日本海軍海兵隊

西洋列強では帆走軍艦時代が終焉を迎えつつある19世紀中頃に、新生明治政府はイギリス海軍を模倣して西洋式海軍を発足させるとともに、イギリス海軍に併置されていた海兵隊組織もそのまま取り入れて、1872年10月、「日本海軍海兵隊」が設置された。

そもそも海兵隊という言葉は幕末から明治初頭にかけて英国の「Royal Marines」から日本語に翻訳されたものであり、marinesを「海兵」という語で表し、「海兵」の組織を「海兵隊」と表現した日本にとっては全く新しい概念であった。

海兵隊に限らず「海軍」や「陸軍」といった西洋的軍事組織の名称も幕末までは存在せず、西洋の軍隊に接して軍事改革に着手した江戸幕府が1862年に西洋式軍隊である「陸軍」を創設したのが公式の組織名称としては日本で最初のものである。この幕府陸軍は陸軍奉行を長官として歩兵(徒歩の戦闘部隊)・騎兵(馬に乗った戦闘部隊)・砲兵(大砲を用いる戦闘部隊)の三兵科により構成されていた。

ただし、従来のすなわち西洋式でない幕府軍事制度が廃止されたわけではなく、幕府陸軍と併存する二元的軍事制度が誕生した訳である。1866年になると幕府に老中格の陸軍総裁が責任者となる陸軍局が設置され、従来の軍事制度が幕府陸軍の下へ統合される形で一元化が図られた。

一方、海軍という語が公式に登場したのは1855年に幕府が長崎に設置した海軍伝習所が最初である。海軍伝習所は将来の幕府海軍の士官を養成するのが主たる目的であり、この時点では未だ日本には海軍は誕生していなかった。1861年には実質的に海軍の母体となる軍艦組が創設され、軍艦頭取が長官となった。幕府陸軍が誕生した1862年には、これまでの水上での戦闘組織が軍艦組に編入され、軍艦奉行が長官となり、軍艦の海外発注がスタートし国産蒸気船の建造も開始された。1866年には陸軍局とともに老中格の海軍総裁が責任者となる海軍局が設置され、名実共に幕府海軍が誕生した。

このように、幕末に幕府の西洋式軍事組織として「陸軍」と「海軍」が誕生し、それらの言葉は幕府以外にも定着していった。ちなみに、新しい日本海軍の建設を熱心に説き私設海軍兼海運会社である海援隊を組織した坂本龍馬は、新政府綱領八策(1867年)で「海陸軍局」という言葉を用いており(現在広く用いられている「陸海軍」と違い、「海陸軍」という点に注意)、有名な船中八策(1867年)でも「海軍宜しく拡張すべき事」と述べたとされている。

このように江戸幕府崩壊直前には幕府海軍と幕府陸軍といった組織とともに海軍ならびに陸軍という言葉と概念、すなわち西洋式の海で活動する軍隊と陸で活動する軍隊、は定着しつつあったと考えられる。(もちろん飛行機すら存在しなかった当時においては空軍は世界に存在しなかったのは当然である。)

それでは海兵隊の概念あるいは「海兵隊」という言葉が当時の日本に存在していたのであろうか?じつはオランダ海軍の指導を受けて誕生した幕府海軍には海兵隊員である「マルニル」が存在していたのである。当時の西洋諸列強の多くには海兵隊が存在し、軍艦には海兵隊員が乗り組んでいて、軍艦同士の海戦の際に敵艦を小銃で射撃したり、敵艦に切り込みをかけたり、沿岸に上陸して戦闘したりといった戦闘任務、ならびに軍艦内の警察任務に従事していた。オランダ海軍も例外ではなく軍艦には「マルニールmarinier」が乗艦していた。そこでオランダ海軍を範とした幕府海軍の軍艦にも「マルニル」が配置された。ただしオランダ語「マニエル」を「海兵」と呼称していたかは定かではない。

幕府海軍が消滅し明治新政府の下に誕生した日本海軍はオランダ海軍ではなくイギリス海軍(ロイヤル・ネービー)の指導を受けて形成されていった。イギリス海軍にも海兵隊(ロイヤル・マリーン)が存在し、イギリス海軍軍艦には海兵隊員である「マリーン」が乗艦していたため、イギリス海軍の弟子である日本海軍にも「マリーン」の制度が導入されたのである。1872年(明治5年)には、古代律令制の名残ともいえる兵部省が廃止され陸軍省と海軍省が独立し近代西洋式軍隊が公式に発足した。同年10月、海軍においては海軍条例が制定されて、海軍省水兵本部に海軍海兵隊を設置する事が規定された。ここに、日本における「海兵隊」という語が公式に登場し、海兵隊が産声を上げたのである。

このようにして誕生した日本海軍海兵隊は、英国海兵隊の模倣であったため、任務から服装に至るまで英国式であった。明治7年の佐賀の乱、同年の台湾出兵、ならびに明治8年の江華島事件に際しては海兵隊員が軍艦に乗艦して出動し陸上の戦闘に投入された。しかし、明治9年になると、海兵隊を軍艦に乗り込ませて陸上の戦闘に投入するという方式ではなく、必要に応じて軍艦の乗組員(「水兵」と呼称されることになった)によって陸上での戦闘に従事する部隊を編制するという方式が採用された。

これは、それまでの西洋の海兵隊の戦闘任務である敵艦への射撃や敵艦に切り込んでの戦闘といった形態の任務が明治初頭には既に過去のものとなっており、海兵隊の戦闘任務は軍艦から陸上に投入されての戦闘が主体となっていたため、あえて西洋式の海兵隊ではなく適宜に編成される戦闘部隊のほうが誕生後間もなく極めて小規模であった日本海軍には適当とみなされたためではないかと考えられる。その結果、短い間に国内治安戦から外征まで各種戦闘に参加し成果を挙げたにもかかわらず日本海軍海兵隊は廃止され、日本での「海兵隊」という名称をもった部隊の歴史は僅か4年で幕を閉じたのである。

海兵隊に代わって、水兵によって適宜編成されて陸上の戦闘に従事する部隊は「陸戦隊」と呼称された。海兵隊と違って、あくまで陸戦隊は臨時編成の陸上戦闘部隊であって常設の独立した部隊ではない。この方式は、その後日本海軍が世界有数の海軍に成長を遂げる過程でも維持され、大日本帝国海軍が米国海軍に葬り去られ消滅するまで、ついに日本海兵隊が復活する事はなかった。

以上のような事情によって、明治後期から昭和にかけて強力な海軍が存在したにもかかわらず、日本には「海兵隊」という言葉や概念が定着する事はなかった。そのかわり「海兵隊」という言葉は、第二次世界大戦中に太平洋の島々で日本軍と闘い、戦後は占領軍の一部として日本各地に進駐し、日米安全保障条約締結後現在に至るまで日本に駐留を続けているアメリカ海兵隊をイメージする言葉として日本に定着しているのである。

参考文献:

  • 小山弘健. 1944. 近代日本軍事史概説. 東京:伊藤書店.
  • 澤鑑之丞. 1942. 海軍七十年史談. 東京:文政同志社.
  • 海軍省. 1873. 海兵隊服制. 東京:海軍省.

〜添付図版等の公開準備中

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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