日本を恐怖に陥れたロシア艦隊の日本沿岸域襲撃(10)

日露戦争
ウラジオストク巡洋艦隊による通商破壊戦:1904年2〜7月

忘れ去られた教訓

日露海戦において第二艦隊参謀を務めた佐藤鉄太郎(日露戦争当時は中佐、1923年中将で予備役編入)は、日露戦争での“勝利”に酔いしれることを戒め、海軍力が十二分でなかったために旅順のロシア艦隊を撃破するのに難渋したり、ロシア艦隊による通商破壊戦を封殺できなかったこと、などを教訓として「外敵を海上で撃破」できるだけの十二分なる海軍力を手にする必要性を強調した。海軍大臣山本権兵衛もこの説を実践に移そうと努力した。

しかしながら「外敵を海上で撃破することこそ島国を防衛するための鉄則である」という主張は単純に海軍中心主義とみなされ、とりわけ陸軍陣営や中国大陸進出をもくろむ政治家からは排撃された。海軍自身にも対馬海戦をはじめとする日露戦争中の心地よい経験を過大評価する気運が存したため、佐藤鉄太郎が警告したような苦い教訓を学び取るという姿勢は定着しなかった。

このような一部海軍戦略家たちの動きがあったものの日露戦争後の日本では、日露戦争に際して日本にとって極めて危険であった状況から学び取るべき教訓には真剣に取り組まず、軍人に限らず日本人ならば誰にとっても心地よい日本軍の手柄話ばかりが語り継がれる風潮が浸透してしまった。

一方イギリス海軍やアメリカ海軍では、日本に派遣していた観戦武官の報告などをもとに日露海戦に関する詳細な研究分析が行われた。そしてウラジオストク巡洋艦隊の通商破壊戦からも、海洋国家にとっては極めて貴重な教訓を引き出す教科書的事例の一つであるとして、今日においても英米海軍戦略家にとっては興味深い戦例として関心が持たれている。

ちなみに観戦武官というのは、ヨーロッパ諸国間の戦争に際して第三国から戦争当事国に軍人を派遣して戦況を観察し様々な情報や教訓を本国に持ち帰る制度であり、第一次世界大戦まで続いた。日露戦争に際しては、日露両軍に対して多数の観戦武官が派遣され、日本側には十三ヶ国から観戦武官が派遣された。日本との同盟国イギリスから日本へは33名もの将校が派遣され、イギリス海軍もイギリス陸軍も日露戦争の教訓をその後の軍艦建造や戦術構築などに役立てている。アメリカから派遣された観戦武官の中には、第二次世界大戦後に日本占領軍最高司令官となるダグラス・マッカーサー陸軍少将(日露戦争当時)も加わっていた。

ウラジオストク艦隊の戦例から英米海軍が強く認識したのが、近代戦でも通商破壊戦が大いに威力を発揮する事実であった。日本海軍は旅順沖でロシア艦隊本隊を封鎖しつつ九州と朝鮮半島の間の補給航路帯を確保しなければならないために、ウラジオストク艦隊対策には多くの勢力を割くことができなかった。そのため、わずか3隻の巡洋艦による日本海沿岸域から大平洋沿岸域にかけての通商破壊戦で、日本の海運は麻痺してしまった。

ロシア大平洋艦隊本隊は旅順に引きこもっていたため、通商破壊戦に従事できたのはウラジオストクを本拠地にしていた巡洋艦と水雷艇という小規模戦力であった。そのため、九州と朝鮮半島を結ぶ日本陸軍の補給帯を脅かすことまではできなかったが、短い期間ではあったとはいえ日本本土を恐怖のどん底に突き落とすことには成功した。

ウラジオストク艦隊の通商破壊戦は、敵の手薄な隙間、あるいは敵の弱体な部分に対して通商破壊戦を実施することにより、実施する側は自らの損失をほとんど予期する必要はなく、敵に対して甚大な経済的損失と深刻な精神的損害をもたらすことが可能になる、ということを如実に指し示した。

そのため、第一次世界大戦ならびに第二次世界大戦では、日露戦争に観戦武官を送り込み通商破壊戦の威力を実感したドイツ、イギリス、アメリカなどが、通商破壊戦を多用した。皮肉なことに、第二次世界大戦後半におけるアメリカ海軍による対日通商破壊戦は徹底しており、戦争終結時には日本周辺の海上交通はほとんど麻痺状態に陥っていたのである。

日本海軍にとっても日本国民にとってもまさに悪夢以外の何物でもなかったウラジオストク巡洋艦隊による通商破壊戦の不愉快な経験は、蔚山沖海戦でのウラジオストク艦隊撃滅、黄海海戦での勝利、そして何よりも世界海戦史上稀に見る完全勝利といわれた対馬沖海戦での大勝利などの日本にとって心地よい経験によって、日本国民の記憶から消し去られてしまった。

軍部や政府をも含めて日本人の大半にとっては、日本海軍の大成功だけが記憶に残され、不愉快な苦い経験から教訓を引き出すことはなかった。もっとも、神国日本不敗神話のために、手痛い敗北から教訓など学ばなくとも「結局は“神風”が吹いて日本は安泰なのだ」という元寇以来の伝統的気質が一役買っていたと考えられなくもない。

その結果が、35年後の日米決戦での明暗を分けた最大要因ともいえよう。第二次世界大戦においては、アメリカ海軍による通商破壊戦への備えを怠っていた日本が、あまりもの甚大な被害に慌てて通商破壊戦への対抗策を講じ始めたときはすでに手遅れであった。

(表)第二次世界大戦中の日本輸送船団の損害

そのため、大平洋各地や東南アジア、南アジアの広大な地域に散らばって戦っていた日本軍将兵への補給は絶たれ、日本周辺海域も潜水艦や機雷によって封鎖される状態に陥り、“神風”が吹くどころか神風特別攻撃隊を投入する事態にまで陥ってしまった。それでも日本海軍は全滅し、広島と長崎に原爆攻撃まで受けてしまったのであった。

参考文献:

  • Jane, Fred T. 1904 (1984 reprinted). The Imperial Japanese Navy. London: Conway Maritime Press.
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第一巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第二巻、1910年、水交社蔵版・春陽堂
  • 海軍軍令部編纂、明治三十七八年海戦史:第三巻、1911年、水交社蔵版・春陽堂
  • Mahan, Alfred Thayer. 1941. Mahan on Naval Warfare. edited by Allan Westcott. New York: Dover Publications.
  • 佐藤市郎著、海軍五十年史、1943年、鱒書房
  • 外山三郎著、日露海戦新史、1987年、東京出版
  • Evans, David C. & Mark R. Peattie. 1997. Kaigun: Strategy, Tactics, and Technology in the Imperial Japanese Navy 1887—1941. Anapolis, Maryland: Naval Institute Press.

日本を恐怖に陥れたロシア艦隊の日本沿岸域襲撃:目次

〜添付図版等の公開準備中

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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