日本を恐怖に陥れたロシア艦隊の日本沿岸域襲撃(8)

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日露戦争
ウラジオストク巡洋艦隊による通商破壊戦:1904年2〜7月

本州太平洋岸沿海襲撃

1904年7月17日、イエッセン少将が指揮する3隻のロシア装甲巡洋艦はウラジオストクを出港した。7月20日早朝、ウラジオストク艦隊は津軽海峡に突入した。ロシア軍艦を発見した日本の望楼や灯台は海軍に急報した。海軍軍令部は直ちに警報を発したが、津軽海峡方面の海軍艦艇は砲艦2隻と魚雷艇数隻というありさまで、とても装甲巡洋艦に対抗できる戦力ではなかった。加えて、沿岸防護のための重砲は全て満州の戦地に送られてしまい、陸地からロシア軍艦を攻撃することも不可能であった。このような状況であったため、ロシア巡洋艦は津軽海峡で5隻の商船を容易に捕獲あるいは撃沈してしまったのである。

  • 「高島丸」 (貨物船) 乗員を退去させた後、爆沈
  • 「サマラ」 (英国船籍石炭運搬船) 臨検後釈放
  • 「喜宝丸」 (貨物帆船) 乗員を退去させた後、撃沈
  • 「共同運輸丸」 (貨客船) 臨検後釈放
  • 「北生丸」 (貨物帆船) 乗員を退去させた後、爆沈

いずれの場合も、乗員・乗客は撃沈前に離船させられていたため死傷者はなかった。津軽海峡で戦果を挙げたウラジオストク艦隊は、ユニオンジャックを掲げて太平洋へと進んでいった。(ロシア軍艦がイギリス軍艦を装うといったカムフラージュは国際法規に違反していなかった。)

7月21日、ウラジオストク艦隊の津軽海峡での通商破壊戦に関するニュースが日本を席巻した。 日本の沿岸海上交通はほぼ完全に沈黙してしまった。 太平洋の海岸線に沿って住む多くの人々がウラジオストク艦隊を目撃したが、日本海軍は途方に暮れていた。 7月22日10時30分、ロシアの巡洋艦はドイツの貨物船「アラビア」を拿捕し、ロシア将兵が乗り込んでウラジオストクに回航させた。 7月24日07時30分、イギリスの貨物船「ナイトコマンダー」が下田沖で拿捕され、乗組員がロシアの巡洋艦に収容させられた後ロシア巡洋艦は「ナイトコマンダー」に砲撃を加えて撃沈した。 日本海軍の長津呂望楼(監視所)と下田市民たちが一部始終を目撃することになった。この戦果の後、石廊崎から離れていたウラジオストク艦隊は、引き続き以下のような満足のいく成果を上げた。

  • 「自在丸」 (貨物船、四国から浦賀に塩を運送中) 乗員を収容した後、爆沈
  • 「福就丸」 (貨物船、四国から浦賀に塩を運送中) 乗員を収容した後、爆沈
  • 「図南」 (英国船籍貨物船) 臨検後釈放

過去5日間のウラジオストク艦隊の動きに基づいて、東郷中将とその幕僚は、ウラジオストク巡洋艦隊の目的は通商破壊戦に違いないと断定し、ロシアの巡洋艦は津軽海峡を経由してウラジオストクに帰還するであろうと予測した。(それまでは、通商破壊戦なのか、沿岸砲撃なのか、あるいはウラジオストクからベトナムのカムラン湾への脱出なのか、日本海軍当局は判断しかねていた。)そこで東郷は、津軽海峡の西側入口でロシア艦隊を待ち伏せするように第二艦隊に命じた。

ところが海軍軍令部は、ウラジオストク艦隊がロシア太平洋艦隊主力に加わるために旅順に回航するのではないかと推測していた。そのため軍令部は、第二艦隊に九州東海岸沖で待ち伏せするよう命じた。しかしながら第二艦隊司令官上村中将は、海軍軍令部の命令に従わざるを得なかった。

7月25日の夜明け、ロシアの巡洋艦隊は野島岬沖で小樽から四国に食料品を運搬中のドイツの貨物船「テア」を臨検し乗員を収容した後爆沈しようとしたがなかなか沈まず、結局砲撃を加えて撃沈した。引き続き同海域でロシア艦隊は横浜からイギリスに向かっていたイギリスの貨物船「カルロス」を拿捕した。「カルロス」はロシア将兵によってウラジオストクに回航させられた。これらの成果を上げた後、ウラジオストク艦隊司令官イェセン少将は彼の戦隊に宗谷海峡を経由してウラジオストクに戻るように命じ、ウラジオストク艦隊は北上を開始した。

日本海軍はロシア艦隊の動きを捕捉することができなかった。 翌26日、海軍軍令部はロシア側の電波を分析し、ロシア巡洋艦が西に向かって航行していると判断したため、第二艦隊に四国の足摺岬への転進を命じた。第二艦隊が足摺岬沖に到着すると、海軍軍令部は上村司令官に室戸岬への移動を命じた。第二艦隊が室戸岬沖に到着すると、海軍軍令部は、大王埼の海軍望楼が不審な電波を検出したことを知らせたため、第二艦隊は潮岬に急行することになった。

7月27日午後遅く、第二艦隊は潮岬沖に到着した。 視程はかなり良好であったが、ロシア艦隊の姿を発見することも、疑わしい電波を捕捉することもできなかった。海軍軍令部は房総半島沖で3つの煙注が目撃されたことを上村中将に通報した。 そのため、第二艦隊は房総半島沖を目指して急行した。 神村副提督は、4隻の装甲巡洋艦「出雲」(20ノット)「東」(20ノット)「常盤」(21ノット)「岩手」(20ノット)と1隻の通報艦「千早」(21ノット)によるウラジオストク艦隊の追跡戦を開始した。

上村中将の艦隊が房総半島沖に到着したとき、海軍軍令部は敵艦隊が三宅島の周辺海域に位置していると通報したため、上村司令官は通報艦「千早」に偵察を命じた。 「千早」は三宅島周辺海域での捜索活動を実施したが敵船を発見することはできなかった。 その結果、上村中将は、7月25日のドイツ貨物船による情報がウラジオストク戦隊を実際に目撃した最新の報告であるとして、海軍軍令部に敵艦隊の動きを再検討するよう申し入れた。海軍軍令部は再検討を加えた結果ロシアの巡洋艦隊は北に移動したものと結論付けた。結局、7月30日の零時30分をもって、海軍参謀は第二艦隊に対馬の母港に帰還するように命じた。

ウラジオストク艦隊司令官イェセン少将は、宗谷海峡を通過してウラジオストクに戻るか津軽海峡を通過するかを決めかねていた。7月27日の夜には津軽海峡の東方で巡洋艦隊は深い霧に包まれ、翌日になると視界は全くなくなったためイェッセン司令官は巡洋艦隊に最低速で遊弋するように命じた。そして、各艦の燃料残量を確認すると、対馬海峡を突破することを決意した。しかし、7月29日には更に霧が濃くなった。 7月30日11時、津軽海峡方面の霧が晴れたため、ウラジオストク艦隊は津軽海峡に突入し、19時には海峡を日本海に抜け出した。そして8月1日の午後、3隻のロシア巡洋艦は無事にウラジオストク軍港に帰還した。

この航海中、ウラジオストク巡洋艦隊は日本沿岸海域で11隻の商船を拘束したため、日本沿岸域の海上交通はほぼ完全に麻痺してしまった。したがって、ウラジオストク艦隊による対日通商破壊戦という作戦目的は完全に達成されたのである。

(図)ウラジオストク巡洋艦隊大平洋沿岸域襲撃航跡

参考文献:

  • Jane, Fred T. 1904 (1984 reprinted). The Imperial Japanese Navy. London: Conway Maritime Press.
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第一巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第二巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第三巻、1911年、水交社蔵版・春陽堂
  • Mahan, Alfred Thayer. 1941. Mahan on Naval Warfare. edited by Allan Westcott. New York: Dover Publications.
  • 佐藤市郎著、海軍五十年史、1943年、鱒書房
  • 外山三郎著、日露海戦新史、1987年、東京出版
  • Evans, David C. & Mark R. Peattie. 1997. Kaigun: Strategy, Tactics, and Technology in the Imperial Japanese Navy 1887—1941. Anapolis, Maryland: Naval Institute Press.

日本を恐怖に陥れたロシア艦隊の日本沿岸域襲撃:目次

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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