アメリカ海兵隊の歴史<011>第一次世界大戦とアメリカ海兵隊

  • 実施期間: 1917年5月〜1918年11月
  • 実施場所: フランス
  • 作戦の性格: 陸上戦闘
  • 参加部隊: 第四海兵旅団(第5海兵連隊、第6海兵連隊、第6海兵機関銃大隊)海兵航空隊(第一航空中隊 ⇒ 第一海兵航空隊 ⇒ 第一海兵航空軍)

米西戦争や米比戦争の結果、米国はキューバやプエルトリコそれにフィリピンやグアムといった米本土から離れた島嶼植民地を獲得した。そして、それらの植民地には前進軍事基地が建設されたため、海兵隊はそれらの前進軍事基地を防衛するための防衛部隊としての任務を獲得した。防衛任務には前進基地前面の港湾での機雷戦といった、陸軍では対応できない海軍との共同任務も盛り込まれた。また、海外での各種紛争に際して自国民を保護したり、アメリカの国益のために軍事介入したりする際に、小規模ながらも軍艦から陸地に上陸する戦闘も発生したため、そのような上陸戦や陸上での戦闘に際しては海兵隊員が先鋒部隊として軍艦から派遣された。特に、政情が恒常的に不安定な中米諸国に対する海兵隊の派遣が頻発した。

1901年からパナマでの革命運動に伴う内戦に海兵隊が投入され1908年まで断続的にパナマでの小規模な戦闘を繰り返した。引き続き1905年からはパナマに加えてサント・ドミンゴでも革命騒ぎが勃発し内戦に介入したアメリカは海兵隊を送り込んだ。そして翌1906年にはキューバでの内戦にも海兵隊が投入され、1907年にはジャマイカとホンジュラスの内戦にも海兵隊が派遣された。1908年にはパナマでの内戦が落ち着いたものの1909年からはニカラグアの内戦に海兵隊が投入され、1913年まではニカラグアを中心に海兵隊は断続的に小規模戦闘に従事し続けた。ニカラグアでの騒乱が収まると、1914年からはハイチとメキシコのベラクルズそれに再びサント・ドミンゴでの内戦に海兵隊は送り込まれて、中米各地での小規模戦闘は継続した。

このように海兵隊は中米諸国への軍事介入に恒常的に出動していたため、かつて海兵隊の主任務と考えられていた軍艦内での戦闘(敵艦への射撃や敵艦への切り込みなど)を始めとする各種任務が消滅した以上は「海兵隊を陸軍に併合してしまうべきである」といった意見が強かったにもかかわらず、海兵隊の存在意義がアピールされて存続していったのである。

海兵隊の参戦決定

1917年4月6日、アメリカはドイツに対して宣戦布告をし、公式に第1次世界大戦に参戦した。アメリカ軍はフランス軍とドイツ軍との間の膠着した西部戦線でフランス軍やイギリス軍を増強するために陸上戦闘部隊を派遣することになった。当然その活動の場所はフランスの森の中であり草原であった。上陸戦のような海が関係する地形ではなく、純然たる陸上戦闘地域へのアメリカ軍部隊の派遣であったため、当初はアメリカ陸軍指導者たちは海兵隊の派遣には反対であった。しかし海兵隊首脳は、陸軍と変わらない戦闘とはいえども海兵隊が戦功を上げて米国民に海兵隊の存在を知らしめるチャンスと考えて強く参戦を希望した。その結果、海軍長官も海兵隊の派遣を要望したため、5月23日、陸軍大臣(Secretary of War)も海兵隊の派遣にしぶしぶ同意した。

しかしながら1917年4月時点での海兵隊の兵力は合計13,725名(士官:462名、准士官:49名、下士官兵:13,214名)であり、そのうち1,925名がサント・ドミンゴに、684名がハイチに、327名がバージン諸島に、114名がニカラグアに、140名がハワイ諸島に、392名がグアム島に、279名がフィリピン諸島に、そして276名が中国に派遣されていた。その他、2,000名以上が艦上勤務配置についており、アメリカ本土の海兵隊員は6,500名程度であった。したがって、急遽海兵隊の定員を大幅に拡大しない限り、とても海兵隊部隊をヨーロッパへ派遣することは出来ない相談であった。そのため連邦議会は海兵隊定員の大幅な拡大を承認し、それを受けて海兵隊は効率的なリクルート態勢を確立して半年間で多数の新兵を獲得することに成功した。

新兵の数に対応して士官・准士官・下士官の数も増員せねばならないため、各階級ごとに資格認定基準を設けて現役海兵隊員の中から志願者を募り選抜選考と各階級ごとの訓練を通過したものを能力に見合った階級につけることにより指導者を急増させた。また、退役将校や下士官の現役復帰も促した。そのような方法だけでは士官の数は充足させることが出来ないため、海兵隊准士官や下士官での志願有資格と認められたもの、ミリタリー・カレッジ出身者、何らかの高等軍事教育を受けた経験のあるもの、海軍兵学校出身者(数的には少なかった)、予備役海軍士官、それに一般市民に対する採用試験などの様々なルートによって多数の海兵士官候補者を募り、新たに設置した集中的士官養成プログラムでの訓練を無事通過した候補生たちを新規に海兵隊士官として採用した。

第4海兵旅団

海兵隊のヨーロッパ戦線への派遣が決定するや、海兵隊は人員の拡大努力を開始するとともに、1917年5月29日、ヨーロッパ派遣のための部隊として第5海兵連隊を設立した。そして6月14日には、設立直後の第5海兵連隊は輸送船団に分乗して大西洋をフランスへと向かった。6月22日22時15分、輸送船団はドイツUボートの雷撃を受ける。海兵隊員が積載されていた輸送船HAVANAとDE LALBそれぞれに2本づつの魚雷が向かってきたが、ともに船体ギリギリのところを通過して輸送船団は無事であった。

6月26日輸送船団第一陣はフランスのサン=ナゼール港に無事入港した。この日、フランスまで100マイルに接近していた輸送船団第二陣は、1150時と1350時にドイツUボートに遭遇したが、翌日、無事にサン=ナゼール港に到着した。そして、6月27日をもってアメリカ海兵隊第5海兵連隊は、大統領命令により、アメリカ陸軍第一歩兵師団に編入された。

第5海兵連隊は、7月中旬には、ロレーヌ地方ムーズ県のMenaucort周辺に駐屯しGondrecourt訓練場での訓練を開始した。8月18日にはヨーロッパ派遣軍(AEF)総司令官パーシング陸軍少将(1918年大将に昇任)とフランス陸軍総司令官ペタン将軍が第5海兵連隊を閲兵し、ペタン将軍は海兵隊の訓練ぶりと駐屯していた町が海兵隊の手により整然と保たれていたことを賞賛したため海兵隊将兵たちの士気は更に盛り上がった。しかしながら、ヨーロッパの戦場で功名手柄を打ち立てようとしていた海兵隊の意図に反して、陸軍第一歩兵師団は第5海兵連隊を実戦に投入せず、海兵隊員たちは後方連絡任務などに用いられた。そして9月には、陸軍第一歩兵師団から陸軍第二歩兵師団へと配置換えになりオート=マルヌ県のBourmont訓練場に移転させられた。

一方、アメリカ本国では海兵隊員の募集がはかどりヨーロッパに派遣する第6海兵連隊を始めとして、新しい連隊が次々と誕生した。そして、第6海兵連隊がヨーロッパに向けて出発するのとともに新規編成の第7海兵連隊と第9海兵連隊はキューバに進駐。また、第8海兵連隊はメキシコの不穏な情勢に対処するためメキシコ・テキサス国境地域に駐留した。

これらの陸上戦闘部隊に加えて、海兵隊はかねてより訓練に勤しんでいた海兵飛行隊をヨーロッパに派遣しようと苦心を重ねていた。アメリカ陸軍も航空機部隊をヨーロッパ戦線の戦闘に投入しようと考えていたため、海兵隊がこの分野にまで参入してくることを快く思っていなかったからである。結局、海兵隊飛行隊は海軍飛行隊とともにドイツU ボートに対する哨戒任務を主任務としてヨーロッパに派遣されることとなり、1918年の1月から大西洋に浮かぶポルトガル領のアゾレス諸島のポンタ・デルガーダを本拠地とする対潜哨戒部隊として活動を開始した。

10月に入ると、第5海兵連隊の増強部隊として編成・練成された第6海兵連隊がフランスに到着して第5海兵連隊とともに陸軍第二歩兵師団に編入された。せっかく海兵隊部隊をフランスに送り込んだにもかかわらず、2個連隊ともに陸軍第二歩兵師団に編入されただけでなく後方支援任務しか与えられず、海兵隊の活躍どころか存在自体が希薄になってしまうことを恐れた海兵隊総司令官バーネット少将は、執拗に第5海兵連隊と第6海兵連隊を合わせて旅団とするように働きかけ、10月23日、第4海兵旅団の結成が承認された。そして12月には新しく結成された海兵隊第6機関銃大隊が大西洋を渡り、1918年1月3日、第6機関銃大隊はBourmont訓練場に到着し第4海兵旅団に合流した。

  • 第4海兵旅団 (士官280名、下士官兵9,164名):
  • 第5海兵連隊:第一大隊、第2大隊、第3大隊、第8機関銃中隊、補給中隊、司令部中隊
  • 第6海兵連隊:第一大隊、第2大隊、第3大隊、第73機関銃中隊、補給中隊、司令部中隊
  • 第6機関銃大隊:第15機関銃中隊、第23機関銃中隊、第77機関銃中隊、第81機関銃中隊


ボア・ベローの激戦

1918年になっても、第4海兵旅団は依然としてBourmont訓練場に駐屯し訓練と後方連絡任務に従事し戦闘への出動命令は与えられなかった。3月14日、ついに第4海兵旅団に前線への出動命令が下り長らく駐屯したBourmont訓練場を離れてヴェルダンの前線に展開する。その直後の3月21日からドイツ軍は攻勢作戦を開始した。「春季攻勢」と呼ばれるドイツ軍の攻勢作戦は7月まで合計五波にわたって実施される。海兵隊もヴェルダンの前線でドイツ軍と対峙し、4月13日、ドイツ軍のマスタードガス攻撃を受け海兵隊員40名が戦死し260名が負傷した。その後も5月13日まで前線にとどまり、2ヶ月間で58名の海兵隊員が命を落とした。

5月13日から14日にかけて、第4海兵旅団はシャトー=ティエリ地区方面への転進を命ぜられてヴェルダンの前線を離れた。ドイツ軍は第3波攻勢作戦を敢行し、5月31日パリの北東100kmのソワソン、そしてパリまで90kmのシャトー=ティエリを占領し首都パリに迫った。第4海兵旅団を含むアメリカ陸軍第二歩兵師団は、フランス軍の前線の裂け目となってしまったシャトー=ティエリの前面に投入された。第二歩兵師団は、陸軍第9歩兵連隊、第6海兵連隊を前線に配置し、第5海兵連隊と陸軍第23歩兵連隊を後方に配置して、ドイツ陸軍第10師団、第237師団(第460連隊、第461連隊)それに第197師団第273連隊の進撃に備えた。

6月2日、ドイツ軍第461連隊がフランス軍部隊を蹴散らしながらボア・ベロー(ベローの森)を占領した。ボア・ベローの西側前方の深い麦畑には、撃破されて撤退するフランス軍を支援するために進出してきた第5海兵連隊が防御線を構築しドイツ軍を待ち受けた。ドイツ軍との距離が100メートルほどになると激しい銃撃戦が交わされ、第461連隊はボア・ベローに撃退された。さらにドイツ軍は海兵隊の防御線を突破しようと猛攻を加えたが、正確なライフル射撃をもって頑強に抵抗する第5海兵連隊は、ドイツ軍にボア・ベローから進出することを許さなかった。

ボア・ベローの堅陣に篭もるドイツ軍と麦畑の海兵隊は共に防御線を構築し対峙していたが、深い森のためドイツ軍の様子を偵察することは困難であった。そこで、フランス・アメリカ連合軍はボア・ベローを見渡せるドイツ軍陣地がある142高地を占領し引き続いてボア・ベローを占領することにした。

6月6日未明、第5海兵連隊第1大隊が142高地に対する攻撃を開始し、第5海兵連隊の左翼からはフランス陸軍第167師団がドイツ軍の前線に対する攻撃を開始した。ちょうど142高地のドイツ軍も進撃準備をしていたため、142高地ではドイツ軍と海兵隊による激しい近接戦闘が展開された。この戦闘で、海兵隊一等軍曹アーネスト・ジェーソンは彼一人で12人のドイツ兵を相手に勇敢に戦い自らは重傷を負いながらも数名の敵を斃して撃退し味方を救ったため、第一次世界大戦における海兵隊員に対する初の「名誉勲章」が授与された。フランス共和国からも「Medaille militaire」が贈られた。激しい戦闘の末、第5海兵連隊は多数の犠牲(将校9名、下士官兵352名)を払ったものの142高地の占領に成功した。

同日午後5時頃から、第5海兵連隊第3大隊と第6海兵連隊第3大隊はボア・ベローの西側と南側からボア・ベロー前面のドイツ軍防御陣に向かい進撃を開始した。ドイツ軍の激しい機関銃掃射と的確な狙撃ならびに鉄条網による防御線などに苦しめられ大きな犠牲を払いながらも、海兵隊はジリジリと頑強にドイツ軍防御線へと迫っていった。そしてついにドイツ軍防御線に突入し激しい白兵戦が展開された。この戦闘で、海兵隊は将校31名・下士官兵1,056名を犠牲にするという、第一次世界大戦中のアメリカ軍での1日の戦闘における最大の損失を出したものの、ドイツ軍をボア・ベロー内に撃退した。そして海兵隊は森の西縁に攻撃前線を確保することに成功した。

7日から9日にかけてボア・ベローの両軍は睨み合ったまま大きな動きはなかったが、10日、海兵隊側が森のなかに重砲による激しい砲撃を開始し、翌日再び砲撃を加えてから突撃した。再び多数の犠牲を出しながらドイツ軍を押し戻して、一時は森全体を占領したとの報告をなしたが地図の読み違いによる誤確認であった。いずれにせよ、ボア・ベロー内部のドイツ軍前線が後退させられたことは間違いなかった。そして13日には第5海兵連隊第2大隊と第6海兵連隊第2大隊が増強のためボア・ベローに展開したが、この日から数日間ドイツ軍による断続的な砲撃が海兵隊陣地に加えられ、多数の海兵隊員が毒ガス攻撃の犠牲になった。

6月17日から22日の間、ドイツ軍との銃砲撃戦や毒ガス攻撃のために傷めつけられていた海兵隊部隊に変わり、アメリカ陸軍歩兵第7連隊とフランス陸軍第3軍団の部隊がボア・ベローのドイツ軍への攻撃を実施した。ただし、歩兵第7連隊の指揮は第5海兵連隊司令官が執ったため、海兵隊の戦術に対して不平を言い出す部隊も出る始末で、攻撃は効果的ではなかった。結局、歩兵第7連隊も第3軍団もドイツ軍の激しい機関銃掃射と重砲火を浴びて前線をすすめることは出来ず、ボア・ベローの戦況は膠着したままであった。

6月23日、回復してボア・ベローの前線に戻ってきた第4海兵旅団は、一気にドイツ軍を撃破しようと最後の突撃を敢行した。この激戦で、用意されていた200台の救急車はフル稼働となり足りなくなってしまったと言われている。近接銃撃戦や白兵戦による激戦の末、ドイツ軍はボア・ベロー東縁に向けて押し戻されたところを、翌日からフランス軍重砲隊による14時間連続砲撃を加え、25日には海兵隊とアメリカ陸軍の機関銃を大量に投入してドイツ軍に対する掃射を実施しつつ海兵隊が突撃を繰り返し、ついに6月26日朝、Moris Shearer 海兵少佐の有名な広告電報が発信された。「今や、森全ては、アメリカ海兵隊の手に帰した。」

ボア・ベローの激戦を含んだシャトー=ティエリ地域での戦闘で、第4海兵旅団を含むアメリカ第二歩兵師団の戦死者数は1,811名(うち、海兵隊1,062名)戦傷者数は7,252名(うち、海兵隊3,615名)であった。このようにアメリカ遠征軍が大きな犠牲を払ってドイツ軍の進撃を撃退したシャトー=ティエリは有名になったが、とりわけボア・ベローでの海兵隊の勇猛果敢さはドイツ軍からもフランス人からも賞賛された。

ドイツ軍は海兵隊のしぶとさに対して「魔犬」と呼んだという。これは実際には後付の噂らしいが、ドイツ軍の公式報告書によると「海兵隊員は頑健で、自信に満ち溢れており、素晴らしい射撃の腕をしている」と評価されていた。また、フランス政府はボア・ベロー(ベローの森)を「海兵旅団の森」と改名し、第4海兵旅団に「戦争十字」勲章を贈呈しその不屈の闘志を讃えた。この激戦後の7月1日、アメリカ連邦議会が海兵隊の定数増員を議決し士官は1,503名から3,344名に、下士官兵51,316名から75,500名へとそれぞれ大幅に増員された。

ソイッソンの戦い

7月15日、ドイツ軍が3月に開始した五波にわたる「春季攻勢」の最後の総攻撃が開始された。マルヌ方面に対して52個師団もの大軍で押し寄せたドイツ軍に対して、連合軍側もフランス軍・イギリス軍・アメリカ軍・イタリア軍により大防御軍を編成し350輌近くの戦車も投入して両軍は激突した。この戦いでは、初めて連合軍は統合軍部隊となりフランス陸軍フォッシュ大将が総司令官として全軍の総指揮を執った。第4海兵旅団は7月18日から19日にかけてソイッソンにおいてドイツ軍に反撃し2,091名の損害を出しながらもドイツ軍を撃退した。ソイッソンでの戦功により第4海兵旅団を含む第二歩兵師団に対して「フランス戦争十字章」が与えられた。結局、20日にドイツ軍は撤退命令を下し、ドイツ軍による攻勢作戦は失敗に終わった。

このドイツ軍最後の攻勢とそれに対する連合軍総力を上げての反撃により、フランス軍は95,165名、イギリス軍は16,552名、アメリカ軍はおよそ12,000名、イタリア軍はおよそ9,000名の戦死傷者を出した。一方のドイツ軍は139,000名の戦死傷者を出し29,367名の将兵が捕虜となった。

Saint-Mihielの戦闘

ソイッソンの激戦のあと、第4海兵旅団は前線から休養と再編成のために一旦後方へ戻った。7月26日レジューン准将が第4海兵旅団長に就任するために着任したが、すぐに海兵准将でありながら陸軍第二歩兵師団長に任命された。8月に入るとレジューン海兵准将は海兵少将に、第4海兵旅団の指揮を執っていたネィヴィル海兵大佐は海兵准将に、それぞれ7月1日に遡って昇任した。そして8月8日、海兵隊の“奇才”エリス少佐が第4海兵旅団の作戦参謀に任命された。

8月9日、第4海兵旅団は再び前線に戻った。8月18日までMarbache地区でドイツ軍と対峙し小規模な戦闘に従事した。この間の海兵隊の戦死者は2名であった。そして、9月中旬に予定されていたアメリカ軍パーシング将軍が率いるアメリカ遠征軍(14個師団、兵力55万名)とフランス陸軍(4個師団、兵力4万8千名)によるドイツ第5軍に対するSt.Nihiel地区総攻撃のためにMarbache地区を離れ、St.Nihiel地区方面に向かった。

9月12日、D-Day(攻撃開始予定日・予定時刻を意味するD-Day・H-Hourはこの時初めて用いられた)パーシング軍の総攻撃が開始された。第4海兵旅団が所属していた陸軍第二歩兵師団は米仏連合軍第一軍団に属して前線の攻撃に参加した。この戦闘では、第2次世界大戦北アフリカ・ヨーロッパ戦線で勇名を馳せることになるパットン大佐(当時)がアメリカ軍初の戦車部隊2個大隊を率いて参加した。パーシング軍はパットン大佐の144輛の戦車とフランス軍の275輛の戦車(戦車は全てフランス製)が参加した。また、アメリカ陸軍とフランス軍は航空隊も参加させ、合わせて1,481機の航空機がドイツ軍航空機と航空優勢を争ったり、ドイツ軍地上部隊を爆撃・機銃掃射して味方部隊を支援して活躍した。結局、4日間にわたる戦闘で連合軍はドイツ軍を後退させたものの、悪天候により補給が追いつかなくなり攻撃を中止せざるを得なくなり、ドイツ軍を壊走させることは出来なかった。St.Mihielの戦闘における海兵隊の損害は919名であった。

Blanc Montの戦闘

連合国総司令官のフランス元帥フォッシュは、9月26日を期してアルゴンヌ地方の前線を保持しているドイツ第五軍に対して、総兵力およそ55万の大軍(フランス第四軍、フランス第五軍、アメリカ第一軍、アメリカ第二軍)を投入して総攻撃を敢行しドイツ軍を一気に壊走せしめる「Grand Offensive」を発動した。この際、連合軍司令部ではシャンパーニュ地方の占領を続けるドイツ軍(八個師団)を撃破することはドイツ軍全体にとり極めて深刻なダメージとなると考えていた。そして、そのためにはBlanc Mont Ridgeと呼ばれる戦略的要衝を確保する必要があると判断した。司令部は、このBlanc Mont Ridge攻略を第4海兵旅団を擁しレジューン海兵少将が指揮するアメリカ軍の精鋭部隊である第二歩兵師団に命令した。第二歩兵師団とそれを補強するための第三六歩兵師団は、Blanc Mont Ridge攻略のためにSomme-Pyの前線に移動を開始した。

10月2日、第4海兵旅団を含む第二歩兵師団はSomme-Pyのフランス軍が守る前線に到着し、ドイツ軍に対して総攻撃の準備を完了した。翌日、第4海兵旅団がBlanc Mont Ridge正面に対して、陸軍部隊がBlanc Montに隣接する210高地に対してそれぞれ攻撃を開始した。第4海兵旅団は激戦の末Blanc Montを一日で制圧し第二師団全体の前線も飛躍的に前進した。この日、第4海兵旅団が要衝Blanc Montを越えて前線を押し出した距離は膠着していた西部戦線での戦闘では驚異的な前進速度であり、第4海兵旅団と第二歩兵師団の勇名は再び鳴り響いた。

10月4日から一週間にわたって、第二歩兵師団とその両翼を補強したフランス第四軍により、ジリジリとドイツ軍8個師団による抵抗を排除していき、10月10日には、攻撃の最終目標地点であったSt=Etienne=a=Arnesをドイツ軍から奪還するのに成功した。この勝利によって、シャンパーニュ地方を四年間にわたって占領していたドイツ軍は駆逐された。10月3日から10日にかけてのBlanc Montの激戦で海兵隊は2,369名の損害を出した。この戦略的に極めて重要な攻撃を予想以上に成功させた第二歩兵師団には、三度目になる「フランス戦争十字章」を授与された。

第一次世界大戦終結

海兵隊飛行部隊は主として対潜水艦作戦に従事してきたが、「Grand Offensive」に際して初めて陸上上空での任務に投入された。そして10月14日、海兵飛行隊第9航空隊の5機のDH-4と3機のDH-9Aがベルギーのドイツ軍工場施設に対して2,218ポンドの爆弾を投下するとともに、ドイツ軍航空部隊と空中戦となり2機のドイツ軍機を撃墜した。しかし、10月22日、海兵隊機がドイツ軍機に初めて撃墜され搭乗員2名が戦死した。

一方、Blanc Montで戦功を上げた第二歩兵師団はアルゴンヌの森地域での総攻撃に加わるためExermont地区へと移動し攻撃準備を開始した。11月1日、第4海兵旅団を含む第二歩兵師団はLamdres=et=Saint=Georgesを防御するドイツ軍に対し攻撃を開始した。第二歩兵師団の猛攻によりドイツ軍はLamdres=et=Saint=Georgesから潰走し、この日1日で第二歩兵師団は9kmも前進した。ドイツ軍防衛ラインが第二歩兵師団によって深く穴を開けられたため、周辺のドイツ軍前線も総崩れになり連合軍は前線を押し出した。その後も、第二歩兵師団はドイツ軍を撃破しつつ快進撃を続け9日にはマース川まで進出した。

マース川東側に撤退したドイツ軍はマース川越しに激しい砲弾の雨を降らせていた。そこで第二歩兵師団では海兵隊によりマース川を渡河しマース川東岸に橋頭堡を築いて全軍が押し渡る作戦を実施した。第二工兵隊が60cm幅の仮設橋をマース川に渡すと同時に、第5海兵連隊第一大隊と第二大隊を先鋒として海兵隊が猛烈な砲撃と機関銃掃射にも怯まずマース川を次から次へと押し渡り東岸に橋頭堡を築いてドイツ軍に対する猛射を開始し、第二歩兵師団全体もマース川を渡河するのに成功した。

このようにして海兵隊を先鋒として第二歩兵師団がマース川を押し渡ったため、マース川東岸のドイツ軍は浮足立ち第二歩兵師団が属していた第5軍団は正面のドイツ軍を大きく潰走させ、9月26日に開始した連合軍による「Grand Offensive」の勝利に大きく貢献した。この活躍により、第二歩兵師団司令官レジューン海兵少将は「アメリカ陸軍殊勲章」を授与された。この第一次大戦における第4海兵旅団の最後の激戦での海兵隊の損害は1,263名であった。

海兵隊と第二歩兵師団がマース川を押し渡った10日夜が明けた11月11日11時、ドイツ帝国と連合国の間に休戦協定が発効し、1914年7月に勃発した第一次世界大戦の戦火は収まった。12月1日、休戦協定に従い第4海兵旅団はドイツ領内に進駐した。

1917年6月27日にフランスに上陸してから、マース川を渡りドイツ軍に対する追撃を開始しようとした1918年11月11日までのおよそ1年半の間にヨーロッパ戦線に出動したアメリカ海兵隊員はおよそ3万2千名であった。そして、そのうち戦死2,459名、戦傷8,907名、捕虜25名を数えた。1918年12月11日現在、海兵隊の兵力は将校2,462名、下士官兵72,639名とアメリカ海兵隊創設以来最大の兵員規模に達していた。

参考文献:

  • Maj. Edsin N. McClellan, 1920. The United States Marine Corps in the World War. USMC Historical Division.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.
  • “Chateau-Thierry: The Battle for Belleau Wood”, Doughboy Center: The Story of the merican Expeditionary Forces. WorldWar1.com.
  • “The St. Mihiel Offensive”, Doughboy Center: The Story of the merican Expeditionary Forces. WorldWar1.com.
  • “Forgotten Victory: Blanc Mont”, Doughboy Center: The Story of the merican Expeditionary Forces. WorldWar1.com.

〜添付図版等の公開準備中

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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