辺を遠巻きに包囲していた。満州国境から長津貯水湖方面に進出してきた中国軍兵力は15万程度とされており、直接長津貯水湖周辺の国連軍を包囲した中国軍兵力はおよそ67,000名である。第1海兵師団はじめ国連軍側には中国軍の動静は把握できなかった。(地図)

11月27夜半、長津貯水湖西岸の柳潭里の海兵隊部隊(第5、第7、第11海兵連隊)、長津貯水湖東岸のSinhung-niのRCT-31、それに古土里周辺の第1海兵師団諸部隊に対して、それぞれ一斉に攻撃を開始した。この奇襲は功を奏し、国連軍側が占めていた柳潭里、Sinhung-ni、ハガル里、古土里をつなぐルートは分断されてそれぞれの部隊は孤立化してしまった。ちょうどその頃、朝鮮半島西岸のアメリカ陸軍第8軍を中心とする国連軍が中国軍に撃破され大打撃を受けたため、マッカーサーは国連軍を38度線まで退却させる命令を発した。同時に、東海岸内陸で戦闘中の国連軍部隊に対しても撤退を指令したため、第10軍団司令官アーモンド中将は、長津貯水湖周辺の各部隊に対して興南港への退却を命じた。

11月30日、柳潭里の海兵隊諸部隊は退却命令を受令した。しかし、柳潭里とハガル里を結ぶ唯一のルートの要衝Tokong峠を中国軍に制圧されていたため、その峠道周辺の中国軍を撃破しながら撤退する必要があった。峠道の両側からは間断なく中国軍が攻撃を仕掛けてくるだけでなく、マイナス40度近くに達する厳寒にも阻まれ、撤退は遅々として進まなかった。中国側にも大きな損害を与えたものの、海兵隊側も多大な犠牲を出しながら激闘は続いた。柳潭里の海兵隊諸部隊は、12月3日から4日にかけて、ようやく死闘をくぐり抜けてハガル里への退却を完了した。

中国軍の奇襲によって完全に孤立化していた長津貯水湖東岸のSinhung-niのRCT-31は、度重なる中国軍の猛攻を受けて撤退もままならない状況に陥っていた。そこで第10軍団司令官アーモンド陸軍中将は第1海兵師団司令官スミス中将に、柳潭里の海兵隊部隊によって速やかにRCT−31を救出するよう、実際には実行不能な、命令を発した。

数日間の激戦で弾薬も着き始めているうえ、救援部隊も到着しないため、RCT-31は自力で中国軍の包囲網を突破してハガル里に撤退することを決した。空母から支援に飛来する海兵隊F4Uコルセア戦闘攻撃機や海軍F7Fによる支援爆撃が加えられる中、中国軍に撃たれ捕虜になった(その後死亡)RCT-31司令官から部隊の指揮を受け継いだフェイス中佐が指揮するRCT-31の将兵は中国軍包囲部隊と激戦を繰り広げながら、ハガル里を目指した。

しかし、幾度も弾を受けてもひるまず指揮をとっていたフェイズ中佐がついに弊れ(後に、勇敢な中佐を讃えMedal of Honorが授与された)将校のほとんどが戦死してしまったRCT-31はバラバラになって敗走を開始した。結局兵力2,500名ほどであったRCT-31のうち、1,000名以上が戦死し、中国軍の捕虜となったものの多くは武器等を奪われて数時間後には釈放されたため1,500名ほどがハガル里の海兵隊部隊に合流することができた。ただし、そのうち385名だけがその後も海兵隊部隊とともに戦闘ができたというから、RCT-31の損耗率は75%と全滅に近かった。

さて、長津貯水湖西岸の柳潭里の海兵隊諸部隊と長津貯水湖東岸 Sinhung-niのRCT-31に対して中国軍が攻撃を加えたのと時を同じくして国連軍前進補給基地のある長津貯水湖最南端のハガル里を守る海兵隊守備隊に対しても中国軍の猛攻が加えられた。もともと守備隊は小規模であった上、訓練もあまり施されていなかった兵員が多かったため、大兵力の中国軍に撃破されてしまった。しかし、中国軍は守備隊にとどめを刺す前に、補給基地にあった食料や衣料等の物資の掠奪に熱中してしまったため海兵隊守備隊は反撃を開始し中国軍を撃退した。さらに、空母より飛来した海兵隊戦闘攻撃機が中国軍側に爆撃を開始すると、中国軍は以前の包囲線後方に退却し、再び米中両軍は硬直状態となった。

ハガル里が攻撃を受けていることを知ったスミス海兵中将は、11月29日、ハガル里の南方で補給基地を設置してある古土里からハガル里守備隊へ兵力およそ1,000の救援部隊を派出した。この救援部隊は、イギリス海兵隊第41コマンドウとアメリカ海兵隊第1海兵師団から抽出された海兵隊員で編成された。古土里からハガル里へ向かうルートは谷沿いの一本道であり、周囲からの中国軍の銃撃にさらされており、のちに「地獄火谷」と称されたほどの困難な進軍となった。多くの犠牲(戦死162戦傷159)を伴ったものの、救援部隊はハガル里へと到達した。守備隊と合流した救援部隊は、ハガル里包囲の要衝に陣取る中国軍部隊を撃破し、中国軍部隊を潰走させハガル里は米英海兵隊によって確保された。

これらのハガル里を守備する海兵隊部隊のもとに、RCT-31の敗残兵や長津貯水湖西岸の柳潭里から中国軍部隊と激闘を繰り広げながら退却してきた海兵隊諸隊(第5、第7、第11海兵連隊)が12月4日までに合流した。ハガル里から古土里を経て興南港へと至るルートも古土里を抜けるまでは周囲からの集中砲火に去らされる危険のある狭隘な一本道であり、苦戦が予想された。2月6日に、第7海兵連隊を先鋒部隊とし第5海兵連隊を殿部隊とする国連軍撤収部隊は、ハガル里を出発した。

撤収部隊は、空母から飛来する海兵隊戦闘攻撃機の効果的な支援もあり、周囲の高地から攻撃を仕掛ける中国軍部隊を撃破しつつ「地獄火谷」を古土里へと向かった。翌7日には全軍古土里への退却に成功した。そこで、ハガル里から国連軍の脱出を許してしまった中国軍は、古土里からの一本道が麓へと下る途中のFunchilin峠付近のコンクリート橋を爆破して国連軍の撤退をストップさせてしまった。

アメリカ空軍はC-119Flying Boxcarsを派遣し、仮設鉄橋資機材を大型パラシュートで投下し、海兵隊戦闘工兵部隊と陸軍工兵仮設橋梁隊によって中国軍により破壊された橋に応急鉄橋を架けるのに成功した。追撃する中国軍は第7海兵連隊やRCT-31に撃退されたり、装備が劣悪だったために凍死したりしたため、撤収部隊は12月11日にはFunchilin峠を突破するのに成功した。麓のSudongで待ち伏せしていた中国軍を撃破した撤収部隊は、その日の夜半、興南港へと到着し、およそ一月半にわたる長津貯水湖周辺での長きに渡る激戦は幕を閉じた。

参考文献:

  • Montross, Lynn and Nicholas A. Canzona. 1957. U.S. Marine Operations in Korea, v.3: The Chosin Reservoir Campaign. Washington, D.C., Historical Branch, G 3, Headquarters U.S. Marine Corps.
  • 41 Independent Commando R.M.
Korea 1950-1952. (internet)
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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