アメリカ海兵隊の歴史<010>義和団事件

  • 実施期間: 1900年5月〜8月
  • 実施場所: 中国天津〜北京
  • 作戦の性格: 陸上戦闘
  • 攻撃陣営: 日本海軍陸戦隊、アメリカ海兵隊、イギリス王室海兵隊、
  • 防御陣営: 義和団・清朝軍

旧植民地帝国スペインと新興国アメリカの間で米西戦争が戦われた19世紀後半にはすでに西洋列強による植民地獲得競争はほぼ決着していたものの、自国の植民地における軍事拠点や自国民居留地などが常駐する警察や守備隊での防衛が困難な場合には、急いで増援部隊を海を越えて派遣する必要があった。未だに航空機が発達していなかった19世紀後半から20世紀前半にかけては、この種の軍事行動を実施するための唯一最速の手段は海軍軍艦ならびに輸送船に搭載された陸上移動軍の派遣であった。

海外拠点での自国民保護や軍事施設の防御の必要性が生じた場合でも、その規模が小さかった場合には軍艦に搭乗している小規模の海兵隊部隊で対処した。しかし、数十人規模の海兵隊だけで対処できない軍事的危機が発生した場合には、より規模の大きい数百名以上の陸上戦闘部隊を急派しなければならない。そのような場合には、できるだけ紛争地に近接する港から海兵隊や場合によっては陸軍部隊を乗せた軍艦を急行させることにより、国益を保護した。

いずれにせよ、軍艦という最速の展開手段とともに行動していたアメリカ海兵隊やイギリス王室海兵隊は、各種国益維持のための先鋒部隊として軍艦とともにしばしば投入されたのである。そのような事例のうち大規模な事例がアメリカ、イギリス、日本を始めとする各国の海兵隊(海軍陸戦隊・海軍歩兵)が投入された義和団事件である。

8カ国海軍連合守備隊出発

義和団に対する清朝政府の態度は曖昧であったが、義和団の勢力が首都北京にも及び、反キリスト教・排外主義の活動が盛んになり外交団をも含んだ在北京外国人の生命財産に危険が高まった。そこで5月には、駐北京外交団は大沽沖(大沽は天津を流れる海河渤海に注ぐ河口の町で現在は天津市内)に停泊中の各国軍艦に対して、北京の外国公館ならびに外国人を保護するための守備隊派遣を要請した。大沽沖に軍艦を停泊させていた日本・イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア/ハンガリー・イタリアの8カ国は海兵隊(海軍陸戦隊・海軍歩兵)を集めて8カ国連合守備隊を編成し、5月31日に北京へ向けて出発した。(イギリス王室海兵隊:75名、フランス海兵隊:75名、ロシア海軍歩兵:75名、アメリカ海兵隊:60名、ドイツ海軍歩兵:50名、イタリア海軍歩兵:40名、オーストリア・ハンガリー海軍歩兵:30名、日本海軍陸戦隊:30名)これらの守備隊は、6月20日から始まる北京籠城戦で活躍することになる。

シーモア遠征隊

6月10日になると、およそ20万もの義和団が北京に入城し、外国人に対する直接的脅威が迫った。これに対応して、大沽の8カ国海軍では、それぞれの海兵隊(海軍陸戦隊・海軍歩兵)によって先発した北京守備隊より大規模な北京遠征隊を編成することになった。総指揮官にはイギリス海軍中将シーモア卿が任命され、イギリス王室海兵隊916名、ドイツ海軍歩兵540名、ロシア海軍歩兵312名、フランス海兵隊158名、アメリカ海兵隊112名、日本海軍陸戦隊54名、イタリア海軍歩兵40名、オーストリア・ハンガリー海軍歩兵25名の総勢2,157名の史上初の多国籍軍が編成され、直ちに大沽から北京へと向かった。

シーモア遠征軍が天津を過ぎたあたりで聶士成将軍の率いる清朝軍と遭遇したが、この時は聶士成軍は連合軍の友軍であり何の問題も生じなかった。しかし6月14日、シーモア遠征軍は義和団と衝突し、義和団を撃退したものの多国籍軍側にも数名の戦死者を出してしまった。

一方、6月17日、シーモア遠征軍を送り出した大沽沖の各国軍艦に対して清朝軍の大沽砲台からいきなり砲撃が加えられた。各国軍艦は艦砲射撃により反撃を開始し、徹底した砲撃を続けた後、イギリス、日本、ドイツ、ロシアの連合海兵隊(海軍陸戦隊・海軍歩兵)およそ850名を大沽砲台へ上陸させ数時間の戦闘によって完全に砲台を占拠した。同日、天津でも外国人に対する義和団の攻撃が発生したが、各国が天津に駐屯させていた守備隊に拠って撃退された。

翌18日、聶士成が指揮する清朝軍と義和団がシーモア遠征隊を襲撃した。実は6月17日の大沽砲台をめぐる戦闘に呼応して、北京の守備にあたっていた対外強硬派でイスラム教徒の将軍董福祥が手勢のイスラム教徒軍およそ5,000を聶士成軍に派遣してシーモア遠征軍を攻撃させたのである。多国籍海兵隊遠征部隊の武器は優れていたものの兵力はわずか2,000名強であったのに対して、兵力1万近い清朝軍と義和団連合軍はその圧倒的な数でシーモア遠征軍を撃退した。

天津へと退却を開始したシーモア軍は鉄道で撤退しようとしたが鉄橋が破壊されており、退却は難航した。22日にはシーモア軍の食料と弾薬が底をついてしまい、絶体絶命の危機に陥った。ちょうどその時、防御が極めて手薄な聶士成軍の武器弾薬庫を通りかかり、それを襲撃して弾薬と食料を手にすることが出来たためその地で追撃してくる聶士成軍と義和団に対する反撃をしつつ、天津からの救援部隊の到着を待った。

シーモア軍から救援要請を受けた8カ国海軍は、旅順から急行してきた900名のロシア兵と500名のイギリス軍艦の水兵で編成された特別陸戦部隊を中心に各国海軍海兵隊などから人員をかき集めておよそ1,800名の救援部隊を編成しシーモア遠征隊救出に向かわせた。救援部隊が駆けつけると聶士成軍と義和団は撤退し、ようやくシーモア遠征隊は天津に帰還することが出来た。

8カ国海兵隊(海軍陸戦隊・海軍歩兵)で編成されたシーモア遠征隊による北京増援作戦は、清朝軍・義和団の妨害により、戦死62名戦傷228名という損害を出して完全に失敗に終わった。

北京東交民巷籠城戦開始

一方北京では、大沽から送り込まれた8カ国海軍の海兵隊(海軍陸戦隊・海軍歩兵)435名からなる守備隊が到着して以降も自体はますます危険になり、董福祥の配下に日本公使館書記生やドイツ公使までもが殺害されるに至った。そして北京政府は、駐北京外交団と外国人に対して国外退去命令を発した。それを拒絶した北京の在外公館地区である東交民巷に対して、6月20日から義和団や清朝軍による攻撃が始まり、翌21日には清朝政府は諸外国に対して宣戦布告をなした。

北京の各国外交団は、各国公館守備隊と増強された各国海兵隊部隊により、東交民巷内に防御線を構築して陣地化し、籠城策を採ることにした。各国外交団と北京在住各国市民それに主としてキリスト教徒の中国市民たちによる北京籠城戦が開始したが、この籠城の総指揮を執ったのはイギリス公使のマクドナルド卿であったが、軍事作戦の総指揮を執ったのは日本公使館武官柴五郎陸軍砲兵中佐であった。兵力わずか500名ほどの連合国守備隊ではあったが、籠城した市民たちも協力し、2ヶ月近くに渡る籠城戦を耐えていくことになる。


8カ国連合軍による北京侵攻

北京や天津での状況が極めて悪化しているのを受けて、それまで天津港に滞在していた軍艦に乗艦していた海兵隊(海軍陸戦隊・海軍歩兵)により部隊を編成して事態に対処していた8カ国は、そのような小規模な陸戦部隊では対応しきれないと判断し、大規模な陸軍部隊の増援を各政府に要請した。日本政府も、陸軍参謀本部第二部長福島安正少将を司令官として先遣隊を派遣することを決定し、6月29日には福島少将が率いるおよそ1,000名の日本陸軍部隊が天津外国人居留区に到着した。これと時を前後して、ロシア、フランス、イギリスなど各国の陸軍部隊が極東の駐屯地より続々と天津外国人居留区入りし始めた。

各国とも、北京救援の緊急性は認識していたものの、必要兵力をめぐって各国軍の意見が一致せず兵力の増強を待ち続ける結果となってしまい、北京籠城は長期に渡ることになってしまった。この間、7月14日、日本軍を主力とする日本・イギリス・アメリカ・フランス連合軍により、聶士成が指揮する清朝政府軍と義和団の本拠地である天津城を攻撃し激戦のうえ占領に成功した。これまでシーモア遠征軍をはじめ天津の8カ国軍を悩ませてきた聶士成将軍は戦死した。

そして、8月4日、天津周辺の守備隊として日本軍とロシア軍を中心とするおよそ2万5千の兵力を配置し、兵力およそ2万(日本:10,000、ロシア:4,000、イギリス:3,000、アメリカ:2,000、フランス:800、ドイツ:200、オーストリア・ハンガリーとイタリア:100、ただしこれらの兵力は進発時であって、その後各国部隊は適宜増援部隊を送り込み続けた)の北京救援部隊を編成し北京に向けて進発させた。総指揮はイギリス帝国インド陸軍ガスリー中将が任命されたが、遠征軍の中核であったのは日本陸軍第5師団であったうえ英語・仏語・ロシア語・ドイツ語・中国語に堪能であった福島中将が実質的指揮者であった。

翌5日、天津郊外の北倉でおよそ1万2千の清朝軍が待ち受けていた。連合軍の先鋒であった日本陸軍第5師団の突撃部隊が果敢に清朝軍を攻撃し、戦死60名戦傷240名という損害を出しながらも一気に清朝軍を撃破した。ちなみに日本軍以外の損害は、イギリス軍が戦死1名戦傷25名でロシア軍が戦傷6名を数えただけで、それ以外の部隊が到着する以前に、日本軍は清朝軍を撃退してしまった。

北倉から撤退した清朝軍は、6日、楊村で抵抗を試みた。今回の戦闘で先鋒を務めたのはロシア軍コサック騎兵であり、それをアメリカ海兵隊(第1海兵連隊482名ならびに第4海兵大隊228名)とアメリカ陸軍歩兵部隊ならびにイギリス陸軍歩兵部隊が補強する態勢で清朝軍と激突した。アメリカ部隊の進撃が早かったため、イギリス砲兵隊が清朝軍の撤退と見誤り砲撃し多数の死傷者を出すという事故も生じた。また、昼前から昼過ぎにかけての戦闘であったため、非常な高温と水不足のために連合軍兵士は熱射病・熱中症に悩まされため戦闘は非常に苦しいものであった。結局、連合軍側に戦死37名(うち24名はイギリス軍の誤射によるもの)戦傷107名、清朝軍側におよそ100名の戦死者を数えた楊村の戦闘は連合軍側の勝利となり、清朝軍は北京方面へと撤退した。

その後は、連合軍が北京郊外に到着するまで、清朝軍や義和団による攻撃はなかった。しかし日中の気温が摂氏48度前後にも達した猛暑に見舞われたため、将兵や馬が脱水症状に陥ったり熱射病となり死亡するものも少なくなかった。また、通過する村々で井戸や水を求めて部隊を離れて行動する弱った兵士が村人やゲリラ兵に虐殺される事件も起きた。アメリカ軍の記録によると、数名の日本兵が目をくりぬかれ舌を抜かれて串刺しにされていたという惨状を報告している。日本兵だけでなく、暑さのために衰弱した連合軍兵士はしばしば中国人に惨殺された。このように、とりわけ酷暑に苦しみ行軍速度が鈍った八カ国連合軍救援部隊は、8月12日、ようやく北京郊外に到着した。

北京落城

北京郊外に到着した2万名弱の八カ国連合軍将兵の多くが戦傷者を除いても熱射病などにより衰弱しており北京攻略戦に投入できる兵力は1万強といったところであった。そして、実質的に北京攻略部隊は日本、ロシア、イギリス、アメリカの4カ国部隊になってしまった。日本・イギリス・アメリカ軍は、早速翌13日に北京城に突入する作戦を主張したが、北京占領後自国の権益拡大を画策しているロシア軍は、13日は休息兼準備日として14日に総攻撃を実施すべきを主張し、結局北京城攻撃は14日となった。

北京は周囲34キロメートルを城壁で囲んだ城塞都市で、内城と呼ばれる部分は高さ12メートルの城壁で、外城と呼ばれる部分は高さ9メートルの城壁で守られていた。それらの城壁に設けられた16の城門だけが外部からの進入路であった。そして、その北京城内の一角の東交民巷の一部を防御線で固めて各国公使をはじめとする外交団と警備隊、増強された8カ国海兵隊による守備部隊、外国市民ならびに東交民巷に逃げ込んだ中国人キリスト教徒などが立て篭もっており、北京城に突入して東交民巷を開放するのが連合軍の軍事目的である。日本・ロシア・アメリカ・イギリスの各部隊は、国ごとに突入ポイントを分担して14日を待った。

8月14日午前3時、アメリカ軍の持ち場が最も東交民巷に近かったため、抜け駆けしようとアメリカ軍の突入場所から予定時刻以前にロシア軍が突入して連合軍の北京城攻撃が開始された。しかし、抜け駆けしようと突入したロシア軍は清朝軍の集中砲火を浴び釘付けにされてしまった。そこに、アメリカ軍が予定通り突入し連合軍側と清朝軍側で激戦が開始された。日本軍の正面には敵の主力が陣取っており、側面を攻撃するロシア軍が別の門を攻撃してしまったため、日本軍が主力の防戦を一手に引き受ける形となり苦戦を強いられた。

激戦の末、午前11時3分、外城の城壁上に星条旗が掲げられアメリカ軍・ロシア軍が外城内になだれ込んだ。一方、イギリス軍が担当した城門ではほとんど抵抗がなかったため、イギリス軍は容易に外城内に進攻しアメリカ軍と合流し、14時30分東交民巷の城壁にある水門から東交民巷の籠城地区に突入することに成功した。間もなくアメリカ軍本隊が東交民巷の囲みを打ち破り、引き続き、頑強な清朝軍主力を撃破した日本軍も東交民巷に到達し、外交団・外国市民・守備部隊・中国人キリスト教徒たちによる籠城戦「北京の55日」は終結した。北京城攻略戦での連合軍の戦死者は54名、戦傷者は205名であった。清朝軍・義和団側の戦死者は数百名であったが定かな数は不明である。

参考文献:

  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.
  • Diana Preston. 1999. The Boxer Rebellion. New York: Berkley Books.
  • Peter Fleming. 1959. The Siege at Peking. New York: Harper.
  • Chester M. Biggs, Jr. 2003. The United States Marines in North China, 1894-1942. Jefferson, NC: McFarland & Company, Inc.

〜添付図版等の公開準備中

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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