概要
すでに久しく日本では、政府国防当局をも含めて日本社会に蔓延している国防意識を自嘲的に「平和ぼけ」と呼び習わされている。しかしながら日本社会においては、国防の基本戦略に関する実体的議論が真剣に戦わされることはなく、近年ますます強大化しつつある周辺諸国の軍事的脅威を深刻な問題として捉えようともしない状態が続いている。
それにもかかわらず、自ら「平和ぼけ」と称して安穏としていられるのはなぜか?
それは、政府首脳や国会議員や大手メディアも含めて日本社会には「万一の事態が起きてしまっても、アメリカがなんとかしてくれる」という「米軍依存」の風潮が幅広く浸透しているからにほかならない。
何といっても「アメリカ軍が救援してくれる」のだから、「日米同盟」を声高に叫んでアメリカの機嫌を取り続け、アメリカに見捨てられなければ、日本の防衛は安泰であるという日本政府の姿勢は、近年露骨に強くなっている。
このような「米軍依存」の体質こそが、自らの国防戦略を策定することもせず、国防組織の適正化を図ろうともせず、国際社会に蔓延している軍事的脅威も深刻な脅威とは感じないという「平和ぼけ」状態を造り出しているのだ。
そして「平和ぼけ」だからこそ「米軍依存」の潜在的危険性に目をつぶり「米軍依存」が強化され、その結果再び「平和ぼけ」が加速されていくという、図のような「無限ループ」にはまり込んでいるのが、日本社会の国防意識なのである。
この「無限ループ」から脱却しなければ、日本はアメリカの軍事的属国であり続けざるを得ないのである。
「アメリカが何とかしてくれる」という社会心理
日本ではしばしば日本社会にはびこる国防意識を「平和ボケ」と自嘲的に表現されることがあり、そのような自嘲的表現は広く受け入れられている状況だ。
たしかに社会科学的定義に照らすと国防基本戦略と呼びうる国家戦略は存在せず、あるのは「アメリカの軍事力にすがりつく」という似非国防戦略だけである。それにもかかわらず、政府も国会もメディアも危機感を感じず、機会あるごとに「日米同盟の強化」という実体を伴わない標語を繰り返すことによって国防努力をなしているかのごとく思い込もうとしている。まさに「平和ボケ」そのものである。
そのような「平和ボケ」は「どうせ万一の場合にはアメリカがなんとかしてくれるに違いない、何と言っても日米同盟が存在しているのだ」という日本社会に幅広く浸透してしまっている「米軍依存」という社会心理が引き起こしていると考えられる。
「米軍依存」が生み出す「平和ボケ」
このように「平和ボケ」状態にありながら、そして自らもしばしば「平和ボケ」と自嘲的に口にしながらも、真剣に国防力の強化を図ることなく“平然”としていられるのは何故なのか?「平和ボケ」しているが故に軍事的脅威を感ずる感覚も麻痺してしまっており、危機意識という心理作用も欠落してしまっているからには違いないが、そのような説明では「『平和ボケ』しているが故に『平和ボケ』しているのだ」と言っているにすぎない。
原因を特定しなければ「平和ボケ」から脱却し、国防力を充実させて日本という国家が滅亡するのを未然に防ぐことはできない。
「平和ボケ」状態を造り出し「平和ボケ」状態にあっても日本国民が“たじろがない”でいられる原因は、軍事に関しては日米同盟に完全に頼りきっている「米軍依存」という強固な態勢が横たわっているからにほかならない。
たとえば、アメリカ軍の内情を精査することなく「アメリカ軍は世界最強である」「(横須賀を本拠地にしている)アメリカ海軍第7艦隊は世界最強の艦隊だ」「アメリカ軍と共通の装備を手にしていれば万全だ」といった思い込みが日本社会に蔓延し、すでに深く浸透してしまっている。
そしてアメリカ軍関係者やアメリカの軍事シンクタンク研究者などの「アメリカ人」の言説を「ありがたく拝聴する」といった、悪くいうならば卑屈ともみなせる姿勢が氾濫している。このような「米軍依存」を起点とした対米従属的傾向は、日本政府の国防政策をも特徴付けている有様だ。
「無限ループ」にはまり込んでいる日本
日本政府首脳や国会議員それに大手メディアまでもが自ら先頭に立って「米軍依存」の手本を示している結果、多くの日本国民が「米軍依存」を当然のこととして受け入れてしまい、アメリカ軍を頼りすぎることに関して何ら疑問を待たない状況に立ち至ってしまっているのが現在の日本である。
その結果、たとえば自衛隊の現状は日本防衛にとって心配のない状態なのか?という声が上がっても「米軍と共通の主要兵器を持っている自衛隊は十分強い」と思い込み「どうせ米軍が助けてくれるのだ」と考えているため、自衛隊の抜本的組織改革や装備体系の見直しなどを本気で実施しようとはしない。
日本政府・国防当局は、「日米同盟にすがりつく」という似非国防戦略しか持たず、「日米同盟を強化する」という口先だけの国防政策しか実施できないという国際的には恥辱的な状況に身を置いていても「どうせ米軍が助けてくれるのだ」と考えているため、国際軍事常識に照らして妥当なレベルの日本独自の国防戦略を策定せずとも平然としていられるのだ。
ようするに、アメリカの軍事力を全面的に頼り切る、すなわち完全なる「米軍依存」状態にあるため、「平和ボケ」に陥っており、平和ボケだからアメリカを全面的に頼ることに疑問すら生じない。すると、ますます「平和ボケ」が拡散し、その結果「米軍依存」が深化し、更に「平和ボケ」がますます蔓延する、・・・・・・、・・・・・・、という「米軍依存」と「平和ボケ」の無限ループに陥ってしまっているのが現在の日本の国防状況なのだ。

「米軍依存」が「平和ボケ」を作り出し、「平和ボケ」だからこそますます「米軍依存」を強める、という「無限ループ」に日本政府と多くの日本国民が陥っている限り、日本は自主防衛意識を完全に欠くことになり、アメリカの属国的立場から独立することは未来永劫不可能になってしまうである。
このまま日米同盟に頼り切るのか?
日米安全保障条約を自らに都合の良いように解釈し、完全なる「米軍依存」すなわち「いざという場合にはアメリカが日本を助けてくれるに違いない」との思い込みは、日本側の願望に過ぎない。
同盟関係を情緒的に考える日本と違いアメリカは同盟関係を契約として考えている以上、日本側が日米同盟に抱いている願望が実現しない可能性もある、と言うよりは実現する可能性はきわめて低い。
しかしながら、「平和ボケ」しているが故にアメリカの軍事的庇護を疑いもなく信じてしまう、あるいは信じたいという願望を現実と混同させすり替えてしまうのだ。そして日米同盟に盲目的に頼り切るという姿勢が「平和ボケ」の原動力であり、「平和ボケ」が「米軍依存」を進化させこるという救いようのない無限ループに陥っている状態が、日本の国防意識の現状なのだ。
属国として生きながらえるという選択肢
もっとも、現在のように「無限ループ」にとどまっていれば国防費を大幅に抑えることができ、複雑きわまる国防戦略を考える必要にも迫られず、ただアメリカの機嫌を取っていれば良いだけであり、まさに安楽であると考えることは可能だ。そして、アメリカに全面的に依存している限り「平和ボケ」状態もますます進化していくために、国防費にせよ国防戦略にせよ真剣に考えることすらしないため、何の疑問も生じないのだ。
それだけではない。「平和ボケ」状態の政府や国民は差し迫っている軍事的危機を危機として感じないため、破滅の瞬間(すなわち「アメリカが助けてくれなかった」ことが判明する時)まで、身の回りの平和に浸っていることができるのだ。日本国民の多くが、藤子F不二雄氏のSF漫画「箱舟はいっぱい」における地球滅亡を知らされた4万人以外の日本人と似たような状況に置かれているのだ。
現実世界の歴史的事例では、ベトナム戦争においてアメリカ政府が同盟国である南ベトナムを見捨てる決定をし、北ベトナム軍が迫りつつあったサイゴンから撤収する作戦を実施するにあたって、サイゴンから脱出することを米軍から知らされていた僅かのサイゴン市民(アメリカ軍関係者の知り合い、アメリカ軍関係の仕事に付いていたもの、金持ちなど)以外の南ベトナム国民と、無限ループに陥っている日本国民は似通った状態に置かれているのだ。
とはいっても、それは客観的な分析なのであって、「米軍依存」と「平和ボケ」の「無限ループ」に浸り切っている限り、アメリカに見捨てられるなどという事態は生じないと信じ切っているのである。なぜならば、ここでも「平和ボケ」の思考回路が作動して、「アメリカが日本を見捨てるという事態は考えたくない」すなわち「アメリカが日本を見捨てるという事態はありえないと熱望する」すなわち「アメリカが日本を見捨てるという事態はありえない」といった具合に願望と現実が混同されてしまっているからなのである。
このように「米軍依存」によって自国の平和を維持している状態は、国際常識に従えば「アメリカの属国」という表現になる。かつてアジアの盟主を標榜してアメリカと干戈を交えた日本が、現在はアメリカにとって「もっとも信頼できる同盟国」言い換えると「もっとも離反する恐れが少ない同盟国」そして実際には「軍事的属国」となっているのだ。
他国への従属の度合いが高まれば高まるほど、その国は国際社会からはさげすまされ、真剣な外交の相手にされなくなるのは自然の成り行きだ。実際に「日米同盟の強化」という表看板のもとに「アメリカへの軍事的従属の強化」を金科玉条として目に見えて「米軍依存」の度合いすなわち従属の度合いが進みつつある日本の国際社会における存在感は希薄になっている。そして、ここでも「平和ボケ」の思考回路が作動する。すなわち「国際社会において無視されつつあることなど直視したくない」から「日本は国際社会で発言力がある国」でありたいという願望を現実とすり替えてしまうのである。もちろんこのようなまやかしは日本国内でしか通用しない。
しかしながら、国際社会での常識的評価がどうあれ、このような属国状態でも経済活動が全く立ち行かなくなり国民生活が完全に破綻して多数の餓死者を生み出しているわけではないので、現状は悪いわけではないという考えもないわけではない。そのような考えの人々には、なにもアメリカに頼り切る姿勢を止めにして、大変な努力が必要となる自主防衛努力を開始することなど考えも及ばないのであろう。そして、もしアメリカに見捨てられた時には、今度は中国あるいはロシアあるいは統一朝鮮国の属国となる途を選び、ふたたび新たな宗主国に対する忠実な下僕として生きながらえれば良いと考えるわけである。
「無限ループ」から離脱し独立国になるという選択肢
もちろん、表面では美辞麗句を並べ立てても実質的には「アメリカの属国」という立場に甘んじるべきではないと考える人々も少なくないはずだ。日本が置かれている軍事的属国としての立場から真の独立国になるには、「米軍依存」と「平和ボケ」の「無限ループ」から離脱するしかないのである。
そのためには、思い切って「日米同盟に頼るのは止めにする」ための具体的な国防方針を日本政府が打ち出し、それこそ万難を排してすっぱりと軌道転換をしなければならない。何しろ無限ループから飛び出すのであるから、生半可な覚悟では離脱できない。徐々に脱却することなど不可能であり、一気に無限ループから飛び出さなければならないのだ。
これまでの「米軍依存」至上主義という国防方針を廃棄するということは、自主防衛能力を強化してアメリカから自立した日本による自律的な国防戦略の実施、すなわち軍事的自立を意味する。ただし、軍事的自立といってもそれはなにも日本自身の軍事を用いて日本単独で国防を全うしようというわけではない。多くの国際社会構成員を味方につけたり、日本を軍事的に侵害しようとする勢力の敵陣営の協力を取り付けたり、なによりも日本に対して軍事力がむき出しで行使されるような事態を招来しないような外交戦略・軍事戦略を維持することによって国防を全うするのである。もちろん、そのための大前提そして第一歩は、極めて危険な防衛思想である「アメリカに頼り切る」という姿勢を捨て去り、「米軍依存」と「平和ボケ」の無限ループから離脱することである。
本サイト“征西府”は、「無限ループ」からの離脱策を提示するサイトである。