アメリカ海兵隊にとっては、島嶼に立てこもっての防衛戦、日本海軍にとっては水陸両用作戦(強襲上陸戦)
- 実施期間: 1941年12月9日〜23日
- 実施場所: 太平洋・ウェーク島
- 攻撃陣営: 日本海軍第4艦隊、海軍第23航空隊、海軍陸戦隊
- 防御陣営: アメリカ海兵隊
- 米海兵隊員損害: 戦死49名、戦傷32名
- 米海軍将兵損害: 戦死3名、戦傷5名
- 米非戦闘員損害: 死亡70名、負傷12名
1941年8月、アメリカ海軍はウェーク島に永久陣地・滑走路を構築し守備隊を常駐させることにした。そこで第一海兵守備大隊、兵員450名、が68名の海軍将兵と1,221名の民間建設関係者とともにウェーク島に進駐した。5インチ/51口型沿岸砲6門、3インチ/50口型対空砲12門、12.7mm重機関銃18丁、その他機関銃30丁で守備を固めた。そして、12月4日には、第211海兵戦闘飛行隊のF4ワイルドキャット戦闘機12機が到着した。ウェーク島守備隊の総司令官はカニンガム海軍中佐、海兵隊指揮官はDevereux海兵少佐であった。
ウェーク島時間(ウェーク島は日付変更線の日本側であり、ハワイやアメリカ本土より1日早い日付になる)12月8日5時10分、マーシャル諸島ルオット島航空基地から発進した日本海軍第24航空隊の96式陸上攻撃機(三菱G3M3)12機がウェーク島を空襲した、4日前に到着した12機のワイルドキャットのうち4機はパトロール飛行中であったが、日本攻撃部隊を発見することはできなかった。地上に駐機中のワイルドキャット8機は全て撃破され、23名の海兵隊員が戦死した。翌日、翌々日と日本海軍第24航空隊はウェーク島を空襲したが、海兵隊の対空砲火は極めて激しいうえに生き残りの戦闘機も必死に迎撃したため、96式陸上攻撃機1機が撃墜された。
これらの空襲と並行して12月8日にクェゼリン環礁を発進した日本海軍第4艦隊ウェーク島攻略部隊が、ウェーク島に接近していた。攻略艦隊は12月10日夜半、ウェーク島沖に到着した。しかし、波が高く上陸用の大発動艇(“大発”と称された上陸用舟艇)の準備が難航し、大発が転覆までする状況になったので上陸作戦は一時中止と決定。とりあえず、艦砲射撃によって守備隊を叩くこととした。11日3時25分、軽巡洋艦「夕張」が艦砲射撃を開始し、それに続いて駆逐艦も艦砲射撃を開始した。
Devereux少佐の指揮により、海兵隊砲台は日本艦艇が近距離に接近してくるまで、激しい艦砲射撃に耐えつつ反撃を控えていた。日本艦艇が接近してくると、6門の5インチ海岸砲を中心に海兵隊守備隊の火砲が一斉に口火を切るとともに、生き残りのワイルドキャット4機も出撃し果敢に攻略艦隊を攻撃した。4時3分、ウィルクス島L砲台の5インチ砲から発射された砲弾2発が、駆逐艦「疾風」に直撃した。疾風は一瞬にして轟沈した。海兵隊の砲撃は激しさを増し、軽巡洋艦「夕張」の艦橋にも11発の砲弾が命中した。それに加えて日本側が予測していなかった戦闘機による攻撃も繰り返されたため、攻略部隊は撤退を決定。しかし、5時42分、退避中の駆逐艦「如月」にワイルドキャットが投下した爆弾が爆雷庫に命中、如月も真っ二つになり轟沈した。この戦闘で撃沈された駆逐艦は第二次大戦で日本海軍が失った初の水上艦であり、二隻の駆逐艦の乗務員は全員戦死した。結局上陸作戦は中止となり、攻略部隊はクェゼリン環礁に撤収した。
このように、ウェーク島上陸攻略作戦は強力な海岸砲とわずか4機の戦闘機の抵抗に阻まれ完全に失敗した。そこで日本海軍は、上陸用船舶の再検討を行うとともに、空母2隻を含む航空戦力の大幅増強、上陸部隊の増強、それに水上戦闘艦艇の増強を行い、再びウェーク島攻略作戦を実施することにした。第2次ウェーク島攻略部隊は、12月21日早朝、クェゼリン環礁を発進した。
一方、ウェーク島守備隊は、本隊に対して補給弾薬に加えて砲艦や対空レーダーなどの増援物資を要求した。(日本側の第二次攻撃が開始されたためこのような補給は実現しなかった。)アメリカ海軍は、戦闘機部隊を艦載した航空母艦(サラトガ)・水上機母艦・油槽艦それぞれ1隻、重巡洋艦3隻、駆逐艦10隻からなるウェーク島救援艦隊を編成し、5インチ海岸砲砲弾9,000発、3インチ対空砲砲弾12,000発それにその他の弾薬300万発を搭載して、ウェーク島に急行した。
12月21日、ウェーク島攻略艦隊の出撃とともに、空母から第2航空戦隊艦載機(戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機)が発進しウェーク島を空襲した。ひき続いて、地上基地から飛来した千歳海軍航空隊攻撃機27機もウェーク島に爆撃を加えた。翌22日も、第2航空戦隊の艦載機(戦闘機、艦上攻撃機)がウェーク島を襲撃したが、2機の海兵隊戦闘機が上空で待ちぶせており、海軍艦上攻撃機2機が撃墜された。22日午後には、ウェーク島攻略艦隊はウェーク島沖合に到着し、上陸態勢を整えた。
21時、アメリカ太平洋艦隊司令部は、ウェーク島周辺には2隻の日本海軍空母が存在している情報を得たため、 ウェーク島救援に向かっていたアメリカ艦隊に撤退命令を発した。ちょうどその頃、ウェーク島攻略部隊も上陸命令が発せられたが、前回同様悪天候に見まわれ波が高く大発の準備に手間取り、日本侵攻軍上陸部隊が上陸地点めがけて接近を始めたのは23日2時ごろからであった。
ウェーク島南東端のピーコック岬沖合から北東方面に12ノットの突入スピードで荒天の中を滑走路西端付近の南海岸サンゴ礁の上に日本海軍哨戒艇32号と哨戒艇33号が突入し擱坐して“着岸”した。日本海軍陸戦隊員たちは滑走路方面へとに次から次へと上陸を開始した。それにひき続いて接近してきた大発も南海岸とウィルクス島に舞鶴特別陸戦隊ならびに第6根拠地隊の上陸部隊を次々と上陸させた。
ウェーク島南海岸上陸地点は海兵隊守備隊のキャンプ1付近であったが、上陸した陸戦隊が近寄っていっても、反撃してくる気配はなく静まり返っていた。しかし、2時35分、突然ウィルクス島の機関銃座が火を吹き50口型の曳光弾が上陸部隊めがけて降り注ぎ始めた。2時45分、ウィルクス島部隊だけでなくウェーク島部隊でもサーチライトが点灯し反撃が開始され、日米両軍の激戦が始まった。
迎え撃つ海兵隊は砲台や機関銃陣地から猛烈な反撃を開始し擱坐している哨戒艇33号は炎上し哨戒艇32号も撃破されたが、日本海軍陸戦隊はアメリカ海兵隊指揮所付近の電話線を切断したため、3時頃にはウェーク島とウィルクス島内に分散している海兵隊守備部隊間の連絡が切断された。また、ピーコック岬付近に上陸した日本海郡陸戦隊小部隊が、南海岸からウィルクス島にかけて上陸した部隊に攻撃を集中させているアメリカ海兵隊守備隊の背後を襲う形となり、4時30分頃には滑走路周辺では日本海軍陸戦隊側が優勢となった。そして、夜明けが近づくと、アメリカ海兵隊守備隊はウェーク島が多数の日本艦艇によって取り囲まれていることに気がついた。しかし、前回の苦い経験から、海兵隊海岸砲の反撃を警戒して、攻略部隊艦艇は島を遠巻きにしていた。
同日7時を期して空母蒼龍と飛竜から艦載機が全機発進しウェーク島に殺到、砲台や守備隊施設に対して猛爆撃を開始した。爆撃に加えて、陸戦隊からの銃撃も激しさを加えてきたため、海兵隊守備隊司令官カンニガム中佐と海兵隊指揮官デベル少佐は戦局を分析し、援軍の見込みは全くないことから降伏を決断。午前8時、デベル少佐が白旗を掲げて日本海軍陸戦隊側に向かった。
一方、ウィルクス島に上陸した日本海軍陸戦隊は効果的な海兵隊側の反撃に直面し、多数の戦死傷者を出しながらもなかなか制圧できない状況が続いた。ウィルクス島砲台に立て篭もる守備隊と攻撃部隊との激戦が続き、日本海軍陸戦隊側の損害はますます増え、夜明けまでにはほぼ全滅してしまった。ウィルクス島海兵隊守備部隊からウェーク島の司令部に何度も連絡を試みたが、連絡が取れず、ウィルクス島砲台では依然として反撃体制を敷いていた。
ウェーク島では、デベル少佐に続いてカンニガム中佐も日本軍の捕虜となり、各砲台や陣地の海兵隊員たちは捕虜になる準備、すなわち通信記録を焼却し、大砲や機関銃を破壊し、そしてたらふく食事をして日本軍の武装解除を受けた。日本海軍攻略部隊は、10時40分、ウェーク島の占領を宣言し大本営に通報した。
ただし、ウェーク島とパール島の守備部隊は降伏していたものの、ウェーク環礁の一部をなすウィルクス島守備部隊は本隊が降伏したことを知らず、日本駆逐艦に向かって砲撃を加えていた。そのため、日本側もウィルクス島陣地に対する空襲を続けた。13時30分、ウィルクス島守備部隊の隊長プラット大尉は、ウィルクス島とウェーク島を隔てるウィルクス水道の対岸に日本軍将校と共に現れた司令官カンニガム中佐が「降伏せよ」との信じられない命令を受けた。この時点で、ウェーク島は名実ともに日本軍の手に落ちた。
ウェーク島の第一次攻略戦では、日本側は2隻の駆逐艦を轟沈されたためそれだけでおよそ500名の将兵が戦死した。それに加えて、激しい海岸砲の砲撃により8隻の艦艇が損害を受け80名が戦死している。それに加えて、二度の攻撃を通して撃墜された海軍航空機は21機であり90名の搭乗員が戦死、撃墜はされなかったが損害を受けた航空機は51機にのぼり13名が戦死している。また、第二次攻略の上陸戦では艦艇乗組員が12名戦死し、陸上戦闘で海軍陸戦隊将兵が125名戦死した。結局、戦死820名、戦傷333名という大きな犠牲を払ってウェーク島の攻略に成功した。
その後、ウェーク島は大鳥島と改称され日本海軍陸戦隊守備隊が配置された。アメリカ軍により時折空襲や艦砲射撃を加えられたが、本格的な奪還作戦は行われなかった。1945年になると、守備隊への補給は潜水艦によりほそぼそと行われるだけとなり、その回数も極めて少なく守備隊員全員が栄養失調になったという惨状であった。8月15日に日本が降伏したあと、9月4日にアメリカ海兵隊が進駐し日本守備隊は降伏し、海兵隊によりようやく食料の補給を受けた。
参考文献:
- Robert J. Cressman. 1992. A Magnificent Fight: Marines in the Battle for Wake Island. Washington D.C.: Marine Corps Historical Center.
- Lt. Col. R.D. Heini Jr. 1947. The Defense of Wake, Marines in WOrlsd War II Historical Monograph.
- USMC.
- Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.
〜添付図版等の公開準備中〜