アメリカ海兵隊の歴史<006>米墨戦争:カリフォルニア戦線と海兵隊

1846年5月〜1947年1月

ナポレオン戦争や1812年戦争でヨーロッパ諸国やアメリカの海軍による地中海交易航路帯の保護が手薄になったのに乗じて、バルバリ海賊が再び活動を始めた。そこでイギリスとの1812年戦争が終結した翌年の1815年5月、バルバリ海賊の主力であったアルジェリア海軍を監視するためにアメリカ海軍艦隊を派遣した。6月には、アメリカ海軍軍艦とアルジェリア海軍軍艦の間で海戦が発生し、乗艦していた海兵隊員たちは伝統的な接近戦での射撃に従事した。この第2次バルバリ戦争はアルジェリア側がアメリカ市民やヨーロッパ人の人質を返還したためすぐに終結した。

その後しばらくの期間アメリカは対外戦争に関与しなかったが、しばしばアメリカの貿易船を襲う海賊討伐や奴隷貿易船の取締に従事していたアメリカ軍艦に乗船していた海兵隊が海戦や上陸して海賊の本拠地を攻撃する活動をした。

  • 1820年 奴隷貿易船取締(西アフリカ沖)
  • 1821年 海賊討伐(キューバ)2回
  • 1822年 海賊討伐(キューバ・カリブ海)4回
  • 1823年 海賊討伐(キューバ・カリブ海)3回
  • 1827年 海賊討伐(地中海・ギリシャ)3回
  • 1830年 奴隷船取締(ハイチ)
  • 1832年 救難船救助(フォークランド諸島)
  • 1832年 海賊討伐(スマトラ島)
  • 1832年 アメリカ留民保護(ブエノス・アイレス)
  • 1835年 アメリカ領事館保護(ペルー)
  • 1838年 海賊討伐(スマトラ島)
  • 1843年 奴隷貿易船取締・海賊討伐(リベリア)
  • 1843年 奴隷貿易船取締・海賊討伐(象牙海岸)
  • (リベリアと象牙海岸での海賊・奴隷貿易船を75名の海兵隊員を指揮して取り締まったのは、その数年後に日本に遠征するマシュー・ペリー代将であった。)
  • 1844年 アメリカ居留民保護(広東)
  • 1845年 奴隷貿易船取締(西アフリカ沖)

上記の海外での作戦行動以外に、1835年から1842年にかけて、フロリダのセミノールと呼称されたインディアン諸部族とアメリカ政府との間に断続的な武力衝突が続き(第二次セミノール戦争)、フロリダの河川や湖沼地でのパトロール任務にボートに乗り込んだ海兵隊員たちが投入され、しばしばセミノールと交戦した。

米墨戦争勃発

1845年になると、1836年にメキシコから独立を宣言していたテキサス共和国をアメリカ合衆国が併合したため、テキサス共和国の独立を認めないメキシコとアメリカの間で領域紛争が勃発した。そしてテキサス国境でメキシコ軍とアメリカ軍による武力衝突が発生したのを契機に、1846年5月13日、アメリカ連邦議会はメキシコに対して宣戦を布告した。一方、これに対してメキシコは5月23日アメリカに対して宣戦を布告した。

19世紀中頃、現在のカリフォルニア州、ネバダ州、アリゾナ州、ユタ州はメキシコ領アルタ(北)・カリフォルニアと呼ばれていた。アメリカ合衆国は不毛の土地であるアルタ・カリフォルニア内陸部にはさしたる関心はなかったが太平洋岸の港を手中にしたかった。しかし、メキシコ領に強力な軍隊を派遣するわけにはいかなかったため、米墨戦争の宣戦布告がなされた当時アルタ・カリフォルニアに存在していたアメリカの軍事力は太平洋沿岸に展開していたジョン・ドレイク・スロート代将が率いるアメリカ海軍太平洋戦隊だけであった。そして、太平洋戦隊の各艦には合わせておよそ400名の海兵隊員が乗艦していた。

カリフォルニア共和国

米墨戦争は4月下旬に軍事衝突が発生して以降実質的に始まってはいたものの辺境の地アルタ・カリフォルニアには正式な通報はもたらされなかった。そのころ、アメリカ陸軍地誌工兵隊(辺境の地を探検し地図を制作する資料を収集する部隊)のジョン・C・フレモント少佐が北部アルタ・カリフォルニアの入植者たちにメキシコからの独立を扇動していた。米墨戦争が開始された噂がカリフォルニア太平洋岸沿岸地方にも広まった6月14日、ソノマ地域のアメリカから入植して来た人々が中心となってメキシコ守備隊司令官を拘束してカリフォルニア共和国の独立を宣言した。60名の兵士を率いたフレモント少佐がソノマに駆けつけメキシコ守備隊を撃退しカリフォルニア共和国の独立を支持した。

一方カリフォルニア沖に展開していたアメリカ海軍太平洋戦隊司令官スロート代将は、カリフォルニア共和国とフレモント少佐の動きを知ると7月7日、アルタ・カリフォルニアのメキシコの主要拠点であったモントレイ沖に軍艦3隻(フリゲートUSSサバンナ1,754t、スループUSS シェーン805t、スループUSSレバント805t)を進めて、海兵隊をモントレイに上陸させた。メキシコ側はなんの抵抗もしなかったためモントレイは無血でアメリカ海軍の手に落ちた。

ひき続いて7月9日、ハワイ方面の遠征から帰還したフリゲートUSSコングレス(1,897t)がサンフランシスコ湾に派遣され、海兵隊がサンフランシスコ(当時はヤーバ・ブエナと呼ばれていた)に上陸すると、メキシコ側官憲は抵抗することなくサンフランシスコをアメリカ海軍に明け渡した。同日、カリフォルニア共和国と同盟していたアメリカ陸軍フレモント少佐がアメリカ合衆国がアルタ・カリフォルニアの領有を望んでいることをカリフォルニア共和国に伝達すると、カリフォルニア共和国はアメリカ合衆国に合流し併合された。ここに、3週間ほど存在したカリフォルニア共和国は自己消滅したが、現在もその国旗はカリフォルニア州旗に引き継がれている。

軍艦の威圧と海兵隊を投入することによって、戦闘をすることなくモントレイとサンフランシスコを手に入れたスロート代将は太平洋戦隊司令官の地位をストックトン代将に譲った。また、モントレイに志願兵を率いて到着したフレモント少佐をカリフォルニア大隊(アメリカ騎馬ライフル隊とも称された)中佐に任命し、フレモントが率いていた地誌調査隊員とカリフォルニア共和国から合流した志願兵によっておよそ400名のアメリカ陸軍部隊が誕生した。

ロサンゼルス占領と失陥

太平洋戦隊は、モントレイから南下してサンタバーバラとサンディエゴ(7月29日)にそれぞれ海兵隊を上陸させ、沖合の軍艦の威圧とともに無血でメキシコ官憲の手からそれらの港を手に入れた。そして8月13日、太平洋戦隊はサンペドロ湾に姿を現すと残るメキシコ側の拠点であるロサンゼルスにも海兵隊50名を上陸させた。アルタ・カリフォルニア・メキシコ軍ホセ・カストロ将軍(軍隊が存在したわけではない)とアルタ・カリフォルニア総督ピオ・ピコはロサンゼルスを明け渡した。ストックトン代将はそれら50名の海兵隊部隊にロサンゼルスの占領を命じ、戦隊はサンペドロ湾を離れた。

わずか50名でアルタ・カリフォルニア最大の街である人口3,000名のロサンゼルスの占領を続けるために、海兵隊指揮官ギレスピー大尉はロサンゼルスの街に防塁を築き戒厳令を発布したためロサンゼルス住民の反発が高まった。その状況からロサンゼルス奪還を決意したカストロ将軍とピコ総督はカウボーイを中心とした民兵部隊(カリフォルニア槍騎兵)を編成した。9月22日、カリフォルニア槍騎兵によるロサンゼルスのアメリカ海兵隊に対する攻撃が開始するとともに海兵隊に対して撤収勧告を突きつけた。戦力はメキシコ側60名、海兵隊50名であったが、ロサンゼルスの一般住民たちはアメリカに対して反感を持っていたため、ギレスピー大尉は海兵隊の撤収を決意しサンペドロ湾の軍艦サバンナに撤退した。

10月8日、ロサンゼルスを再び手に入れるべくサンペドロ湾に戦隊を進めたストックトン代将は、ウィリアム・マービン海軍大佐が指揮する200名の海兵隊をロサンゼルスに送り込んだ。メキシコ側の防御兵力は、50名強のカリフォルニア槍騎兵だけであったが、ロサンゼルスの街の郊外、ドミンゲス農園で両者は衝突した。精強なライフルマンである海兵隊は大砲も装備していたが、巧みに馬を乗りこなし機動力に富むカリフォルニア槍騎兵は少数ながらも善戦しアメリカ侵攻部隊を撃破した。メキシコ側の死傷者はゼロであったが、アメリカ海兵隊は戦死12名、戦傷2名を出しサンペドロ湾に浮かぶ軍艦に撤退した。

サン・パスカルの戦闘

この頃、カリフォルニア方面には海軍太平洋戦隊の海兵隊以外にアメリカの陸上軍事力は存在していなかったため(カリフォルニア大隊が結成された経緯はアメリカ合衆国には伝わってはいない)、メキシコとの陸上戦闘に対処するためアメリカ合衆国からニューメキシコのサンタフェを経てカリフォルニアを目指していたアメリカ陸軍騎兵隊ステファン・W・カーニー准将が率いる精鋭300名の竜騎兵一行が、サンタフェからカリフォルニアに入ったあたりでカリフォルニア大隊司令官フレモント中佐の伝令に遭遇した。その伝令によると、アメリカ海兵隊とカリフォルニア大隊によってサンフランシスコからサンディエゴに至るアルタ・カリフォルニアの主たる街・港はアメリカ側の手に入ったということであったため、カーニー准将は200名の竜騎兵をサンタフェへと帰還させ、自らは竜騎兵100名ほどを率いてサンディエゴを目指した。

カーニー准将の一行がカリフォルニアのコロラド砂漠(現在のカリフォルニア州とアリゾナ州境からカリフォルニア州南部内陸部に広がる砂漠地帯)を横断していると、サンディエゴ守備の任務についていたアメリカ海兵隊ギレスピー大尉と30名の海兵隊員たちが、カーニー准将に続報をもたらした。すなわち、ロサンゼルスはメキシコ側に奪還されてしまい、少数ながらも精強なカリフォルニア槍騎兵部隊がロサンゼルスからサンディエゴ方面に向かっているというものであった。そこで、カーニー准将の竜騎兵とギレスピー大尉の海兵隊部隊は合流して、サンディエゴを目指して南下しているカリフォルニア槍騎兵を阻止すべく北西へと進軍を開始した。

12月6日、アルタ・カリフォルニア総督ピオ・ピコの弟アンドレ・ピコが率いる160名のカリフォルニア槍騎兵とカーニー准将が指揮をとるアメリカ陸軍竜騎兵(100名)とアメリカ海兵隊(30名)、それにサンディエゴからストックトン代将が派遣した海軍榴弾砲部隊を含む水兵ならびにカリフォルニア大隊民兵からなる応援部隊の、合わせて179名のアメリカ軍とが、サンディエゴ北東部のサン・パスカルで激突した。

アメリカ陸軍竜騎兵は騎兵隊とはいってもサンディエゴへの砂漠越えのために騾馬を使用していたうえ、長い行軍で騾馬も将兵も疲労がたまっていた。また、アメリカ海兵隊は歩兵ライフル部隊であり、ストックトン代将が派遣した砲兵隊・水兵・民兵部隊も騎兵隊ではなかった。

一方のカリフォルニア槍騎兵のほうは元気の良い馬のうえ元々がカウボーイであり自由自在に馬を操った。更に、アメリカ軍側は前日の雨のため主たる兵器であるカービン銃や拳銃の火薬が湿ってしまい、サーベルで戦わねばならなくなってしまった。一方メキシコ側は、小火器だけでなく長槍、サーベル、投げ縄を巧みに使ったため優勢に戦いを進めた。

アメリカ軍側はカーニー准将もギレスピー海兵大尉ともに負傷し、多くの将校が突撃の先頭に立ったため戦死してしまった。この日の激戦によってアメリカ側は戦死19名、戦傷15名を数えメキシコ側の戦死は2名、戦傷が12名であった。

翌7日になると、火薬が乾燥しアメリカ軍側の小銃や拳銃それに榴弾砲が有効となったため、カリフォルニア槍騎兵が襲撃する以前に火力によって寄せ付けず、カリフォルニア槍騎兵は追撃を控えた。その後も、カーニー准将が指揮するアメリカ軍部隊は、火力による効果的な防御陣を維持し槍騎兵を寄せ付けなかった。その隙に、サンディエゴ湾のストックトン代将の海軍部隊に竜騎兵伝令を走らせ援軍の要請をすることに成功した。

ストックトン代将は、200名の海兵隊員ならびに水兵からなる援軍をサン・パスカル方面に急行させた。それらの援軍が到着するのを見たカリフォルニア槍騎兵は9日には姿を消した。結局、カーニー准将の竜騎兵、ギレスピー大尉の海兵隊、それにストックトン代将が派遣した海兵隊と水兵からなるアメリカ軍部隊は12日にサンディエゴに到着しストックトン代将の海軍太平洋戦隊と合流した。

サン・パスカルの戦闘は戦闘直後から現在に至るまで、誰が勝者なのか?について議論が続いている。サン・パスカルの戦場を最後まで放棄しなかったのはカーニー准将のアメリカ軍部隊であったため、その意味ではカーニー准将軍の勝利ということができる。しかし、メキシコ軍カリフォルニア槍騎兵が戦場から撤退したのはストックトン代将が派遣した海兵隊と水兵・民兵連合部隊の威圧によってであるから、海軍部隊によって槍騎兵を追い払ったということもできる。そして、戦闘中はカリフォルニア槍騎兵側が圧倒的に優勢であったことや、戦闘による戦死傷者数はアメリカ軍側の方が多かったことを指標にすればメキシコ側の勝利であったということになる。何れにせよ、この戦闘はアメリカ軍にとっては初めて陸軍、海兵隊、海軍、民兵が協働して陸上戦闘を実施した稀有な戦闘経験であった。

カリフォルニア戦線終結

アメリカ海軍ストックトン代将とアメリカ陸軍カーニー准将は、一度は海兵隊によって占領したもののメキシコ側に奪還されてしまったロサンゼルスを、サンディエゴから陸路で侵攻軍を送り込んで再占領することには意見が一致したものの、どちらが侵攻軍の指揮を執るかで対立した。陸上からの侵攻である以上、陸軍将官であるカーニー准将が指揮をとるのが自然ではあったが、侵攻軍の主力は400名の海兵隊そして砲兵部隊を含む水兵、フレモント中佐のカリフォルニア大隊民兵部隊(およそ50名)、それにカーニー准将の竜騎兵(サン・パスカルの戦闘で損害を受けたため兵力は60名ほどになってしまった。また、馬がなかったので歩兵部隊となる)であったため、侵攻部隊将兵の数から言えばストックトン代将が司令官であった。

結局12月29日、ストックトン代将とカーニー准将がともに軍を率いてサンディエゴを進発した。翌1847年1月7日、サン・ガブリエル河畔にて布陣しているメキシコ軍と遭遇し、翌日、サン・ガブリエル川を渡ろうとする兵力560名のアメリカ軍に対しておよそ600名のメキシコ軍が砲撃・射撃を加え戦闘が始まった。(サン・ガブリエルの戦闘)

メキシコ軍の大砲や銃の威力が弱かったうえに弾薬が不足していたため、アメリカ軍に打撃を加えることは出来なかった。そこでメキシコ軍は得意の槍騎兵による突撃を敢行したがアメリカ海兵隊のライフル射撃と海軍砲兵隊の砲撃が威力を発揮してメキシコ軍は撃退された。戦闘中ストックトン代将は砲撃を陣頭で指揮し、カーニー准将は海兵隊部隊と陸軍部隊の指揮を執って戦った。アメリカ側は戦死1,戦傷13名で、メキシコ側の戦死傷者数は詳らかではない。

翌9日、メキシコ軍将軍でアルタ・カリフォルニア総督のホゼ・マリア・フロレスはメキシコ軍を集結させ、ストックトン代将とカーニー准将に率いられてロサンゼルスに向かうアメリカ軍に対して最後の一戦を挑んだ。海兵隊が中心であったアメリカ軍は歩兵部隊でありメキシコ軍は槍騎兵部隊であったものの、海兵隊をはじめとするアメリカ軍のライフル銃の威力には歯がたたず退却した。アメリカ側は戦死1名戦傷5名、メキシコ側は戦死15名戦傷25名を数えた。

ロサンゼルス防衛のメキシコ軍を撃破したアメリカ軍は、翌1月10日、ロサンゼルスを再び占領した。一方メキシコ軍のフロレス総督は、アルタ・カリフォルニア総督の地位をサン・パスカルの戦闘でカーニー軍を悩ませたアンドレ・ピコに譲り、ピコとアメリカ軍側との間で終戦交渉が行われた。1月12日、カリフォルニア大隊司令官のフレモント中佐がアメリカ軍カリフォルニア司令官という肩書きでメキシコ軍カリフォルニア司令官兼アルタ・カリフォルニア総督アンドレ・ピコとの間で、カフエンガ条約を締結して、カリフォルニアにおけるメキシコとアメリカ合衆国の間の戦争状態は終結した。(ただし、この条約は戦争状態を集結させたが、アルタ・カリフォルニアの領有権に変更を加えるものではなく、領有権が確定したのは、米墨戦争全体を集結させた1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約であった。)

参考文献:

  • Mark Crawford et.al. 1999. Encyclopedia of the Mexican War.
  • U.S.Army Center for Military History. Gateway South: The Campaign for Monterey.
  • Spencer C. Tucker. 2012. The Encyclopedia of the Mexican-American War: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO.
  • Paul C. Clark & Edward H. Moseley. “D-Day Veracruz, 1847: A Grand Design” JFQ Winter 1995-96.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

〜添付図版等の公開準備中

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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