国防DNAの形成〜英国編(1/3)

アルマダの戦い

ヨーロッパから海によって隔てられているグレートブリテン島には、1066年のノルマン・コンクェストによりイングランド王国が建国されて以来、同島北部のスコットランド王国との対立や合同など紆余曲折はあったものの、現在に至るまで国家が存続してきている。(以下、イングランドを中心とする国家を単にイギリスと呼称することとする。)
¶¶
イギリスの外交史はスペインやフランスやオランダそしてドイツをはじめとするヨーロッパ大陸の強国との対立と妥協の歴史である。そして、ヨーロッパ列強諸国はグレートブリテン島への侵攻をしばしば企てたが、そのほとんどが失敗に終わっている。


§1:イギリスの伝統的国防思想
¶¶
11世紀のイングランド王国建国以来20世紀に至るまでイギリスとヨーロッパ大陸のスペイン・フランス・オランダ・ドイツといった強国の間では戦争が断続的に行われてきた。
¶¶
島嶼国家イギリスにしてみれば、外敵が海を渡ってグレートブリテン島に接近する手段を欠いていたならば、敵軍の侵攻は起こりえないということになる。そこで、しばしばイギリス軍艦はイギリス海峡を渡ってスペインやフランスの軍港を襲撃し係留中や建造中の軍艦を破壊したり拿捕したりして、大陸諸国のイギリスへの侵攻能力そのものを破壊してしまった。
¶¶
ようするに、敵にわが方を攻撃する能力を待たせないように敵本拠地へ攻撃をしかけて敵の軍事力建設を中断させてしまうという、スペインやフランスなどにしてみれば暴挙ともいえる防衛方針であるが、襲撃が成功した場合にはイギリスにとってみればこの上もなく強力な防衛戦略である。
¶¶
これはずいぶん乱暴な方策のように見えるが、21世紀においてもこのような防衛思想はイギリスの伝統的国防思想を受け継いだアメリカでは基本方針となっている。たとえば、サダム・フセインのイラクが大量破壊兵器によって周辺諸国や西側諸国に攻撃を行う以前に大量破壊兵器を破壊してしまおう、という大義名分を掲げて開始されたイラク戦争などは、この思想の流れを汲んでいる。
¶¶
もっともイギリス海峡を越えて敵の本拠地を襲撃する方針は、成功すれば極めて効果的な防衛策である反面、失敗する可能性も高かった。したがって、この方針は実施できるチャンスが到来した場合には用いられたが、通常は敵の侵攻軍にイギリス海峡を絶対に渡らせない、という方針に依拠していた。
¶¶
このような国防方針の形成過程において、最も重要な体験が16世紀当時においてはイギリスに比べるとまさに超大国であったスペインの侵攻を海洋上で撃破したいわゆるアルマダの戦いである。

§2:アルマダの戦い
私掠船
プロテスタントのエリザベス女王(エリザベス1世)が即位して以降、イギリスはカトリックのスペインと宗教的な対立を深めたが、西インド諸島をはじめとする新大陸貿易での利権争いが激化し経済戦争の状態に陥っていた。スペインの植民地や交易船に対して、エリザベス女王から勅許状を得たイギリス私掠船が襲撃して、植民地や交易品をスペインから奪い取る私掠行為が盛んに実施された。とりわけフランシス・ドレイクはスペイン側からはエル・ドラコ(悪魔の化身)と呼ばれて恐れられていた。

私掠行為は、国家の免許を得て特定の相手国の植民地や貿易船を襲撃して利益を奪い取る商行為兼私的戦争行為であった。そして、免許状を発行したエリザベス女王自身も、私掠船に出資したり、船を貸与したりする見返りとして、収益の分け前を受け取る仕組みになっていた。つまり、貿易会社兼私的海軍を率いていたのが私掠船船長達ということができる。国家間の公的な戦争ではないが特定の敵国しか襲撃の対象にしない点で、どの国の植民地であろうが貿易船であろうが手当たり次第に襲撃する海賊とは一線が画されていた。

私掠行為は貿易活動の一形態であったため、植民地におけるイギリスの私掠船に手を焼いていたスペインもイギリスに対する抗議は行ったもののそれだけを理由に戦争を始めるまでは至らなかった。しかし1587年、エリザベス女王の従姉妹でカソリックのメアリが処刑されると、カソリックの盟主フェリペⅡ世はイギリス征討の計画を練り出した。

それにたいして、ドレイクの艦隊がスペインのカディス港を襲撃しスペイン船を焼き払ったり捕獲したりするという事件が発生すると、急遽フェリペⅡ世のイギリス侵攻計画は実施されることとなった。

16世紀ヨーロッパ強国の海上交易

スペイン大艦隊「アルマダ」
フェリペⅡ世は、当時ヨーロッパ最強と見られていたスペイン陸軍をイギリスに送り込めば、弱小イギリスなど赤子の手をひねるより簡単に征服できると考えていた。実際に、イギリスには数千の陸上戦力しか存在しなかったため、スペイン軍が上陸すればフェリペⅡ世の考えの通りになることは明らかであった。そこでスペインは、陸軍部隊をグレートブリテン島に送り込むための多数の船を建造し
大艦隊「スパニッシュ・アルマダ」を構築して、侵攻上陸作戦を発動した。

1588年5月、18,000名の陸上戦闘部隊と8,000名の軍艦乗組員を乗せた151隻の艦艇で編成されたアルマダはリスボン港を出撃した。強大な艦隊アルマダによってドーバー海峡の制海権を確保するとともに、スペイン領ネーデルランド(現在のベルギー)に駐留するパルマ公率いる陸兵30,000名を合流させて、グレートブリテン島東部マルゲート岬付近に上陸しイギリスを征服する作戦であった。

イギリスの戦略
一方イギリスにはスペイン陸軍と対峙できるような陸軍は存在しなかった。そもそも、エリザベス女王の祖父のヘンリーⅦ世や父のヘンリーⅧ世の治世にフランスとの抗争を通して生み出されつつあったイギリスの防衛政策は、
(1)ナロー・シーと呼ばれたイギリス海峡を海軍によって防衛して敵の軍艦を寄せ付けない;
(2)ヨーロッパ大陸に絶対的強国が誕生しないように大陸諸国間の勢力均衡を巧みに利用する;
という二大原則に拠っていた。したがって、海軍の建設には力を注いだが強大な陸軍は必要とはしていなかった。しかし、ヘンリーⅧ世の死後国内政治の混乱によってイギリス海軍は弱体化してしまっていた。そのためエリザベス女王は王室海軍が再建されるのを待たずしてフェリペⅡ世との決戦を迎えるに至った。

もともと陸軍は弱小であったうえにエリザベス女王の海軍はわずか34隻の軍艦しか保有していなかった。そこで女王は国土防衛のために私掠船はじめ交易活動に従事する船が集結するよう呼びかけた。その結果、王室軍艦、私掠船、貿易船が合わせて197隻集まりイギリス艦隊が結成された。

イギリス艦隊司令官にはノッチンガム公チャールズ・ハワードが任命され、副司令官には百戦錬磨のドレーク卿が任命された。この時までに、私掠船長であったドレークは、スペインから莫大な財宝を奪い取った功績によりエリザベス女王から爵位が授けられていた。

陸軍力では精強無比のスペイン軍に比べて、極めて弱体であったイギリス陸軍は、スペイン軍に上陸された場合は敗北が予想された。そこでイギリスは、スペイン艦隊がイギリスに上陸してくる前に、なんとしても敵を撃破する戦略を採択し準備態勢を整えた。

イギリスの防衛作戦は、アルマダをイギリス海峡洋上で迎え撃ち、グレートブリテン島の海岸には一切寄せ付けず、またネーデルランドのスペイン軍とも合流させないというものであった。

ファイアー・シップ
1588年7月18日、グレートブリテン島南端のリザード岬沖でイギリス海軍哨戒艦はアルマダを発見し。プリマス軍港を出撃したイギリス艦隊は、20日、スペイン艦隊に襲いかかり「アルマダの戦い」の幕が開いた。イギリス艦隊はアルマダの軍艦に比べて数は多いが総じて小型であった。ただし、操船術や砲術の能力はイギリス海軍がはるかに優れていた。アルマダを絶対にイギリス沿岸に近づけないよう断続的に攻撃を加えながらアルマダを誘導し数度にわたる海戦でスペイン軍艦を痛めつけた。

アルマダをイギリス沿岸に全く寄せ付けない態勢のままドーバー海峡を北上させて、7月27日、グレーブラインの海戦ではドレークによる有名なファイアー・シップ攻撃が敢行されアルマダは壊滅状態に陥りフェリペⅡ世のイギリス侵攻作戦は頓挫した。(ファイアー・シップ攻撃というのは、火をつけた船を敵艦に突っ込ませて敵艦隊を混乱に陥れる戦術。木造帆船時代当時は極めて効果的な戦法であり、19世紀初頭まで用いられた。)

アルマダの航路


イギリスの“神風”
その後アルマダは1ヶ月以上にわたってグレートブリテン島とアイルランドを大迂回してスペインまでの逃避行を強いられた。この間、大嵐がアルマダを襲い半数以上の軍艦・補給艦が沈没し、
出征人員2万6000名のうちスペインまで帰還できた将兵は10,000名に満たなかった。イギリスではアルマダを海底に沈めた大嵐をwinds of God(神風)と呼んだ。

このように、強力なスペイン陸軍に上陸されれば国が破滅するという背水の陣で「敵侵攻軍を海洋上で迎え撃ち、イギリス海岸には一歩たりとも上陸させない」という戦略を敢行したエリザベス女王のイギリスは、実際に一歩たりともスペイン軍を上陸させず、国防をまっとうしたのである。


§3:伝統的な制海三域

ノルマン王朝の昔より現在に至るまで、イギリスはスペインやフランスやオランダといったヨーロッパ大陸の強国による侵略の企てに対しては「一歩たりとも上陸を許さず、海上で撃退する」という海軍中心の防衛策が国是として誕生し定着してきた。この国防戦略を実施するために経験的にイギリス海軍が優位を占めて外敵を打ち破る海域、制海域、を三段構えで想定されるようになった。

第一の制海域:最も敵側にある前方制海域は、敵の海岸線周辺すなわちヨーロッパ大陸の沿岸域に設定された。

第二の制海域:主たる迎撃戦が予想される基幹制海域は、大陸とイギリスの間に横たわるイギリス海峡や北海そしてビスケー湾などの海洋上に設定された。

第三の制海域:打ち破られるとイギリスが危殆に瀕してしまう最後の制海域である後方制海域はイギリスの沿岸海域とされた。

【伝統的なイギリス国防戦略における制海三域】
(「制海三域」の概念については、本コラムと重複箇所があるが征西府編「海洋国家とは?(10)海洋防衛戦略原則」を参照のこと)

(1)前方制海域:ヨーロッパ大陸沿岸海域
外敵によるイギリス侵攻の気配を探知したならば、大陸沿岸域に海軍を派遣して敵の軍艦や港湾それに軍艦建造所などを襲撃し、敵の侵攻能力を叩き潰してしまう。このようにして、敵に物理的にイギリスを侵攻できなくしてしまうのである。

(2)基幹制海域:大陸とイギリスの間に横たわる海洋
敵侵攻軍が進発してしまったならばビスケー湾、ケルト海、イギリス海峡、それに北海などで敵艦隊を迎撃しイギリス沿岸海域には近寄らせない。また、アメリカ植民地から大陸諸国への補給を遮断するため、大西洋や地中海でも敵船を捕捉する。

(3)後方制海域:大ブリテン島沿岸海域
敵がイギリス沿岸海域まで接近してきた場合でも、敵がイギリスの海岸へ上陸することを絶対に阻止するために、軍艦のみならずあらゆる船舶を投入して敵を海岸に寄せ付けないようにする。同時に、沿岸砲台から敵を砲撃して撃退する。後方制海域が突破され敵に上陸侵攻を許してしまった場合は、国防戦に敗北したことを意味する。

イギリスの伝統的な制海三域


イギリスにとり理想的な国防戦は、たとえばフランスがイギリスに侵攻しようとしている情報を探知したならば、直ちにフランス沿岸海域に軍艦を派遣して準備中のオランダ艦隊に痛撃を加えてイギリスへの侵攻ができなくしてしまうという戦略であった。

つまり、前方制海域としての敵の沿岸海域まで出撃していって、敵の侵攻戦力を破壊してしまい、イギリスに対する侵攻そのものを物理的にできなくしてしまうのがイギリスにとっては最善の国防戦ということであった。

ただし、相手側も警戒しているため前方制海域への襲撃が常に成功するとは限らない。そこで、多くの場合は基幹制海域が設定された海洋上でイギリス艦隊とスペイン、フランス、それにオランダなどの艦隊との間で数多くの海戦が闘われることになったのだ。

イギリスにとっては、基幹制海域が設定された海洋上で敵戦力を撃退することが必要条件であった。敵海軍力が優勢でイギリス艦隊がイギリス沿岸海域まで押しもどされてしまった場合には、沿岸海域に集結した船(軍艦、商船、漁船)と沿岸に設置した砲台が連携して敵艦隊に立ち向かうことになった。

万が一にも、後方制海域が打ち破られてしまった場合は外敵侵攻部隊のイギリスへの上陸を許すことになる。とはいうものの、あくまで海で決着をつける覚悟を決めていたイギリスでは、上陸してきた敵陸上侵攻部隊とイギリス領内で戦闘を繰り広げる「本土決戦」は想定せず、「本土決戦」を前提とした強力な陸上戦力は持たなかった。

後方制海域での迎撃戦はイギリスの国防にとっては最悪に近い事態であり、なんとしてでも基幹制海域で外敵を撃退するように国防態勢を維持することが求められた。そのため、イギリスの国防システムは伝統的に海軍中心となり、強力な海軍が構築されたのである。

    “征西府” 北村淳 Ph.D.



  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次