日本を恐怖に陥れたロシア艦隊の日本沿岸域襲撃(4)

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日露戦争
ウラジオストク巡洋艦隊による通商破壊戦:1904年2〜7月

那珂浦丸事件

1904年2月12日、ウラジオストク艦隊の4隻の巡洋艦が津軽海峡へ向けて出向した。目的は、日本沿岸部海上航路帯を脅かすためであった。翌朝、ロシア巡洋艦は北海道沿岸を航行する貨客船「那珂浦丸」を発見した。

ウラジオストク艦隊は「那珂浦丸」に対して全員下船し船を放棄するように命じた。そして、那珂浦丸への砲撃を開始した。その時、ロシア巡洋艦は他の日本商船「全勝丸」を発見した。「全勝丸」はロシア巡洋艦から逃れようとしたため,砲撃が開始された。

結局、「那珂浦丸」は撃沈され2名の船員が死亡したが36名の船員と4名の船客はロシア巡洋艦によって救出された。「全勝丸」は大きな被害を受けたものの、濃霧にまぎれたため、ロシア側は見失ってしまった。

2月12日の深夜、「全勝丸」によって事件の詳細が当局に報告された。「那珂浦丸」に関するニュースは日本国民をおびえさせるに十分であった。とりわけ日本海沿岸域の人々は、更なるロシアによる襲撃を恐れた。その結果、日本海沿岸都市間の物資運搬に携わる商船の航行の大半は途絶えてしまった。

日本海沿岸海域には1隻の軍艦をも展開していなかったため、日本海軍は何の反撃を行うことはできなかった。対馬海峡から韓半島南岸沿海にかけての警備を担当する第三艦隊も、事件後も日本海に艦艇を出動させることはできなかった。というのは、日本陸軍の大部隊が満州へ向けて出動を開始しており、その輸送船団の護衛に全力を投入しなければならなかったからである。

一方、海軍軍令部はウラジオストク艦隊が韓半島北部沿海に接近しているとの情報・噂を度々入手した。2月27日、日本の当局がロシア軍艦が元山(韓半島東岸の中心都市)沖を横切っているとの情報に接するや否や、海軍軍令部は東郷中将にウラジオストク艦隊を撃破するように命令を下した。東郷司令長官は、上村中将に7隻の巡洋艦を率いて韓半島東岸へ向かうよう下命した。

上村艦隊は3月2日に出動し、2週間にわたって韓半島東岸沿海を探索したがロシア軍艦を発見することはできなかった。

(図)那珂浦丸事件航跡

参考文献:

  • Jane, Fred T. 1904 (1984 reprinted). The Imperial Japanese Navy. London: Conway Maritime Press.
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第一巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第二巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第三巻、1911年、水交社蔵版・春陽堂
  • Mahan, Alfred Thayer. 1941. Mahan on Naval Warfare. edited by Allan Westcott. New York: Dover Publications.
  • 佐藤市郎著、海軍五十年史、1943年、鱒書房
  • 外山三郎著、日露海戦新史、1987年、東京出版
  • Evans, David C. & Mark R. Peattie. 1997. Kaigun: Strategy, Tactics, and Technology in the Imperial Japanese Navy 1887—1941. Anapolis, Maryland: Naval Institute Press.

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本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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