アメリカ海兵隊の歴史<005>第一次バルバリ戦争

アメリカ合衆国が独立して初めての対外戦争で、名実ともに発足したアメリカ海兵隊がその名声を打ちたてたのはトリポリの戦いといわれる戦闘であった。

  • 実施期間: 1804年2月16日、1805年4月27日
  • 実施場所: オスマントルコ領北アフリカ・トリポリ
  • 作戦の性格: 陸上戦闘、水陸両用作戦(海軍による継続的補給)
  • 参加部隊: アメリカ海軍・アメリカ海兵隊・傭兵部隊
  • 交戦相手: トリポリ海軍・陸軍

1700年代後期、地中海に面する北アフリカはオスマントルコ帝国の領域であったが帝国内自治州としてバルバリ諸国と呼ばれていた。それらのうちトリポリ、チュニス、アルジェが中心をなしておりオスマン・トルコ帝国からパシャ(州総督)が派遣されていた。バルバリ諸国は強力な海軍を組織して地中海を通過する商船から通行料を徴収したり、時には商船を襲撃してキリスト教徒を人質にして身代金を巻き上げたりしていたため、バルバリ海賊と呼ばれていた。

重要な通商航路帯である地中海を多数の商船が航行していたイギリス・オランダ・フランスはそれぞれ強力な海軍を保有していたため、その海軍力を背景にしてバルバリ諸国を威嚇し通行料は収めなかった。しかし、貿易競争相手国を妨害するため、それぞれがバルバリ海賊を使って他国の商船を襲わせたりしたため、バルバリ海賊の勢力は保たれていた。

1783年にイギリスから独立したアメリカ合衆国は、国富を増すため海運業に力を入れていたが、独立以前と違ってイギリス海軍の保護は受けられなくなった。しかしながら、独立後で国家財政が豊かでないアメリカにとって、バルバリ諸国が要求する通行料はとても支払える額ではなかった。通行料を「滞納」し続けるアメリカ船籍の商船は、バルバリ海賊により襲撃され、多くの人質もとられてしまう状況が続いた。アメリカ政府は、財政窮乏のため人質開放の身代金も払えず、人質が奴隷として売り飛ばされてしまう例も発生した。(たとえば、アルジェリアに拘束された115名の人質の身代金は100万ドルであり、アメリカ国家予算総額の1/6以上に相当した。)

このような状況を打開するため、アメリカ政府はオスマン帝国やバルバリ諸国に特使を派遣し通行料や身代金の減額交渉を行ったが、さんざんに侮辱されて全く相手にされなかった。また、イギリスに依頼してロンドンでバルバリ側代表との交渉を続けたが不調に終わった。

USSフィラデルフィア焼却作戦

1801年にトーマス・ジェファーソンが大統領に就任する直前、アメリカ連邦議会は「バルバリ諸国がアメリカに対して宣戦布告した場合、アメリカ大統領は直ちに6隻のフリゲートから構成される戦隊を差し向けて、通商の安全とアメリカに対する敵対行為を武力制圧することができる」という権限を与える立法をなした。そして、ジェファーソンが大統領に就任するとすぐにトリポリのパシャであったユースフ・カラマンリがアメリカ合衆国に対して通航延滞料として22万5千ドルを要求してきた。ジェファーソンがこの要求を拒絶すると、1801年5月10日、ユースフ・カラマンリはアメリカに対して宣戦を布告した。

そこでジェファーソン大統領は、トリポリを海上封鎖するために、アメリカ海軍艦隊をトリポリ沖に派遣した。アメリカ海軍は、当時ナポレオンと敵対していたシシリー島の2つの王国と協力関係を成立させ、トリポリを海上封鎖するための艦隊の補給基地をシシリー島に確保した。アメリカ同様にトリポリと対立していたスウェーデン海軍とも協力してトリポリ港の海上封鎖を開始した。

しかしトリポリ港は150門の大砲と25,000名の兵士に守られ、トリポリ海軍は14隻の軍艦と19隻の砲艦を擁していたため、海上封鎖はトリポリ港を遠巻きに行うしかなかった。それ以来、小競り合いはあったものの、海上からの封鎖というにらみ合いの状態が長らく続いたが、1803年夏になってジェファーソン大統領はより積極的に事態を打開するため歴戦の海軍士官エドワード・プレブルが抜擢され代将として旗艦コンスティテューションを与え地中海戦隊の指揮官に任命し、より強力な増援艦隊を派遣した。8月14日、プレブルが指揮する戦隊はトリポリを目指して出港した。

プレブル戦隊が地中海に到着して以降、アメリカ海軍地中海戦隊は積極的な行動に転じた。そのような動きの中で、10月31日、トリポリ海軍小型艦を追撃中のUSSフィラデルフィアが海図に記されていなかった浅瀬に座礁してしまった。動きが取れなくなったフィラデルフィアはトリポリ海軍によって拿捕されてベインブリッジ艦長以下乗組員307名は捕虜となってしまった。USSフィラデルフィアは、トリポリ港からアメリカ側に対する浮かぶ砲台として用いられるようになった。

その後、「USSフィラデルフィアの奪回は困難で破壊すべきである」とのトリポリに勾留中のベインブリッジからの報告などを検討した結果、プレブル代将はトリポリ港に侵入してフィラデルフィアを破壊する作戦を決行することに決した。

1804年2月1日、ディケーター海軍大尉を指揮官として海兵隊分遣隊を乗せた小型船イントレピッドと護衛のブリッグ・サイレンはアメリカ地中海戦隊の本拠地シシリアを出撃しトリポリ港沖で機会を待った。2月16日19時ごろ、マルタ島から来たイギリス商船に偽装したイントレピッドはゆっくりとトリポリ港に進入しフィラデルフィアに近づいていった。もともとイントレピッドはトリポリの漁船をアメリカ海軍が拿捕して戦隊に加えたものであったためトリポリ側はこの“小型商船”に気を止めなかった。フィラデルフィアに接舷したディケーターは、当初はトリポリ海軍側を騙してフィラデルフィアに乗り移ろうしようとしたが、トリポリ海軍が怪しんだため、結局フィラデルフィアに海兵隊員とともに強行移乗して短時間の白兵戦の末にフィラデルフィアを占拠した。

ディケーターは可能ならばフィラデルフィアを取り戻そうとしたが、出帆できる状態にはなかったし、小型のイントレピッドではとても曳航することは出来なかった。そこでプレブル代将の指令どおりフィラデルフィアを燃やすことにして、船のあちこちに火をかけ部下たちをイントレピッドに引き上げさせた。十分に火が回るのを確認して、最後にディケーターがイントレピッドに引き上げると、フィラデルフィアは猛火に包まれ弾薬が装填してあった大砲が暴発し始めてトリポリの町や砲台めがけて弾丸が飛び散り出した。やがて火達磨になったフィラデルフィアは漂流し始めトリポリ港入口付近に沈没した。

混乱に紛れて、イントレピッドと港外で待機していたサイレンはトリポリ港を離脱しシシリアに向かった。2月18日、襲撃部隊は無事にシシリアに帰還した。トリポリ港襲撃を通して、アメリカ海軍・海兵隊は1名が軽傷を負っただけで全く損害はなかった。

当時ナポレオン戦争のためフランスツーロン港を海上封鎖していたイギリス海軍のホレーショ・ネルソン提督は、この襲撃事件発生後直ちに報告を受け「現代で最も大胆で勇敢な行為である」と激賛した。そして直ちにアメリカ本国では、デイケータが国民的英雄となった。そして、プレブル代将とディケーター大尉はアメリカだけでなく、キリスト教徒の敵を打ち破った英雄として法皇ピウス7世が公式に讃えた。

プレブル代将は、一気にトリポリ側を屈服させるためトリポリ海軍に対しさらに攻勢をかけるため、幾度か襲撃を繰り返した。しかし、アメリカ地中海戦隊にはトリポリ港の砲台やトリポリ市街を破壊するだけの決定的に強力な火力が欠乏しており、攻勢を維持してもトリポリのパシャを弱気にさせることは出来なかった。実際に、人質となっているベインブリッジ艦長以下フィラデルフィアの乗務員たちを解放する交渉は好転しなかった。

そこで猛将プレブル代将は、トリポリ砲台に守られトリポリ港に篭っているトリポリ海軍艦隊に火船(fire ship)攻撃を仕掛けて一気に葬り去り、パシャのユースフ・カラマンリを追い込む作戦計画を立てた。USSフィラデルフィア焼却作戦で活躍したUSS イントレピッドを今回は“洋上火山船”として敵艦隊に突っ込ませることとし、100樽の火薬と150発の砲弾を積み込み、リチャード・ソマーズ大尉と部下12名が乗り込んで、9月4日夜、護衛の小型船とともにトリポリ港に接近した。

護衛艦が港外で待機する中、爆破船イントレピッドと13名の特殊作戦隊員はトリポリ港奥のトリポリ海軍艦隊に近づいていった。20時半頃、トリポリ海軍側が接近するイントレピッドに気が付き海岸砲で攻撃を開始した。その砲弾が火薬と砲弾が満載されたイントレピッドに命中して、13名の隊員もろとも大爆発を起こしてしまった。一説には、イントレピッドを発見したトリポリ海軍が臨検隊を送り込んだため、もはやこれまでと観念したソマーズ大尉たち決死隊が爆薬に火をつけ自爆したともいう。いずれにせよ、トリポリ艦隊に到達する以前にイントレピッドは爆沈してしまった。

このように、イントラピッドによるトリポリ港襲撃は悲劇に終わり、その直後の1804年9月10日、それまで1年間に渡りトリポリ海軍に対して攻撃を加え続けてきたエドワード・プレブル代将は、地中艦隊司令官の職を増援艦隊を率いて到着したサミュエル・バロン代将に譲ることとなった。プレブル代将のもとでトリポリ封鎖線に携わった海軍将校たち「プレブル・ボーイズ」の多くは、1812年に勃発するイギリスとの戦争で大活躍することになる。

“海兵隊讃歌”に謳われたデルナ襲撃

積極的攻勢策をとった猛将プレブルとちがい、バロン代将はトリポリ港を遠巻きにする海上封鎖策に戻した。そして、再び事態に動きはなくなりフィラデルフィアの乗員を含むアメリカ人やキリスト教徒の人質も開放されない状況が続いた。

イントレピッド襲撃作戦が失敗する以前より、陸軍将校から駐チュニス米国領事に転じ領事退官後はアメリカ海軍地中海戦隊で顧問を務めていたウィリアム・イートンは、トリポリのパシャ後継権を弟のユースフ・カラマンリに奪われてエジプトに亡命していたハメット・カラマンリを旗頭にしてユースフ・カラマンリを打倒する戦略を実施するためハメット・カラマンリと接触していた。イートンはハメット・カラマンリと「トリポリ・パシャの座をハメット・カラマンリの手に取り戻させるために米国は資金と弾薬を提供する、そしてイートンを将軍とし陸軍部隊の司令官として作戦の指揮を執る」という内容の契約を交わした。この契約は国務長官マジソンに報告されたが、上院での承認は与えられなかった。

イートン“将軍”は、アメリカ海軍地中海戦隊の新司令官バロン代将に100名程度の海兵隊の派遣を要請した。しかし、バロンはプレスリー・オバノン海兵中尉を指揮官とするわずか10名で構成される海兵隊分遣隊(オバノン中尉、海兵隊7名、海軍士官候補生2名)の派遣しか許可しなかった。ただし、海兵隊とイートン“将軍”の軍隊がエジプタオからトリポリに進撃する間、海上から軍艦によって補給を行うことを約束した。

オバノン中尉の海兵隊分遣隊はエジプトのアレクサンドリアに上陸するとおよそ500名の傭兵を募集し組織した。1805年3月6日、イートン将軍はオバノン中尉の海兵隊と傭兵隊を率いて、ハメット・カラマンリとともに港町デルナを目指して進発した。海岸沿いの砂漠を800kmに渡る進軍であったが、海上からアメリカ艦隊による補給がなされた。しかし、イスラム教徒のアラブ人とキリスト教徒のギリシャ人からなる傭兵隊は宗教的対立がもとで内輪もめをしたり、反乱を企てたりと、行軍は難航した。幸いなことに、4月27日、様々なトラブルを乗り越えてイートン将軍と海兵隊が率いる傭兵部隊はデルナ攻撃の拠点の港町ボンバに到着し、ハル大尉が率いるアメリカ艦隊から補給を受けるとともに、傭兵に対する報酬の支払を済ませた。

攻撃準備を整えると、その日のうちにデルナ攻撃を開始した。イートン将軍が率いる海兵隊とギリシア傭兵部隊がデルナ要塞の攻撃を担当し、ハメット・カラマンリが率いるアラブ傭兵部隊は防御の手薄なデルナ知事官邸方面を攻撃し、ハル大尉の艦隊は海上から支援砲撃を実施した。14時25分、デルナ防御軍の主力がたてこもる要塞には、先陣を務めるオバノン中尉の海兵隊部隊が突入し激戦が始まった。要塞防御を支援するため、デルナ守備隊が要塞に集結したためアラブ傭兵部隊はデルナの町に進撃した。オバノン中尉の陣頭指揮のもと勇敢に戦った海兵隊とギリシア傭兵部隊は要塞を占領しオバノン中尉がアメリカ国旗を掲げた。分捕った要塞の大砲でアラブ傭兵隊を支援したため、16時までにデルナはアメリカ側の手に落ちた。

トリポリからユースフ・カラマンリが奪還部隊を送り込んでくるのに備えてデルナ要塞をイートン将軍が指揮を執るアメリカ軍の防御陣地として再防備を固め、ハメット・カラマンリは知事公邸に入居して周囲にはアラブ傭兵部隊が陣地を構築した。沖合には、アメリカ海軍ブリッグUSSアルガス(299トン、32ポンドカロネード砲14門、24ポンドカロネード砲16門、18ポンド砲2門、12ポンド砲2門)が待機した。

5月13日、パシャの軍勢がトリポリからデルナに押し寄せた。前線に位置するアラブ傭兵隊は苦境に陥ったが、デルナ砲台からの砲撃とアルガスからの艦砲射撃がトリポリ軍に集中しだすとトリポリ軍は潰走した。以後も、しばしば小部隊がデルナに接近したが、アルガスからの艦砲射撃やデルナ守備によって駆逐された。イートン将軍は、海兵隊と海軍それに傭兵隊を率いてトリポリを攻略し長年対峙したバルバリ戦争を終結させる作戦を立てた。そして6月にはいると、イートンはいよいよ出撃するためにバロン代将に海兵隊増援軍の派遣を要請した。しかしバロン代将からは、ジェファーソン大統領の特使である国務省のトビアス・レアー(初代大統領ワシントンの私的秘書であった)とユースフ・カラマンリの終戦交渉が妥結するため直ちにエジプトへ撤退せよとの命令がくだされた。結局、6月10日に、米国とトリポリの間で終戦協定が取り交わされ、米国が6万ドルを支払いフィラデルフィアの乗員を始めとする人質を開放することでアメリカ国務省は手を打ってしまった。

国務省の身代金支払いという措置に激怒し、かつハメット・カラマンリとの約束も果たすことが出来ず、傭兵部隊にも十分な支払いができなかったため失意のうちにアメリカに引き上げたイートン将軍は、アメリカ国民からは英雄として大歓待を受けた。

同様に、デルナ攻略戦で先陣を務めアメリカ国旗をデルナ砦に掲げたプレスリー・オバノン海兵隊中尉も大英雄として迎えられた。オバノン中尉の勇戦に敬意を表したハメット・カラマンリは、勇者を称えるマムルーク剣をオバノンに贈った。この時贈られたマムルーク剣をもとにして海兵隊士官の正式軍刀が制定され現在もアメリカ海兵隊将校の正式装備品となっている。

デルナの戦いは、アメリカ海兵隊にとってもアメリカ軍にとっても、初めての海外における陸上戦闘であった。そして、オバノン中尉と海兵隊部隊のデルナでの奮戦と勝利を讃えるために、海兵隊讃歌の歌詞の冒頭の「モンテズマの宮殿から、トリポリの海岸まで、我らは祖国のために戦わん、空に、海に、そして陸に。」という一節の「トリポリの海岸」と歌われ永遠に(アメリカ海兵隊が存続する限り)その功績が記憶されることになったのである。

参考文献:

  • De Kay, James Tertius. 2004. A Rage for Glory: The Life of Commodore Stephen Decatur, USN. New York: Free Press
  • Wheelan, Joseph. 2003. Jefferson’s War: America’s First War on Terror, 1801–1805. New York: Carroll & Graf.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

〜添付図版等の公開準備中

本コラムの著者:“征西府”主幹Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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