アメリカ海兵隊の歴史<007>米墨戦争:東部戦線と海兵隊

1846年5月〜1948年2月

テキサス共和国の帰属をめぐって勃発した米墨戦争は、前節で垣間見たようにアメリカ合衆国が手に入れたかったアルタ・カリフォルニアでの散発的な武力衝突と並行して、より大規模かつ熾烈な軍事衝突がメキシコ東北部と首都メキシコシティ方面で継続していた。

そもそもアルタ・カリフォルニアにはメキシコ陸軍は多くの正規軍を配置しておらず、メキシコ海軍もカリフォルニア湾には数隻の小型軍艦を配備していただけで太平洋沿岸には全く海軍は配置していなかった。したがって、アメリカ側もアルタ・カリフォルニアには大規模な艦隊を送り込む必要はなく、それほど規模の大きくない太平洋戦隊で十分以上の海軍力となった。また陸上での戦闘力もメキシコから独立したカリフォルニア共和国の民兵組織から発展したカリフォルニア大隊とアメリカ合衆国から陸路遠征してきたカーニー准将の竜騎兵という陸軍力が存在したものの、米墨開戦からカリフォルニアでの終戦(カフエンガ条約)までアメリカ軍の陸上戦力の主力となったのは太平洋戦隊軍艦に乗ってカリフォルニア沿岸を移動して陸上での作戦を行うおよそ400名の海兵隊員であった。

メキシコ東北部での陸戦

アメリカがメキシコに宣戦布告する5日前の1946年5月8日、アメリカ合衆国に合流併合されたテキサスの国境防御のためにメキシコ国境を監視していたアメリカ陸軍(兵力2,400名)と、テキサス共和国の独立すら認めていなかったメキシコがテキサスに派遣したメキシコ北部軍(兵力3,400名)との間で本格的軍事衝突が発生した。このパロ・アルトの戦闘では、双方ともに決定的な勝利を勝ち取ることが出来ず、翌日再び両軍がレサカ・デ・パルマで激突した。この戦いでは多数の死傷者を出しながらもザカリー・テイラー将軍(米墨戦争後、第12代アメリカ合衆国大統領)が率いるアメリカ軍が勝利を収めメキシコ北部軍は撤退した。

北部メキシコの要塞都市モンテレイでアメリカ軍を迎え撃つ準備を整えていたアンプディア将軍が指揮するメキシコ北部軍と、兵力を増強しメキシコ領内を進軍してきたテイラー将軍率いるアメリカ陸軍が、9月21日にモンテレイ郊外で激突した。兵力6,220のアメリカ軍と兵力およそ1万のメキシコ軍との激戦は23日まで継続し、ついにアメリカ軍がモンテレイに突入し市街戦へと発展した。しかし、アメリカ軍の火力が質量ともにまさるのと、双方ともに多大の損害を出していたためテイラー将軍とアンプディア将軍は休戦協定を締結した。

第一次タバスコの戦闘

これらのメキシコ東北部における米墨戦争の初戦は、テキサスから進撃したアメリカ陸軍の戦いであり、海軍や海兵隊の出る幕はなかったが、ペリー代将が実施したメキシコ湾沿岸域での作戦には海兵隊が投入された。

1846年10月、メキシコ湾岸の要衝であったタバスコ地方の中心都市ビジャエルモサ(当時はサン・ファン・バウティスタと呼ばれていた)を占領することによってメキシコの補給活動に打撃を与える作戦を立案したアメリカ海軍は、マシュー・C ・ペリー代将が率いる7隻の軍艦と500名の海兵隊からなる分遣隊をメキシコ南東部タバスコ地方へと派遣した。10月22日、タバスコ川(グリハルバ川)河口の町フロンテラに到着したペリー艦隊は、メキシコ軍が不在であったためフロンテラには戦闘なしで海兵隊が上陸しそのまま占領して少数の海兵隊員を守備隊として町に残し、戦隊をタバスコ川を遡上しつつビジャエルモサに進めた。

10月24日、ビジャエルモサに到着したペリー艦隊はただちにメキシコの船5隻を拿捕した。ちょうどビジャエルモサの守備隊の大半が不在であったためペリーは海兵隊を上陸させて市内に拠点を築き、タバスコ州知事兼軍司令官に降伏を迫った。しかしその夜メキシコ守備隊が帰還したため、メキシコ側は市内の防備を固めて、翌25日、ペリーの要求を拒絶した。武力による占領を決意したペリーは、26日朝ビジャエルモサに対する砲撃の準備を開始したが、メキシコ軍からペリー艦隊と海兵隊の築いた拠点に対して砲撃が開始された。軍艦からの砲撃を開始したものの戦局が不利と悟ったペリーは拠点の撤収を決意し、ペリー艦隊は3日間だけビジャエルモサに留まっただけでフロンテラに撤退した。(第一次タバスコの戦闘、アメリカ側戦死傷者6名、メキシコ側戦死傷者50名)

ペリーは、フロンテラの守備を固めてメキシコ湾沿岸部のメキシコ側補給活動妨害の拠点とした。11月には海兵隊をタンピコに派遣して占領し、タンピコからタバスコ川を海兵隊に遡上させてメキシコ側の補給活動を妨害したのち、艦艇の修理と艦隊の休養のためバージニアのノーフォークに帰還した。


ベラ・クルス上陸作戦

モンテレイの戦い(1946年9月)での休戦成立以降テイラー将軍は主力部隊を来るべきスコット少将のメキシコシティ攻略戦に備えるためにメキシコ東岸に転進させ、自らは少数の手勢を率いてモンテレイ周辺メキシコ北部の占領を続けた。1847年になり戦力を回復したメキシコ北部軍は、手薄になっているアメリカ占領軍を駆逐しようとした。

2月23日、兵力1万6千のメキシコ軍と兵力4,750のアメリカ占領軍がブエナ・ビスタで激突した。アメリカ軍は兵力こそ劣勢であったが、強力な砲兵隊と竜騎兵それにライフル隊の攻撃力は極めて強力であり、加えて大統領選挙への野心を持っていたテイラー将軍の果敢な陣頭指揮によって、熾烈な激戦の末、兵量が3倍以上のメキシコ軍を撃破した。(アメリカ軍:戦死267、戦傷456、行方不明23、メキシコ軍:戦死594、戦傷1,039、行方不明1,800、捕虜294)

この激戦によって、メキシコ北部での戦闘は終結し、メキシコ北部はアメリカ軍の占領するところとなった。その後、メキシコ戦線での指揮がスコット少将に移ったのを機にテイラー将軍は、ワシントンに帰還して大統領選挙出馬準備を開始する。(ちなみに、ブエナ・ビスタでの勇戦が追い風となってテイラー将軍は大統領選挙に勝利し、第12代アメリカ合衆国大統領に就任した。)

メキシコ北部を占領したアメリカ軍は、いよいよメキシコシティを攻略して米墨戦争を終結させる作戦を立案した。メキシコシティへの進軍は、テキサス方面から陸路大軍を進めるのではなく、メキシコシティに近いメキシコ湾岸の戦略要地であるベラクルズに遠征軍を上陸させて、そこを拠点に大軍を進めてメキシコシティに侵攻することとなった。その結果、アメリカ軍初の陸軍と海軍との大規模恊働上陸作戦、ベラクルズ上陸作戦、が実施されるはこびとなった。兵力およそ1万2千名のメキシコシティ遠征軍の指揮は陸軍のスコット少将が執り、ベラクルズに上陸する前に全遠征軍はペリーが占領したタンピコに終結し最終準備を整えた上でベラクルズに向けて出動することとなった。

この遠征作戦の第一関門は、強力な3つの要塞で守られているベラクルズを占領することである。そのためには、1万2千名の陸軍部隊と400名の海兵隊を無事に上陸させなければならない。そこで、スコット少将は上陸用の特殊ボート(現代の上陸用舟艇の起源)を開発させた。このボートは、平底で幅が広く前からでも後ろからでも乗降ができ、一隻のボートには40名の陸戦部隊1個小隊と8名の水兵それにボートを指揮する海軍士官が乗り込むように設計された。1隻795ドルの上陸用ボートは、141隻調達された。それに加えて、ベラクルズ包囲戦に人員や物資の運搬に使うための50隻の小型帆汽船も発注した。

スコット少将とメキシコシティ遠征軍を積載したコナー代将が指揮をとるアメリカ艦隊は、1947年3月3日、ベラクルズを目指して出動した。ベラクルズ沖に接近した6日、上陸適地を選定するためにコナー代将は偵察部隊をベラクルズ沿岸に派遣した。ベラクルズ市外縁には3つの要塞が築かれており、ベラクルズ沖合にはサン・ファン・デ・ウルアという要塞島がにらみをきかせていた。そのため、それらの要塞砲の射程圏外のベラクルズ南方3マイルのコラード・ビーチが上陸地点に選定された。

荒天の7日が過ぎ8日の昼前には上陸に適した天気となった。メキシコ軍偵察部隊が遠望できたが、コナー艦隊から威嚇砲撃をすると去っていってしまった。1530時、上陸用ボートが降ろされそれらに第一陣の海兵隊・陸軍部隊が移乗を開始した。すべての乗り込みには2時間を要し、1730時、一斉に上陸用ボートはコラード・ビーチを目指して艦隊を発進した。海岸への接近中、メキシコ軍側からの攻撃はなく、無事に第一波上陸部隊は海岸に上陸した。同様に第二陣、第三陣も上陸用ボートに移乗して一斉に上陸する手順を繰り返し、22時までには1万名以上の陸戦部隊が、一人の死傷者もなく無事に上陸を果たした。

このように、アメリカ軍が発足して最初の大規模上陸作戦“D-Day”は大成功であった。そして、この大規模上陸作戦は、海軍と海兵隊だけによって実施されたのではなく、海兵隊も含んだ海軍と陸軍の全面的統合作戦として実施されたのであった。

1万2千名の陸軍将兵と400名の海兵隊員の上陸後、数日間で大砲や砲弾それに補給物資などを揚陸し、スコット少将の司令部を構築してベラクルズ包囲戦の準備を完了させた。13日までには、陸軍部隊がベラクルズの内陸側に陣を敷き、ベラクルズ沖合にはコナー艦隊が待機した。しかし、ベラクルズには兵力3,000の装備の行き届いた精鋭が3つの要塞を守備し1万5千人の市民も立て篭もっていた。また沖合のサン・ファン・デ・ウルア要塞には1,000名の守備隊と100門の大砲が装備されており、アメリカ艦隊全艦を沈めるだけの威力を誇っていた。

スコット少将もコナー代将も味方の損害を避けるために強襲を控えて、厳重に包囲してベラクルズに降伏を迫った。しかし、ベラクルズからは反撃の砲撃はあるものの降伏の兆候はなかった。そこで軍艦から大型砲を陸揚げして陸から砲撃を加える強襲作戦を立案したが、この包囲戦のまっただ中にアメリカ海軍人事異動が行われペリー代将がコナー代将の後任として赴任してきて、艦隊の指揮が交替した。

ペリーは艦載砲数門を陸揚げして陸からの砲撃力を増強するとともに、自らが率いる艦隊によってメキシコ側の要塞への艦砲射撃を実施し、海陸共同砲撃により敵の抵抗力を一気に叩く作戦を立てた。3月22日夕刻、まずスコット少将が陸からの砲撃を開始した。そして夜半にはペリー艦隊からの艦砲射撃が開始された。とりわけ、ペリー艦隊の小型蒸気砲艦「スピットファイアー」は、快速を生かしてベラクルズやサン・ファン・デ・ウルア要塞に肉薄し正確な砲撃を敢行したため、メキシコ側はアメリカ海軍の砲撃により大きな損害を受けた。23日には、陸戦部隊に届いた24ポンド艦載砲が火を吹き始め、ベラクルズに向けて海側からも陸側からも強力な砲撃を開始し、陸軍がロケット弾(コングレーヴ・ロケット)も市内に打ち込み始めた。メキシコ軍は、24日になると、援軍要請のための使者を派遣しようとしたがいずれもアメリカ軍に阻止されてしまった。3日間にわたる砲撃の結果、25日メキシコ守備隊は降伏交渉を申し出て、29日にはベラクルズならびに4つの要塞はアメリカ軍の手に落ちた。

アメリカ軍最初の大規模水陸両用戦かつ大規模海陸統合作戦は、メキシコ軍が海岸での上陸阻止戦を行わなかったことと、スコット少将が強襲攻城戦を避けて包囲戦を実施したことが功を奏して、成功裏に終わった。アメリカ軍の戦死者は13名、戦傷者は55名、メキシコ軍側の戦死傷者数は定かではないが200〜400名と言われている。この水陸両用作戦は、アメリカ軍にとっては第二次世界大戦まで最大規模の作戦であった。

第二次タバスコの戦闘

ベラ・クルズを占領し、スコット少将の侵攻軍が内陸に前進を開始すると、メキシコ軍への海上からの補給をさらに徹底して遮断するためにペリー代将はモスキート戦隊を編成してタクスパン港占領に向かった。ペリー代将にとっては、ベラクルズ上陸戦に参加した海兵隊員たちはこれから実施する上陸作戦に必要な戦力であるため、陸軍部隊と別れてモスキート戦隊とともに海へと乗出した。

4月17日、ペリーのモスキート戦隊はタクスパンの河口沖合に到着した。タクスパンには400名のメキシコ軍守備隊が配置されていた。翌日、ペリーは上陸部隊を2隊に分けて1隊は自ら陣頭指揮を執り河口の両岸に一斉上陸を敢行した。タクスパン守備隊の抵抗は弱く、海兵隊・水兵による上陸部隊はタクスパンの要塞に突入すると守備隊は逃走した。ペリーは数日間留まった後、2隻の軍艦と占領要員を配置して、残るメキシコ側の港、そして数カ月前に占領に失敗したビジャエルモサ攻略に向かった。

防御の固いビジャエルモサを攻略する前に、近接した港町カルメンを占領し準備を整えたペリーのモスキート戦隊はメキシコ湾を河口の町フロンテラからタバスコ川(グリハルバ川)を遡上しビジャエルモサに向かった。モスキート戦隊は海兵隊を中心とする1,173名の陸戦部隊を乗艦させており、上陸用ボート47隻を曳航していた。

6月15日、モスキート戦隊がビジャエルモサにあと20kmほど接近した「悪魔の湾曲」と呼ばれた川がS字に湾曲した場所に差し掛かると、メキシコ軍スナイパーの一斉射撃が浴びせられた。直ちに砲撃の応射を開始したが、川底に障害物が設置されておりペリーの戦隊は停止せざるを得なくなった。そこで、この地で海兵隊を上陸させて陸路ビジャエルモサへ侵攻することとなった。

翌朝、海兵隊を中心とする陸戦侵攻部隊が上陸するに先立って、モスキート戦隊の各艦から上陸地周辺に対して一斉に艦砲射撃が開始された。ひき続いてペリーが率いる海兵隊が一斉に上陸を開始し、無事に上陸するとビジャエルモサに向かって進軍を開始した。メキシコ軍はビジャエルモサ郊外に要塞を築いて600名の守備兵を配置し待ち構えていた。ペリーは要塞に砲撃を加えた後、自ら刀を手にして海兵隊の先頭に立ち要塞に突撃するとたちまちメキシコ軍は敗走した。(アメリカ軍:行方不明3、戦傷6、メキシコ軍:戦死傷30)

この間、モスキート戦隊は川底の障害物の除去に成功しタバスコ側の遡上を続けてビジャエルモサに達した。モスキート戦隊各艦からビジャエルモサ市内の要塞に対して激しい艦砲射撃を加えた後、モスキート戦隊の60名の水兵が要塞に突入し占領してしまった。そこに、陸路進撃してきたペリーと海兵隊が到着し、ビジャエルモサを完全に占領した。

その後、ペリーの戦隊は黄熱病やメキシコ側ゲリラに悩まされながらもビジャエルモサの占領を継続した。ビジャエルモサの占領によってメキシコ湾岸沿いからメキシコシティに対する補給線はアメリカ軍によって遮断された。

“海兵隊讃歌”に謳われたチャプルテペク城の激戦

3月29日にベラクルズを陥落させたスコット少将の兵力8,500のアメリカ陸軍遠征部隊はメキシコシティを目指して内陸へと進軍した。メキシコ軍最高指揮官アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍はセルロ・ゴードという谷間の狭隘の地に1万2千の軍勢を配置してスコット軍を待ち受けた。4月18日、両軍は激突し死闘が展開され両軍ともに多大な損害を出したが、アメリカ軍の偵察隊はセルロ・ゴードの側面に至る山間ルートを発見し、アメリカ軍によるメキシコ軍に対する側面攻撃が功を奏しメキシコ軍は潰走した。(アメリカ軍:戦死63、戦傷367、メキシコ軍:戦死436、戦傷764、捕虜およそ3,000、砲49門鹵獲)

その後はメキコ軍による待ち伏せはなく、5月15日にはスコットの遠征軍はメキシコ第二の都市であるプエブラに到着した。独裁者サンタ・アナ将軍に反感を持っていたプエブラではアメリカ軍を迎え入れたため、全く無血でプエブラを占領した。スコット少将は、メキシコシティまであと120kmへと接近したこの地で軍の回復と訓練それに援軍の到着を待つことにした。

アメリカ海兵隊総司令官ヘンダーソン大佐は、スコット少将の遠征軍に海兵隊部隊を援軍として派遣することをポーク大統領に進言し了承を得た。そこで、老練なワトソン中佐が率いる346名の海兵隊部隊をベラクルズに送り出して、そこでペリー戦隊と行動を共にしているおよそ400名の海兵隊員と合流後プエブラに急行させてスコット少将の陸軍部隊に追いつかせようとした。しかし、ペリー代将は彼の片腕として数々の上陸戦をこなしてきた海兵隊部隊を手放したがらなかったため、結局はワトソンが率いる400名の海兵隊員だけがスコットのメキシコシティ遠征軍に合流した。

プエブラで将兵の回復を図るとともに十分な訓練を実施したうえ、兵力400名とはいえ精強な海兵隊援軍を手にしたスコット少将は、8月7日、メキシコシティを目ざして進軍を開始した。8月19日、メキシコシティ郊外のコントレラスでスコット軍とメキシコ軍前衛が激戦を交えた。敗れたメキシコ軍は後退したが、翌20日には、さらにメキシコシティに接近したチュルブスコで両軍は死闘を展開した。両日の戦闘でのアメリカ軍の戦死者は150名以上、戦傷者も1,000名を超え40名が行方不明となった。一方のメキシコ軍は戦死者がおよそ1,000名、戦傷者1,700名、20名が行方不明となり2,104名が捕虜となった。この戦闘の後、アメリカ軍とメキシコ軍は休戦協定を結び、メキシコシティのメキシコ軍と郊外に布陣したアメリカ軍は睨み合う形となった。

9月8日、メキシコシティ城外3kmに聳えるチャプルテペク城に隣接しているモリノ・デル・レイ(王の工場)と呼ばれる工場施設群の鋳造所でメキシコ軍が大砲を鋳造して軍備を増強しているとの情報を得たスコット将軍は、モリノ・デル・レイを攻撃した。アメリカ軍側も多大の損害を出した(戦死116名、戦傷665名、行方不明18名)が、メキシコ側も甚大な損害を出し(戦死269名、戦傷500名、捕虜852名)て撤退した。アメリカ軍は鋳造所や大砲製造関連設備を破壊し、メキシコシティの前面に立ちはだかるチャプルテペク城攻撃準備を開始した。

メキシコシティの前衛チャプルテペク城前面に展開するスコット中将率いるアメリカ軍の兵力はおよそ7,500、一方チャプルテペク城とメキシコシティで防御体制を固めたメキシコ大統領兼軍最高指揮官アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍が率いるメキシコ軍の兵力はおよそ2万であった。60メートルの丘の上に築かれていたチャプルテペク城にはメキシコ軍士官学校が設置されており、決戦に備えて3,400名ほどに増強された守備隊には200名ほどの士官学校学生(13歳のものもいた)も含まれていた。

9月12日、スコット将軍はチャプルテペク城に対する砲撃を開始し、一日中砲撃を続けた。そして翌13日朝、アメリカ陸軍突撃隊が攻撃正面と定められた城の南斜面から突撃を開始した。アメリカ海兵隊は側面突撃部隊を編成し城の南西部に対して突撃した。大激戦の末、突撃隊が城壁を突破して、チャプルテペク城の城門は打ち破られアメリカ軍本隊が場内に進撃しチャプルテペク城はアメリカ軍の手に落ちた。

チャプルテペク城占領後メキシコシティをどのようにして攻撃するのかスコット将軍は明らかにしていなかったため、海兵隊部隊を含めて多数のアメリカ軍部隊は撤退したメキシコ軍をそれぞれ追撃してメキシコシティのサン・コスメ門とベレン門に迫った。13日夜までにはこれらの城門はアメリカ軍に突破され、サン・コスメ門を打ち破った海兵隊は初めてアメリカ国旗をメキシコシティに掲揚した。その夜のうちにサンタ・アナ将軍はおよそ1万名の軍隊とともにメキシコシティから逃亡し、翌14日、スコット将軍とアメリカ軍本隊はメキシコシティに入城し占領した。

このようにして、チャプルテペク城ならびにメキシコシティ攻防戦は、アメリカ軍側が戦死130名、戦傷703名、行方不明29名、メキシコ軍側が戦死傷者およそ1,800名、捕虜823名と双方ともに甚大な犠牲を払って終結した。

チャプルテペク城の戦闘で、側面突撃を主導したアメリカ海兵隊は士官・下士官の9割が戦死し、部隊としての戦死傷率もスコット軍の中で最も高かった。そのため、アメリカ軍ではチャプルテペク城の戦闘そしてひき続いてのメキシコシティ攻防戦での最高殊勲は海兵隊突撃部隊と評価し、チャプルテペク城の俗称「モンテズマのホール」を海兵隊讃歌の冒頭の一節に掲げて、「モンテズマのホールから、トリポリの海岸まで」と海兵隊員の勇敢さを讃えている。また、海兵隊の礼服のズボン側面の赤いストライプは、この戦闘を通して勇敢に戦い斃れた海兵隊員の血を象徴するものとされている。

米墨戦争終結

メキシコシティ陥落後、メキシコ大統領の座を失い手勢を率いて逃亡したサンタ・アナ将軍は、メキシコシティ〜プエブラ〜ベラクルズを結ぶアメリカ占領軍の補給線をゲリラ部隊によって脅かしたが、アメリカ軍はプエブラをはじめとする補給ルート要衝の守備隊を強化して、メキシコ軍ゲリラ部隊の攻撃を封じた。10月8日、サンタ・アナ将軍の手勢2,000の槍騎兵とアメリカ軍テキサス・レンジャー3,000がプエブラ近郊で衝突した。テキサス・レンジャーがサンタ・アナ軍を打ち破り、この戦闘がサンタ・アナ将軍最後の抵抗となった。ここに、メキシコシティからベラクルズにかけてのメキシコ東部での武力衝突はほぼ終結した。

一方、カリフォルニア沿岸占領地(サンフランシスコ、モントレイ、サンタクルズ、サンタバーバラ、ロサンゼルス、サンディエゴなど)でのメキシコ側による奪還の動きなどが全く見られなくなった1847年夏以降、アメリカ海軍太平洋戦隊主力は陸戦部隊である海兵隊ともどもアルタ・カリフォルニア沿岸から南下してカリフォルニア湾沿岸のメキシコ側拠点を占領する作戦を開始した。

1847年夏から1848年2月にかけて、太平洋戦隊は軍艦による威圧と海兵隊やニューヨークからカリフォルニア方面の陸戦部隊増強のために派遣されてきた陸軍ニューヨーク民兵第一連隊を上陸させることにより、メキシコ正規軍が存在しなかったカリフォルニア湾沿岸の交通の要衝や港湾都市を次々と占領した。一部の街ではメキシコ民兵部隊が組織され戦闘が散発的に発生したものの、メキシコ正規軍による反撃ではなかったため、いずれもアメリカ海軍太平洋戦隊によって撃退した。結局、太平洋戦隊は、カリフォルニア湾のメキシコ側拠点を全て占領するとともに、メキシコ海軍の艦艇や商船多数を撃破・拿捕し、メキシコ軍残党に対するメキシコ湾・太平洋側からの補給も完全に絶たれた。

このように、アルタ・カリフォルニアでの戦闘を経験した太平洋戦隊の海兵隊は、引き続きメキシコ湾岸の諸都市への上陸(ほとんど激しい戦闘はなかったが)や占領、それにまれに発生したメキシコ軍艦との海戦では“伝統的”な接近戦での射撃といった任務をこなしたのであった。

メキシコ北部はテイラー軍に占領され、メキシコシティ周辺はスコット軍に占領され、メキシコ湾岸はペリー艦隊に支配され、アルタ・カリフォルニアとカリフォルニア湾沿岸は太平洋戦隊に支配されるに至り、メキシコ政府はアメリカ政府と終戦交渉を開始した。1848年2月2日、アメリカ政府代表団とメキシコ政府代表団はメキシコシティ郊外のグアダルーペ・イルダゴで条約を締結し米墨戦争は終結した。同時に、テキサスからアルタ・カリフォルニアにかけてのメキシコの広大な土地(およそ136万平米)は1,500万ドルでアメリカ合衆国に譲渡された。

参考文献:

  • Mark Crawford et.al. 1999. Encyclopedia of the Mexican War.
  • U.S.Army Center for Military History. Gateway South: The Campaign for Monterey.
  • Spencer C. Tucker. 2012. The Encyclopedia of the Mexican-American War: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO.
  • Paul C. Clark & Edward H. Moseley. “D-Day Veracruz, 1847: A Grand Design” JFQ Winter 1995-96.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

〜添付図版等の公開準備中〜

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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