日本を恐怖に陥れたロシア艦隊の日本沿岸域襲撃(3)

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日露戦争
ウラジオストク巡洋艦隊による通商破壊戦:1904年2〜7月

(図)日露海戦直前の日本海軍制海域

旅順沖海戦

1904年2月7日、海軍軍令部は連合艦隊に対してロシア太平洋艦隊本隊(旅順艦隊)を殲滅するよう命令を下した。同時に、連合艦隊は仁川に上陸する日本陸軍輸送船団の護衛も下命された。連合艦隊司令長官東郷中将は、第一艦隊と第二艦隊の戦力を東郷自身が指揮する戦闘部隊と瓜生外吉少将が指揮する護衛部隊に分割した。第三艦隊は計画通り対馬海峡と韓半島南沿海の警戒についた、

2月8日夕刻、ロシア海軍巡洋艦と日本海軍魚雷艇の小競り合いが発生したものの、瓜生護衛艦隊は陸軍部隊を無事に仁川に送り込んだ。一方、同日夜半、東郷戦闘艦隊の駆逐艦部隊は旅順のロシア艦隊錨地に侵入し主要軍艦に対する魚雷攻撃を敢行した。この奇襲攻撃は成功というわけにはいかなかったが、2隻の戦艦を大破し1隻の巡洋艦を小破させた。

翌朝、東郷戦闘艦隊はロシア艦隊を攻撃するために旅順に接近した。東郷艦隊の接近を発見すると、ロシア太平洋艦隊司令長官スターク中将はロシア艦隊に迎撃を命じた。およそ20分にわたって激烈な砲撃戦が交わされた後、日本側は撤退を開始した。というのは、東郷艦隊がロシア艦隊に急迫したたロシア沿岸砲台の射程圏内に入ってしまったからであった。ロシア艦隊も追撃せずに旅順軍港へ撤退した。この戦闘の結果、日本側もロシア側も共に1隻の艦艇をも失うことはなかった。

このように初期の作戦において日本海軍の目的は完全には達成されなかった。しかし、重要な目的の一つである護衛任務は成功した。一方のロシア太平洋艦隊は、2隻の戦艦が大損害を被ったものの旅順のロシア軍の士気は高まった。なぜならば、旅順艦隊が東郷戦闘艦隊の襲撃を撃退したからであった。

旅順沖海戦後、ロシア太平洋艦隊主力は旅順軍港に引き篭もって“要塞艦隊”と化した。その結果、東郷司令長官は艦隊決戦によりロシア艦隊を殲滅する機会をその後数ヶ月にわたって失うこととなってしまった。

(図)日露海戦直後の日本海軍制海域

参考文献:

  • Jane, Fred T. 1904 (1984 reprinted). The Imperial Japanese Navy. London: Conway Maritime Press.
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第一巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第二巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第三巻、1911年、水交社蔵版・春陽堂
  • Mahan, Alfred Thayer. 1941. Mahan on Naval Warfare. edited by Allan Westcott. New York: Dover Publications.
  • 佐藤市郎著、海軍五十年史、1943年、鱒書房
  • 外山三郎著、日露海戦新史、1987年、東京出版
  • Evans, David C. & Mark R. Peattie. 1997. Kaigun: Strategy, Tactics, and Technology in the Imperial Japanese Navy 1887—1941. Anapolis, Maryland: Naval Institute Press.

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本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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