アメリカ海兵隊の歴史<012>理論的土台の構築

第一次世界大戦終結時に創設以来最大の兵員規模(将校2,462名、下士官兵72,639名)に達した海兵隊であるが、1919年になると、第一次世界大戦終結にともなう軍備縮小の機運が高まり、陸軍、海軍そして海兵隊の戦力の縮小が開始された。とりわけ、フランスで頑強な陸上戦闘部隊として大活躍した海兵隊は、その活躍ぶりがあまりにも勇名をはせたため、逆に「海兵隊と陸軍はどのように違うのか?」といった類の議論が登場してしまった。そして海兵隊を陸軍に吸収させてしまおうという動きが生じてしまい、海兵隊は存続の危機に直面することになった。

実際に海兵隊が陸軍に吸収される事態は避けられたものの、1919年7月には連邦議会が海兵隊定数削減案を可決し、海兵隊の大幅な人員削減が実施された。その結果、1920年6月30日の海兵隊員数は、将校1,104名、下士官兵16,061名という規模にまで縮小してしまった。

このような「組織の危機」を打開するため、海兵隊内部では海兵隊独自の活動分野や得意分野を研究し理論的に海兵隊と陸軍の相違を説明し、海兵隊の必要性をアピールしようという動きが生じた。そして、海兵隊による理論的研究にとっては幸いな事に1920年代〜1930年代にかけては大規模な戦闘が発生しなかったため、海兵隊は水陸両用戦とSmall Warsというその後(1940年代以降)現在まで続く「アメリカ海兵隊の存在価値」を決定づける極めて強力な理論的基礎を確立することに成功した。

海兵隊の奇才エリス少佐

「アメリカ海兵隊の存在価値」に関する理論的基礎のうち、水陸両用戦に関する理論的金字塔を打ち立て、その後の海兵隊の組織構造にとっても、装備開発にとっても、明確な方向性を打ち出したのが、海兵隊の奇才アール・エリス中佐であった。

第一次大戦中の1918年7月、レジューン海兵准将が第4海兵旅団長に任命されフランスの前線に着任するとともに海兵少将に進級して陸軍第二歩兵師団長に補せられると、エリス少佐(中佐に戦時仮進級)は第四海兵旅団の作戦参謀に任命された。そしてエリス中佐はSt. Mihielの戦闘、Blanc Montの戦闘、それにマース川への進撃などの作戦を立案して第四海兵旅団ならびに第二歩兵師団だけでなく連合軍の勝利に大きな貢献をした。

エリス中佐の功績に対して大佐への特別進級も上官たちによって推薦されたが、さすがに少佐(エリス中佐は戦時仮進級であった)から大佐への進級は実現しなかったものの、Navy Distinguished Service MedalとNavy Crossを授与された。そしてフランスからはGold Star付きのCroix de gurre withならびにLegion d’honneur Grade of Chevallierを授与されもっとも殊勲を讃えられたアメリカ軍人の一人となった。

1919年7月中佐に進級すると、翌月アメリカに帰国し海兵隊総司令部勤務となるが、メキシコ情勢が疑わしかったので海軍情報局員としてテキサス州で情勢分析に従事した。1920年1月には、かねてより苦しんでいたうつ病と神経衰弱を紛らわすための飲酒の影響でアルコール中毒発作をおこしたため4月まで入院した。退院後、情報将校として第一次大戦以前から継続して海兵隊が対ゲリラ戦に従事していたカリブ海諸島方面に派遣されサント・ドミンゴでの米国傀儡政権樹立に貢献した。

1920年6月30日、エリス中佐の実力を高く買っていたレジューン中将が海兵隊総司令官に補せられた。うつ病・神経衰弱・アルコール中毒という深刻な病魔に侵されていたエリス中佐を、そのようなコンディションにもかかわらず強く信頼していたレジューン中将は、同年12月、海兵隊総司令部に作戦訓練部(Operations & Training Division)を新設してその長にエリス中佐を任命した。(現在ならば、うつ病・神経衰弱・アルコール中毒といった病気は、海兵隊将校にとってはその職にとどまるに際して致命的難点となるが、1920年代の海兵隊将校団は、それぞれ個人的に知り合えるほどの規模であり、レジューン中将のみならず多くの海兵隊将校たちがエリスを個人的に知っておりその能力を高く評価していて、アルコール中毒に陥ったエリスを海兵隊将校団はかばったのである。)

この時期エリス中佐は、第一次世界大戦の結果ドイツ植民地であった太平洋の多くの島々を国際連盟信託統治領として手に入れた日本と、フィリピンやグアムを植民地支配している米国が、近い将来衝突する可能性が極めて高いと考えていた。そして、海兵隊総司令部作戦訓練部長としてのエリス中佐は、かねてより海軍大学校教官たちにより立案されていた対日軍事作戦計画案である「戦争計画オレンジ」原案を修正して「マイクロネシアにおける前進基地作戦(Advanced Base Operations in Micronesia)」を文字通り心血を注いで書き上げた。

「マイクロネシアにおける前進基地作戦」は、1921年7月23日付で海兵隊の正式作戦計画「作戦計画第712号」として採択された。現在も、「作戦計画712号:マイクロネシアにおける前進基地作戦」は海兵隊の公式参考書籍の一つ(FMFRP 12-46)として海兵隊はじめ水陸両用戦に関わる軍人にとって必読の書とされている。

エリス中佐“謎”の死

エリス中佐は「マイクロネシアにおける前進基地作戦」を提出したものの、マイクロネシアの島々の実地調査を実施して、自らの作戦計画や海兵隊による準備を充実させようと考えた。当時、マイクロネシアは日本の委任統治領であったため、当然のことながら軍人による軍事目的でのマイクロネシアの調査など公式ルートを通じて許可されるはずはなかった。また、国際連盟規約により委任統治領に軍事施設を設けることは禁止されており、日本もその原則を受け入れることを表明していた。実際に、日本はマイクロネシアには民政統治機構を設置していたが軍隊は展開させていない様子であったが、外国人による自由な旅行は制限していたため「マイクロネシアの要所要所に軍事施設を建設しているに違いない」という噂は軍人の間では常識化していた。そこで、海兵隊中佐としてではなくエリス個人が単独でマイクロネシアに乗り込み偵察旅行をすることを海兵隊司令部や海軍に願い出た。エリスの親友でもあったレジューン海兵隊総司令官は、エリスの病状を心配したものの結局はエリスが自ら実地観察することに賛同し海軍情報局も納得して“スパイ”エリス中佐のマイクロネシア偵察旅行が認可された。

1921年夏、ニューヨークの貿易商社(John A. Hughes Trading Company)のココナツ買い付け商社員としてサンフランシスコを出発したエリス中佐はオーストラリアを経てサモアに渡り周辺の島嶼への“買い付け旅行”を繰り返した。その後フィリピンのマニラに到着するとアルコール中毒による発作症状と腎臓病が悪化し入院した。1922年7月、アメリカ海軍への報告とマイクロネシア旅行のビザを取得するためにフィリピンから日本に渡ったが、再び症状が悪化して横浜のアメリカ海軍病院に入院した。海軍医官や在日海軍武官は、エリス中佐の症状が深刻なため、アメリカに送還する決定をなした。そこで、エリス中佐は病院を抜けだして神戸から南洋貿易会社の「春日丸」でサイパンに渡ってしまった。

サイパンからは「松山丸」でパラオのコロール(日本のマイクロネシアすなわち南洋群島施政の拠点である南洋庁が設置されていた)に渡り商社員として日本のホテルに滞在した、パラオからは「松山丸」や「カロリン丸」でマーシャル諸島やカロリン諸島のいくつかの島々を巡りパラオのコロールに戻ったエリス中佐は、今度は日本のホテルではなく家に居住し長期に滞在するということで現地の部族の有力者に世話になり、部族から家とMetauieという妻や身の回りの世話をする少年も提供された。

しかし、エリス中佐のアルコール中毒症状(錯乱したり暴れたりした)は極めて悪化しており、コロールの日本人医師もしばしば往診しアルコールを断つよう説得し続け周囲の人々、西洋人や部族の人々、もエリスの飲酒を制限しようとしたが、付近の南洋貿易会社でウィスキーやビールそれに日本酒を手に入れては飲酒を続けたため、ますます病状が悪化し1923年5月12日にコロールの自宅で死去した。遺体はパラオ族酋長によって葬られた。

エリス中佐の死がレジューン海兵隊総司令官はじめ軍首脳にもたらされたのは、それから数週間後であった。とりわけレジューンはひどく悲しんだという。エリスの死の報は、日本の委任統治領内での“重要な軍事スパイ”の死であったため日本軍部あるいは官憲による毒殺という噂まで誕生した。そのため、在日アメリカ海軍武官は、退役軍人で横浜の海軍病院薬剤部長のZembschにパラオでの調査を委託した。

パラオのコロールに渡ったZembschは、パラオの有力者やエリスと親交のあった人々などへの聞き取り調査を実施するとともに、エリスの遺骸を掘り出し検案したうえ火葬に付した。エリスと関わった人々や南洋庁にはエリスが軍人であり何らかのスパイ任務でパラオに滞在していることは知れ渡っていたため、エリスの地図や書類などは南洋庁により没収・保管されていた。ただし、Zembschの調査ではエリスが毒殺されたという可能性は浮かび上がらなかったし、エリスがマイクロネシアに日本の軍事施設を発見したらしいという聴きこみも確認されなかった。しかしながら、Zembschが横浜に帰還した直後に発生した関東大震災により横浜の海軍病院も倒壊しZembsch自身が持ち帰った記録や資料も全て焼失してしまった。

その後現在まで続いている研究によると、エリス中佐の死亡原因はほぼ間違いなくアルコールによるものであり、そもそも日本側には毒殺する理由などなかったということが通説となっている。すなわち、エリス中佐はマニラをはじめ数カ所の訪問先や横浜そしてコロールで病院に担ぎ込まれていたし、コロールでは日本人医師の治療を受けておりエリスの極めて重度のアルコール中毒症状は南洋庁でも当然知っていた。南洋庁にせよ日本の軍部にせよ、このような重いアルコール患者をアメリカ軍がスパイとして送り込むことは想定できなかったと考えられる。したがって、南洋庁としては島々を巡りたがっていたエリス中佐の動向に外国人一般に対すると同様程度には監視の目は光らせていたものの、危険な軍事スパイとして毒殺まで企てるほどの意図は存在しなかった、と考えられている。

もっとも、当時の軍事常識では、日本軍部はマイクロネシアの島々に軍事施設を構築してしかるべきであったのに、国際法に忠実な日本は国際連盟を脱退するまでは全く軍隊をマイクロネシアに配置していなかった。日本の委任統治領マイクロネシアにおける日本軍不在という“信じ難い”事実こそが、エリス中佐の偵察旅行の成果であったのかもしれない。

「マイクロネシアにおける前進基地作戦」

海兵隊の奇才エリス中佐は、「作戦計画712号:マイクロネシアにおける前進基地作戦」において下記のような前提を提示した。

◉ もし太平洋地域でアメリカが日本と戦火を交えることになった場合には、準備を整えた日本による先制攻撃で戦争は開始されるであろう。

◉ 日本は日本海軍の支配圏内にアメリカ海軍を引き込んで、艦隊決戦によりアメリカ海軍を撃滅して勝利を得ようとするに違いない。

◉ 日本軍は、マーシャル諸島やカロリン諸島をはじめとすマイクロネシアの島嶼に前進海軍基地や防御陣地を構築する時間をたっぷり有しているため、多数の強固な軍事施設を建築するはずである。

◉ 日本に向かって侵攻するアメリカ軍部隊に対して、日本軍はマイクロネシア島嶼の前進軍事拠点から次から次へと迎撃部隊を出動させて、アメリカ軍部隊の戦力を徐々に減少させるInterception-Attrition(邀撃漸減)戦術を用いるであろう。

◉ 日本軍は、アメリカ侵攻艦隊主力(侵攻途中での増強は極めて困難)の戦力が相当程度弱体化するであろう日本防衛線付近で主力艦隊によって待ち構え、主力艦隊同士による最終艦隊決戦によってアメリカ軍を撃滅して勝利を手にしようとするであろう。

◉ 日本軍は艦艇から陸地に向かう作戦の経験に富んでおりかつ熟達しているため、島嶼に構築した各種軍事拠点を防御する戦術にも優れていると考えるべきである。

◉ 日本軍の兵士は極めて優秀であるけれども、ノルディック民族とオリエンタル民族の一般的比較によると、ノルディック民族のほうが知力・体格・耐久力に勝っているため、近接戦闘や持久戦では我々(米軍)のほうが優勢とかんがえられる。(筆者注:このような記述があるため、現在も海兵隊公式参考書籍(FMFRP 12-46)となっている本作戦書の冒頭には、エリス中佐執筆当時には人種差別的考え方が普及していたこと、それは誤りであったこと、この記述は問題点の一つであること、に注意を喚起するとともに、現在の海兵隊の立場とは相容れないことが述べられている。)

上記に加えて興味深い前提の一つは、日本軍の性格についてである。

◉ 日本軍はしばしば極めて士気旺盛に高揚する反面激高しやすく、勝利の場合でも敗北の場合でも急速に混乱をきたしてしまうように見受けられる。したがって、我々の戦術的要点はそのような日本軍の個人的欠点を衝くことにある。(筆者注:同上)

これらの前提条件に対処するためにエリス中佐が構築した対日戦基本戦略は。「第一にマーシャル諸島の日本軍前進軍事拠点を、次に東部カロリン諸島の日本軍前進軍事拠点を、そして西部カロリン諸島の日本軍前進軍事拠点を、この順序で撃破し占領しそして防御体制を固めつつ、それらの島嶼伝いに日本の防衛線に向けて侵攻する。」というものであった。

そして太平洋の島嶼に構築された日本の軍事拠点を攻撃し占領するためには、そして占領した軍事拠点を日本軍の反攻から防御するためには上陸作戦が必要となる。そして、海軍と陸上戦闘部隊との密接な連携が絶対条件となる上陸作戦こそ海兵隊にとって独自の戦闘分野と成り得る領域ということがいえる。この様な理由により、エリス中佐の「マイクロネシアにおける前進基地作戦」には具体的な島嶼侵攻戦略や上陸戦術が記されている。そして、島嶼における各種軍事拠点の防御方法(アメリカ軍が日本軍から奪い取った軍事拠点の防衛策であるが、裏を返せば日本軍も似たような防御策を実施するであろうから日本軍防御陣地に対する上陸攻撃方策の考察ということにもなる)に関しての実戦的考察も提示している。

実際に日本海軍が立案した対米作戦構想の大筋はエリス中佐の予想したとおりであった。エリス中佐が世を去った1923年改訂版の「帝國軍ノ用兵綱領」によると、海軍の基本戦略は「敵艦隊ノ主力東洋方面ニ来航スルニ及ヒ其途ニ於テ逐次ニ其勢力ヲ減殺スルニ努メ 機ヲ見テ我主力艦隊ヲ以テ之ヲ撃破ス」と規定されており、まさにInterception-Attrition(邀撃漸減)作戦そのものであった。その後も日本海軍は邀撃漸減作戦実施のために水上艦艇、潜水艦、それに航空機の整備を充実させた。そして、エリス中佐が予想したとおり先制攻撃によりアメリカ海軍に打撃を与えた後、日本に侵攻してくるアメリカ主力艦隊を、潜水艦防衛線、航空機防衛線、といった防衛前線で打撃を加えて、聯合艦隊主力水上艦が待ち受ける最終決戦防衛線まで引き込み艦隊決戦によってアメリカ海軍を全滅させる構想であった。一方のアメリカ軍も、まさにエリス中佐の戦略通りにマイクロネシアの島嶼沿いに日本軍勢力を撃破しながら西進を続け、日本側の思惑とは逆にマリアナ沖海戦で日本海軍をほぼ壊滅させてしまったのである。

「上陸作戦マニュアル草案」(「上陸作戦ドクトリン」)

エリス中佐の提言は海兵隊総司令官レジューン中将によって公式に海兵隊の方針として採用されたものの、1920年代中頃には「マイクロネシアにおける前進基地作戦」で示された水上陸作戦を実施するための、装備もなければ、訓練も行われておらず、何よりも水陸両用戦はもとより上陸作戦のドクトリン自体が存在していなかった。

そこで海兵隊は上陸作戦の理論的研究や上陸作戦に必要な装備の開発それに教育訓練の研究も推進した。そして、軍艦や輸送船から上陸地点に上陸侵攻部隊を到達させるための上陸用舟艇や、戦車やトラックなどを海岸に到達させるための揚陸艦や、海上の艦船から装甲車両を発進させて海上を航行してそのまま海岸に上陸し内陸部まで侵攻できる全く新機軸の水陸両用装甲車両などの開発が試みられた。いずれも、これまでにない兵器であったため、開発には多大の労力と時間を要したが、1930年代後半には、演習においてではあるものの、実用に耐える上陸用舟艇や戦車揚陸艦それに水陸両用装甲車が誕生した。しかし、それらは、太平洋の島嶼をめぐる日本軍との攻防戦という実戦を通して、本格的な性能を完成させていくことになるのである。

装備の開発とともに海兵隊の総力を上げて取り組んだのが上陸戦に関するドクトリンの開発であった。海兵隊自身は数多くの小規模な上陸戦は経験していたが、エリス中佐が想定するような精強な日本軍守備隊を敵に回し、かつ航空機まで出現し火力も強力になった時代における大規模上陸戦は経験したことはなかった。また、第一次大戦中に連合軍が実施し惨憺たる失敗に終わったガリポリ上陸作戦という戦例はあったものの、現代的(当時における)上陸戦というものはエリス中佐のように理論的に考察していくほかなく、せいぜい海兵隊自身による訓練や演習などでの検証を経験的データとして活用するしか方法はなかった。

海兵隊による上陸戦理論構築の努力の成果は、1934年の「上陸作戦マニュアル草案」に結実した。このマニュアルには上陸作戦の基本原則、上陸作戦任務部隊の組織構造、上陸用舟艇の構造や使用法、艦船(軍艦・輸送船など)から海岸線までの上陸部隊の侵攻計画方法・編成・戦術・技術、艦砲射撃の理論・装備・技術、航空支援の理論・戦術・技術・基地・装備、上陸作戦に関連する通信技術、上陸部隊の装備(火砲・戦車・化学兵器・煙幕)と使用戦術、水陸両用作戦の兵站(補給計画、補給実施、補給の装備と技術、警務隊、工兵技術、医療)といった上陸作戦の計画段階から作戦終了後の段階までに想定される事項に関する基礎的概念・装備・技術が網羅されている。

海兵隊が作成した「上陸作戦マニュアル草案」は1938年にはアメリカ海軍が正式に採択し「上陸作戦ドクトリン」として海軍から刊行された。そして、アメリカ陸軍も上陸作戦のドクトリンとして採用し、第二次世界大戦中に太平洋戦域でもヨーロッパ戦域でも多数敢行された上陸戦に際しては、上陸作戦の“バイブル”として重用された。

「上陸作戦ドクトリン」は第二次世界大戦や朝鮮戦争での実戦経験や、航空機・水陸両用装甲車・上陸用舟艇・水陸両用艦艇など装備の発展などとともに、時代にそぐわなくなった部分もあるものの、未だに有効な上陸作戦の原則的部分も包含しており現代においても有用な研究成果であり続けている。

「Small Warsドクトリン」

海兵隊第4海兵旅団(第5海兵連隊、第6海兵連隊)の第一次世界大戦参戦中もサント・ドミンゴ、ハイチでの海兵隊部隊による小規模な戦闘は断続的に継続していたが、1920年5月18日に、海兵隊が敵の首魁ロス・ケイボバスを殺害したためハイチでの混乱は沈静化に向かった。しかし1922年からはニカラグアの内戦に海兵隊が送り込まれた。そして、1924年からは再びサント・ドミンゴでも海兵隊は散発的ながらも戦闘を実施し、ニカラグアの状況はますます悪くなり海兵隊による介入は1933年1月2日まで継続した。主としてこのような中南米での“小さな戦争”の経験をもとにして、アメリカ海兵隊は上陸作戦とは別の極めて重要な“理論的”成果を生みだした。それは、1935年に海兵隊がまとめた「Small Wars作戦」とそれを更に編纂して海兵隊教範として1940年に発刊した「Small Warsマニュアル」である。

強力な火力によって敵を撃破することにより任務の大半が完了する伝統的戦闘と違い、Small Warsでは敵地の一般市民との関係や、敵や市民に対する心理戦、それに外交当局と連携しての政略といった現代的に表現すると“対ゲリラ戦”や“対反乱分子作戦”をはじめとする非対称戦や特殊作戦の分野を意味する。したがって、この種の作戦では、第一次大戦での陸上戦闘やエリス中佐が提示した上陸戦などとは全く異なった戦略・戦術が必要となる。「Small Warsマニュアル」には非対称戦や特殊作戦に関する基本戦略や計画、各種戦術や戦闘技術それに組織編成や兵站までが極めて詳細に記述されている。

もちろん、このマニュアルが登場した20世紀前半とは、現代は兵器や通信手段などは全く次元が違う段階に達している。しかし、本マニュアルに詳述されているSmall Warsに関する基本的性格や原理原則といったものは、現代の非対称戦や特殊作戦などにも極めて有用である。そのため、本マニュアルは現在も海兵隊の公式参考マニュアル(FMFRP 12-15)として公刊されているだけでなく、対叛乱分子作戦や特殊作戦などに関わる軍隊にとって(おそらくテロリストや叛乱部勢力にとっても)は必読の書であり続けている。

参考文献:

  • Dirk A. Ballendorf & Merrill Bartlett. 1997. Pete Ellis: An Amphibious Warfare Prophet, 1880-1923. Annapolis: Naval Institute Press.
  • Dirk A. Ballendorf. 2002. “Earl Hancock Ellis: A Merine in Micronesia” Micronesian: Journal of the Humanities and Social Sciences. Vol. 1, # 1-2.
  • U.S. Navy. 1938. Landing Operations Doctrine. (F.T.P. 167) Office of Naval Operations.
  • U.S. Marine Corps. 1921/1992. 712H Operation Plan: Advanced Base Operations In Micronesia. Intelligence Section, Division of Operations & Training, USMC.
  • U.S. Marine Corps. 1940/1990. FMFRP 12-15: Small Wars Manual. Washington D.C.: Department of the Navy.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

〜添付図版等の公開準備中〜

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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