- 実施期間: 1898年6月10日〜15日
- 実施場所: キューバ、グアンタナモ・ベイ
- 作戦性格: 上陸作戦
- 参加部隊: アメリカ海兵隊第一海兵大隊、キューバ独立派民兵部隊
- アメリカ海軍軽巡洋艦マーブルヘッド、アメリカ海軍砲艦ドルフィン
- 敵対勢力: スペイン軍守備隊
帝国主義的植民地獲得をおしすすめていたアメリカ合衆国と旧植民地帝国スペインは、キューバ・プエルトリコならびにフィリピン・グアムの支配をめぐって対立し米西戦争(1898年4月〜8月)が勃発した。この戦争をとおして、海兵隊員は軍艦には乗艦していたものの、陸上に上陸しての作戦行動はほとんど陸軍部隊によって実施され本格的に海兵隊部隊が投入されたのは、キューバのグアンタナモ・ベイを占領する作戦だけであった。ただし、交通・通商の要衝であったグアンタナモ・ベイの占領は、アメリカ軍のキューバ侵攻作戦にとり極めて重要であった。また、この時占領したグアンタナモ・ベイには現在も米軍基地が存在し、そこに配置されているのは1世紀以上前にこの戦略要地を占領したアメリカ海兵隊である。
1898年4月21日、スペインとの開戦を決意したアメリカ政府はスペイン政府に最後通牒を送るとともに、アメリカ海軍北大西洋艦隊司令官サンプソン提督にキューバの主要港の封鎖を発令した。直ちにサンプソン艦隊はハバナをはじめとするキューバ北岸(アメリカ大陸側)の港湾を海上封鎖したため、プエルトリコ方面に出動していたカリブ海域植民地防衛のために派遣されてきたスペイン海軍セルベラ提督の主力艦隊は、5月19日、キューバ南東岸の戦略拠点であるサンティアゴ・デ・キューバ港に入港した。
セルベラ提督は、優勢なアメリカ艦隊に海上決戦を挑むことを躊躇し、周囲が陸上要塞で固められていたサンティアゴ湾奥に位置してしたサンティアゴ・デ・キューバ港からの出撃を差し控えていた。そのため、サンティアゴ湾沖合にはサンプソン少将の艦隊が集結しサンティアゴ・デ・キューバ港を封鎖した。しかし、アメリカ海軍も、陸上要塞からの砲撃を避けるために、サンティアゴ湾に突入することは出来ず狭い湾の入り口に船を沈めてサンティアゴ・デ・キューバ港を封鎖してしまう閉塞作戦も敢行したが成功しなかったため、サンティアゴ湾の封鎖は長引くことが予想された。したがって、サンプソン艦隊の補給拠点が必要となった。
サンティアゴ湾から40マイルほど離れたところに戦略要地のグアンタナモ湾があり、その湾奥のグアンタナモ市には兵力5,000のスペイン守備隊が配置されており、グアンタナモ湾には2隻の砲艦が配備されていた。サンプソン提督はグアンタナモを占領して長引くであろうサンティアゴ湾封鎖艦隊の補給基地とすることにした。そのため、フロリダのキーウェストで上陸訓練をしながら待機していた海兵隊第一大隊を輸送船USSパンサーに乗船させて封鎖艦隊まで急送させた。
6月6日、サンプソン提督はサンティアゴ湾を封鎖している艦隊から軽巡洋艦USSマーブルヘッドと2隻の補助巡洋艦(USSセントルイス、USSヤンキー)をグアンタナモ湾に派遣した。夜明けとともにグアンタナモ湾に突入した3隻の巡洋艦は海岸沿いの砲台や見張り番屋それに通信ケーブル施設を砲撃し破壊した。通信ラインが破壊されたためグアンタナモの守備隊はサンティアゴ・デ・キューバやその他の地点との交信を絶たれることになった。グアンタナモ湾奥から2隻のスペイン海軍砲艦が反撃のため巡洋艦に接近したがたちまち撃破され湾内に撤退した。巡洋艦マーブルヘッドは、乗艦している海兵隊員とともに上陸適地を選定し封鎖艦隊へと帰還した。
6月9日、ハンチントン海兵中佐が指揮する650名の第一海兵大隊を乗船させたUSSパンサーがサンティアゴ湾沖の封鎖艦隊と合流した。翌10日、上陸部隊を乗せたUSSパンサーと巡洋艦USSマーブルヘッドはグアンタナモ湾の上陸地点沖に到着し、スペイン守備隊側からの反撃を受けることなく無事に上陸を開始した。
上陸地点前方には、スペイン守備隊の小型要塞が睨みを利かしていたが、海兵隊歩兵部隊の揚陸が極めて短時間で実施されたため、身の回りの備品や宝石なども放置したまま逃亡してしまった。無血で敵の小型要塞を確保したものの、黄熱病に警戒していた海兵隊員たちは要塞内に放置された貴重品を分捕ることは出来なかった。海兵隊は、この要塞周辺に防御体制を敷いてキューバの地に初めてのアメリカ国旗を掲揚し前進陣地とした。
歩兵部隊に引き続き砲兵部隊が上陸する際に、大砲の揚陸に関する標準手順が確立していなかったために輸送艦側と海兵隊側との連携がうまくいかなかったが、結局夕刻までには第一海兵大隊は無事に揚陸を完了した。揚陸作業中に、キューバ独立派の民兵部隊がハンチントン中佐率いる上陸部隊に合流した。グアンタナモ周辺の情報を持っているキューバ民兵部隊により、クズコ井戸と呼ばれる水源地にスペイン守備隊本部が置かれており、クズコ井戸がグアンタナモ守備隊唯一の水源であるため、そこを陥落させればスペイン守備隊は撤退せざるをえないことが判明した。(ちなみに、第一海兵大隊の飲料水は輸送艦から補給されていた。)
夜になると、スペイン軍部隊が時折接近してきては海兵隊前進陣地に発砲したため、海兵隊側も反撃するとともに、USSマーブルヘッドから陣地前方に対して艦砲射撃を実施してもらった。いずれにせよ、この前進陣地は防御に適さないため、翌11日、第一海兵大隊とキューバ民兵部隊はクズコ井戸方面を目指して前進を開始した。すると、最新鋭のモーゼル・ライフルで武装したスペイン守備隊が猛射撃を加えてきた。一方の、海兵隊砲兵部隊は新型の3インチ速射砲を4門とM1885機関銃を装備しており、それぞれの海兵隊員も新型ライフルM1885リー・ネイビー6mmライフルを携行していた。そのため、海兵隊とスペイン守備隊の最新武器を使用しての射撃戦は激烈を極め、以後断続的に3日間続いた攻防戦は後に海兵隊では「100時間の激闘」と命名した。
3日3晩にわたるほとんど不眠不休の戦闘にくわえて“熱中症”にも悩まされたため海兵隊側の疲労も極限に達したが、海兵隊・キューバ民兵部隊は徐々にクズコ井戸司令部方面へと肉薄していった。加えて、陸上で戦う海兵隊は海上のUSSマーブルヘッドと信号で交信をしながらスペイン部隊側への艦砲射撃地点を指示し砲撃が実施された。
6月14日昼過ぎ、ついに海兵隊先鋒部隊はクズコ井戸のスペイン軍司令部への攻撃を開始した。海兵隊員が装備した新型6mmライフルの銃弾重量は軽量であったため多数の弾丸を携行できたためふんだんに銃撃が実施できたうえ、初めてこの戦闘で新型機関銃を攻撃用に投入しそれが絶大な威力を発揮した。(スペイン軍守備隊は、海兵隊の火力から判断して、およそ1万のアメリカ軍の攻撃を受けたと報告している。)
更に、スペイン軍に対するUSSマーブルヘッドと応援に駆けつけた砲艦USSドルフィンからの激しい艦砲射撃で、海兵隊・キューバ民兵軍にも被害が生じたが、スペイン守備隊は大きな損害を受け撤退を始めた。午後3時半ごろ、砲艦ドルフィンからの砲弾がスペイン軍司令部と水源の井戸施設を破壊しスペイン守備隊は武器を捨てて逃走した。第一海兵大隊とキューバ民兵部隊はクズコ井戸のスペイン守備隊司令部は占領したものの水源が破壊されてしまったため、海兵隊員たちもUSSドルフィンから水が補給されるまでは飲料水がなく、苦しい勝利となった。
スペイン守備隊司令部の陥落により、グアンタナモのスペイン軍はカヨ・デル・トロ砲台に立て篭もる部隊だけとなった。サンプソン提督は、6月16日、USSテキサスとUSSヤンキーをUSSマーブルヘッドに合流させてカヨ・デル・トロ砲台に対する砲撃を開始した。砲台からの反撃でアメリカ巡洋艦も被弾したものの、カヨ・デル・トロ砲台は多大な損害を受けた。しかし、砲台沖合に設置された機雷原によって、アメリカ戦隊は砲台岸に肉迫することが出来なかったため、以後数日間は巡洋艦からボートを下ろして手作業による機雷発見・除去作業(現代の掃海作業)を実施しなければならなかった。ようやく、機雷原を除去して砲台に接近し海兵隊上陸部隊を送り込んだ25日には、すでにスペイン軍残留守備隊は撤退しており、グアンタナモ湾は完全にアメリカ軍の手に落ちた。
グアンタナモの守備隊が逃走し、実質的にグアンタナモ方面からのスペイン軍の攻撃の恐れがなくなった6月22日、兵力およそ1万5千のアメリカ陸軍第5軍団がサンティアゴとグアンタナモの中間地点に上陸して、兵力およそ4千のキューバ独立は民兵部隊とともに陸路サンティアゴへと進撃を開始した。24日にはラス・グアシマスで両軍が衝突しスペイン軍が敗走た。7月1日、アメリカ軍はサンティアゴ・デ・キューバ外縁防御線に総攻撃を仕掛けた。両軍はエル・カーニーとサン・ファン・ヒルで激突し、死闘が展開された。結局、スペイン防衛軍はサンティアゴ・デ・キューバに撤退しアメリカ側の勝利が確定したものの、アメリカ第5軍団・キューバ民兵軍はスペイン軍の3倍という多大の損害を出したため、サンティアゴ・デ・キューバへは突入せずに包囲する事になった。
海上も封鎖され陸上でも包囲されてしまったサンティアゴ・デ・キューバの総督と軍司令官は、サンティアゴ・デ・キューバ湾に逼塞しているセルベラ艦隊司令官に対して出撃を強要し、7月3日朝、セルベラ提督の旗艦装甲巡洋艦インファンタ・マリア・テレジアを先導艦とするスペイン艦隊6隻(装甲巡洋艦4隻、駆逐艦2隻)は全く勝算のないままサンティアゴ・デ・キューバ湾を抜けだした。この瞬間を待ち構えていたアメリカ封鎖艦隊の軍艦7隻(戦艦4隻、装甲巡洋艦1隻、砲艦2隻)は一斉にスペイン艦隊に襲いかかり砲撃戦が展開された。スペイン艦2隻が撃沈され、2隻が座礁し、2隻が自沈しアメリカ側の完勝に終わった。
ちなみに、サンティアゴ・デ・キューバでの陸戦(サン・ファン・ヒルの戦闘)に案内された駐米外国観戦武官には義和団事件で世界的に評価された日本陸軍柴五郎少佐(観戦当時)が加わっており、サンティアゴ・デ・キューバ湾口沖海戦の駐米外国観戦武官には日露戦争で連合艦隊作戦参謀を務めた日本海軍秋山真之大尉(観戦当時)が加わっていた。秋山大尉は、サンティアゴ・デ・キューバ湾での海戦に関する詳細なレポート(「極秘諜報第百十八号:サンチャゴ・デュ・クパ之役」)を観戦と戦後の実地調査をもとに記し、日本海軍にとり多数の貴重な教訓を提示した。
参考文献:
- Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.
- Naval Historical Foundation. 2003. U.S.Navy: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.
- Chester G. Hearn. 2002. An Illustrated History of the United States NAVY. London: Salamander Books Ltd.
- Richard Hill. 2002. War at Sea in the Ironclad Age. London: Cassell.
〜添付図版等の公開準備中〜