日露戦争
ウラジオストク巡洋艦隊による通商破壊戦:1904年2〜7月
対馬海峡事件
1904年6月12日、3隻のウラジオストク艦隊装甲巡洋艦が、更なる通商破壊戦を行うために出動した。ロシア巡洋艦隊は、日本海軍第二艦隊が警戒網を張っている対馬海峡を目指して南下した。ウラジオストク艦隊は、上村中将の警戒網に引っかかることなく対馬海峡へ接近した。
6月15日、ロシア巡洋艦は2500名の将兵を載せて満州へと向かう日本の輸送船団に近づいた。午前7時20分、上村艦隊の巡洋艦「対馬」はロシア巡洋艦戦隊を発見し対馬海峡を航行する日本船に警告電報を発信した。直ちに上村中将は、第二艦隊に対して敵艦隊を捕捉するよう命令を発した。巡洋艦「対馬」は、距離7000mを保ちながらウラジオストク艦隊を追跡した。しかし、濃霧が海を覆いつくしてしまった。
午前9時ごろ、ウラジオストク艦隊は日本の輸送船「泉丸」を発見し巡洋艦「グロモボイ」は「泉丸」を砲撃し撃沈した。巡洋艦「対馬」は濃霧と雨によって視界を失っていたものの砲撃の音響を聞くことはできた。続いて午前10時頃、ロシア巡洋艦は輸送船「佐渡丸」と「常陸丸」を発見した。日本の輸送船はウラジオストク艦隊からの離脱を図ったが、ロシア巡洋艦は攻撃を開始し逃走する日本の輸送船を追撃した。12時30分頃、日本の輸送船は大きな損害を受け沈没寸前になっていたため、ロシア巡洋艦戦隊は輸送船に止めの魚雷を打ち込んで濃霧の中に消えていった。
「常陸丸」は、15時頃に沈没し1063名の将兵の命が失われた。一方の「佐渡丸」は、大破させられながらも沈むことはなかった。しかし、414名の将兵が戦死し259名の兵士と乗員が溺死した。この悲劇の間、巡洋艦「対馬」は砲声を聞くことはできたが、自艦の位置すら確認することができない濃霧に阻まれて、いかなる事態が進行しているかを確認することはできなかった。したがって、1隻の日本軍艦も事件の現場に急行することはなかった。
上村中将はロシア巡洋艦が鬱陵島周辺海域で警戒網を横切り北上してウラジオストクに帰還するであろうと考えた。そこで第二艦隊主力は、同海域でウラジオストク艦隊を撃滅するために待ち伏せをした。しかし、ロシア巡洋艦戦隊は北上せずに東北に針路をとった。6月16日、隠岐の島沖でウラジオストク艦隊は英国船籍の石炭運搬船を捕獲した。同日、巡洋艦とは別に出動していたウラジオストク艦隊の魚雷艇は、本州北部の日本海沿海域で日本の商船5隻に対して攻撃を加えた。そのうちの2隻は撃沈され、1隻は捕獲された。やがてロシア巡洋艦と魚雷艇は津軽海峡沖で合流し、6月19日にウラジオストクに凱旋した。
第二艦隊が対馬の基地に帰還して始めて上村中将は日本船数隻が撃沈されたとの情報に接した。同時に、日本の世論は日本海軍とりわけ第二艦隊を痛烈に非難している状況も耳にした。
しかしながら、海軍大臣山本権兵衛は以下の理由によって第二艦隊を擁護した。
第一に、第二艦隊の任務は個々の輸送船団の護衛ではなく日本と韓半島の補給ラインを全体的に確保することである。個々の輸送船団や商船を護衛するには日本海軍が保有する艦艇の数量はあまりにも不足している。
第二に、第二艦隊はウラジオストク艦隊が旅順の太平洋艦隊本隊に合流するのを妨げる責務をも負っていた。第二艦隊はこの任務を果たしている。
第三に、第二艦隊は敵におよそ40海里まで肉薄した。残念ながら、濃霧によって第二艦隊によるロシア巡洋艦戦隊の撃破は妨げられてしまった。
日本の新聞各紙や多くの政治家達は海軍当局の弁解に激怒した。一方、日本国民は更なるロシアの通商破壊戦に恐れおののいた。その結果、日本の沿岸海運はほぼ麻痺してしまった。
(図)対馬海峡事件航跡
参考文献:
- Jane, Fred T. 1904 (1984 reprinted). The Imperial Japanese Navy. London: Conway Maritime Press.
- 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第一巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
- 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第二巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
- 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第三巻、1911年、水交社蔵版・春陽堂
- Mahan, Alfred Thayer. 1941. Mahan on Naval Warfare. edited by Allan Westcott. New York: Dover Publications.
- 佐藤市郎著、海軍五十年史、1943年、鱒書房
- 外山三郎著、日露海戦新史、1987年、東京出版
- Evans, David C. & Mark R. Peattie. 1997. Kaigun: Strategy, Tactics, and Technology in the Imperial Japanese Navy 1887—1941. Anapolis, Maryland: Naval Institute Press.
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