アメリカ海兵隊の歴史<101>仁川上陸作戦(クロマイト作戦)〜朝鮮戦争

〜添付図版等の公開準備中

  • 実施期間: 1950年9月
  • 実施場所: 韓国仁川
  • 作戦の性格: 水陸両用作戦(強襲上陸)
  • 作戦参加: アメリカ海兵隊・アメリカ陸軍・韓国海兵隊・アメリカ海軍・カナダ海軍

1950年6月25日、朝鮮人民軍(以下、北朝鮮軍)による大韓民国軍(以下、韓国軍)に対する奇襲攻撃により朝鮮戦争が勃発した。ソ連製の戦車や各種火砲で武装し侵攻のための訓練も十分行き届いていた北朝鮮軍に対して未だに建設中であった韓国軍は極めて劣勢であった。6月27日の国連安保理による北朝鮮弾劾決議(拒否権を持つソ連の欠席下で採決された)をうけて、アメリカは日本占領中のアメリカ軍を中心とする各国軍隊で国連軍(国連憲章上、厳密には多国籍軍)を編成し韓国軍の支援に乗り出した。しかし、準備不足の国連軍は北朝鮮軍に撃破され、7月末にはアメリカ軍を中心とする国連軍は大邱・釜山周辺地域のいわゆる釜山橋頭堡へと追いつめられた。

大邱を最前線拠点とする釜山橋頭堡を死守して攻勢に転じる決定をしたマッカーサー元帥は、朝鮮半島を縦断して釜山橋頭堡包囲ラインまで進出している北朝鮮軍の伸び切って弱体化している補給線の後方を断って、釜山橋頭堡のアメリカ陸軍第8軍を中心とする国連軍と呼応して北朝鮮軍を挟み撃ちにする作戦、クロマイト作戦、の実施を決定した。この作戦の成否を握るのは、釜山橋頭堡まで進出した北朝鮮軍の背後を脅かすために仁川にアメリカ海兵隊を主力とする国連軍を上陸させてソウルを奪還する水陸両用作戦、仁川上陸作戦、であった。

クロマイト作戦が決定されるまでには、紆余曲折があった。マッカーサー元帥の構想は初めから仁川に反攻部隊を上陸させるシナリオであった。しかし、仁川は気象条件や地形といった自然条件が大部隊の上陸には適さないという理由により、海軍側はマッカーサーの作戦に反対した。また、予定していた陸軍部隊を釜山防衛戦に投入せざるを得なくなったうえ、第二次世界大戦終結によってアメリカ海兵隊の兵力が大幅に削減されてしまったため、肝心の上陸反攻部隊の編成にも苦慮することとなった。結局、ワシントンから海軍作戦部長、陸軍参謀総長、空軍参謀次長が東京に飛びマッカーサーと最終的な作戦会議を開き、マッカーサーの主張する仁川上陸反攻作戦計画の実施が承認され、クロマイト作戦が発動されることになった。(バンデンバーグ空軍参謀総長は海軍と海兵隊が主力となるであろうこの作戦には賛同するつもりがなかったため出席しなかった。また、海兵隊の首脳は招待されず、後々までしこりが残った。)クロマイト作戦の中心兵力としてマッカーサーが直接の司令官となる第10軍団(X Corps)がアメリカ海兵隊第1海兵師団とアメリカ陸軍第7歩兵師団を中心に編成された。(海兵隊部隊が組み込まれてはいるものの組織上は陸軍部隊という位置づけである。)

クロマイト作戦におけるD-デイつまり仁川上陸日は、潮位の関係から9月15日と決定された。D-デイの5日前、9月10日にはアメリカ軍機により上陸予定地のひとつである月尾島(Woimido)要塞に対するナパーム弾爆撃が実施され、海からはアメリカ海軍とカナダ海軍の艦艇によって艦砲射撃と空母艦載機による攻撃が実施された。引き続き13日には、上陸地点周辺を砲撃するために仁川に近づいたアメリカ・カナダ駆逐艦隊に対して月尾島から北朝鮮軍の砲撃があり戦死傷者を含む損害を受けたため撤収し、代わって巡洋艦隊により上陸地点への砲撃が続けられた。D-デイ前日、9月14日にも月尾島要塞を中心に仁川に対する艦砲射撃は継続された。これらの艦砲射撃や航空攻撃により、仁川を守備していた北朝鮮軍に損害が生じただけでなく、数百名の韓国市民も犠牲となった。

D-デイ、9月15日未明、レイテ沖海戦やノルマンディー上陸作戦などで指揮をとり水陸両用戦の経験が豊富なアメリカ海軍第7艦隊司令官ストラブル提督(Vice Admiral)が直接指揮をとる上陸艦隊が仁川に接近した。最も危険で困難な敵前上陸作戦は第10軍団を構成する第1海兵師団の部隊が主として担当し上陸は朝と夕の満潮時に二回にわけて実施することとなった。第一波上陸は、北朝鮮守備隊主力を撃破するために、グリーンビーチと命名された月尾島正面に対して決行される計画であった。

15日午前6時半、グリーンビーチに戦車揚陸艦に乗り込んで接近した第一海兵師団の第5連隊第3大隊と第1戦車大隊から構成された上陸戦闘部隊が上陸を開始し仁川上陸戦の幕が切って落とされた。本格的な上陸侵攻を予期していなかった北朝鮮守備隊の6倍の兵力で上陸したアメリカ海兵隊部隊は守備隊を撃破し、午前中には月尾島全体を占領した。アメリカ海兵隊側の戦死者は14名、北朝鮮側の戦死者は200名で136名が捕虜となった。占領が完了した海兵隊は、グリーンビーチに仮桟橋を建設するとともに、夕方の第二派上陸に呼応してレッドビーチ方面に進撃する準備を開始した。

アメリカ海軍ドイル提督が率いる水陸両用即応戦隊艦艇に分乗した第二派上陸部隊によるレッドビーチとブルービーチへの上陸が15日午後5時半に開始された。月尾島の仁川市街側付け根の部分に当たるレッドビーチには戦車揚陸艦に乗り組み北朝鮮軍の猛烈な砲火の中を接近した第5海兵連隊上陸チームと韓国海兵隊上陸部隊が岸壁を乗り越えつつ上陸に成功した。3隻の戦車揚陸艦に北朝鮮側の砲弾が命中し死傷者を出したものの、上陸部隊は北朝鮮守備隊を撃破し、月尾島と本土をつなぐルートを確保したため、月尾島を占領していた第5海兵連隊第3大隊と第1戦車大隊はレッドビーチに上陸した海兵隊部隊と合流し北朝鮮守備隊の掃討戦が開始された。

仁川からソウルにかけての作戦を展開するために仁川市南部に橋頭堡、ブルービーチ、を構築するためアメリカ海兵隊第1海兵連隊が上陸を開始した。1隻の戦車揚陸艦が北朝鮮守備隊によって撃沈されたものの、駆逐艦からの艦砲射撃や海兵隊コルセア攻撃機による爆撃により北朝鮮部隊は殲滅された。ブルービーチに全ての上陸部隊が上陸し終わるまでには仁川の北朝鮮守備隊は降伏した。北朝鮮軍側の抵抗を排除すると同時に、海軍工兵部隊(Seebees)と海軍水中破壊チーム(UDT、海軍特殊部隊SEALの前身)が加わって第1海兵連隊による橋頭堡の整備が開始された。

仁川上陸の翌日、9月16日、第5海兵連隊は金浦空港に向け進撃を開始した。北朝鮮軍は戦車部隊を派遣して阻止しようとしたが、海兵隊コルセア攻撃機と海兵隊戦車部隊により撃破された。この日から仁川港には、沖合の空母から発進したアメリカ陸軍第7歩兵師団の各部隊が続々と上陸を開始した。同時に、車輌、武器、弾薬、食料、衣料品、その他補給品も大量に揚陸された。9月22日までには、兵員53,882名と各種車輌6、692輌、それに25,512トンに上る補給物資が揚陸された。

金浦空港は北朝鮮守備隊によって防衛されていたが、第5海兵連隊の攻撃と、北朝鮮軍の士気の低下により北朝鮮部隊は敗走し6月18日朝には第5海兵連隊が金浦空港を占領した。金浦空港へも、国連軍は輸送機で燃料や各種補給物資の搬送が開始された。仁川上陸と占領そして金浦空港占領までは、仁川への大部隊の上陸を予期していなかった北朝鮮側の不意をついたために、海兵隊部隊は順調に北朝鮮軍を撃破できた。

金浦空港を占領した第5海兵連隊、ブルービーチから内陸に進撃を開始した第1海兵連隊、それに仁川に上陸した陸軍第7歩兵師団の支援部隊は、それぞれ北朝鮮軍の抵抗を排除しながらソウル市に接近した。ソウル市に配置されていた北朝鮮軍は第78独立歩兵連隊と第25歩兵旅団で兵力はおよそ7,000と規模は大きくなかったものの、仁川の守備隊と違って北朝鮮軍の中でも精鋭部隊であった。

9月22日には海兵隊部隊がソウル市に突入したものの、ソウル市内は至る所が要塞化されており、北朝鮮側との血みどろの市街戦が開始された。25日には、マッカーサー元帥から第10軍団の指揮権を委譲されたアーモンド陸軍少将(第一海兵師団司令官スミス海兵少将と対立しがちで、海兵隊員からは嫌われていた)がソウル市開放を宣言したものの、実際には海兵隊と北朝鮮守備隊の市街戦は継続していた。ソウル市内での市街戦、残敵掃討戦はその後も続き、第1海兵連隊を中心とする国連軍がソウル市を奪還したのは9月29日であった。

第10軍団によってソウル市が国連軍側の手に落ちたことによって、北朝鮮からソウルを経由して釜山包囲網へと延びていた北朝鮮軍補給線は分断され、クロマイト作戦のもくろみどおり北朝鮮軍は補給を断たれる形となった。このように、アメリカ軍首脳の多くが異を唱えたにも関わらずマッカーサー元帥が強行する形で実施された水陸両用作戦は完全に成功した。

参考文献:

  • Headquarters X Corps. 1950. Operation Chromite.
  • U.S. Department of the Navy/Naval Historical Center. The Incheon Invasion, September 1950—Overview and Selected Images.
  • Simmons, Edwin H. 2000. Over the Seawall: US Marines at Incheon.US Marine Corps History Center.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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