アメリカ海兵隊の歴史<002>帆走軍艦時代の海兵隊

現在まで連なる海兵隊の系譜として認められる最も古い海兵隊はスペインの海軍歩兵(Infanteria de Marina)であり、有名なアルマダによる英国侵攻の企ての半世紀以前の1537年に発足した。次に古い海兵隊はポルトガルの海兵隊(Fuzileiros)であり1610〜1621年に公式組織となった。1622年にはフランスで海軍歩兵(Troupes de marine)と呼称される海兵隊が組織化された。ついで1664年に英国海兵隊がヨーロッパで4番目に古い海兵隊として誕生すると、その翌年にはオランダでも海兵隊(Regiment de Marine)が発足した。

1664年に英国海兵隊が発足した当初は「海上歩兵連隊」と呼称されており(正式部隊名はDuke of York and Albany’s Maritime Regiment of Foot)、この戦闘組織がイギリス王室海兵隊(Royal Marines)と呼称されるようになったのは、1755年にHis Majesty’s Marine Forcesと呼称されるようになってからであった。その後も数回正式名称は変更されるているものの、一般的にはRoyal Marine(RM)と呼称されている。ちなみに現在のイギリス海兵隊の正式名称はCorps of Her Majesty’s Royal Marinesである。

海戦に必要だった海兵隊員

イギリス王室海兵隊とオランダ海兵隊が相次いで正規軍として設立されたのは第二次英蘭戦争のためであったが、この戦争に限らず17世紀から19世紀中頃にかけての海軍による戦闘では、海兵隊として正規に組織されていようがいまいが実質的な海兵隊が各種戦闘には必要不可欠であった。

この時代の軍艦には未だ蒸気機関のようなエンジンが搭載されておらず横帆艤装船(square-rigged sailing ship)と呼ばれる木造帆船であったため、海軍史上この時期は帆走軍艦時代(Age of Sail)と呼称される。軍艦と軍艦の戦闘というと大砲や魚雷あるいはミサイルによって敵艦や敵商船を攻撃し撃沈することを目的とするように思いがちであるが、帆走軍艦時代における海戦の目的は敵の艦船の撃沈ではなかった。

軍事技術的な理由として、この時期の軍艦に搭載されていた大砲の破壊力はそれほど強烈なものではなかったため、敵艦を砲撃によって撃沈するということは極めて困難であった。18世紀後半にイギリスでカロネード砲という大砲が発明され、それまでの大砲に比べて格段に破壊力が強化されたが、このカロネード砲を装備した英国艦隊がフランスとスペインの連合艦隊に決定的勝利を収めたトラファルガー海戦でも、英国艦隊によって撃沈された仏西連合艦隊の軍艦は砲撃のみによって撃沈されたわけではなかった。

技術的理由以上に撃沈が目的ではなかった主たる理由は、この当時は海戦に勝利を得て敵艦や敵商船を拿捕すると、勝利艦の艦長以下水夫に至るまで賞金を得ることができたからであった。

英国海軍の場合、軍艦の基本的な装備や維持費は海軍本部(The Admiralty)が支給したが、プラスアルファーの装備や水兵の員数は艦長が自腹をきってでも準備しなければならなかったため、より強力な装備と有能な水兵を用意して戦闘力の高い軍艦を維持するためには、賞金を獲得して経済力を高めることが必要不可欠であった。もちろん経済的に恵まれた出自の艦長の場合はそれほど賞金にこだわることはなかったが、そのような例は稀であった。

もし拿捕した敵船が大型の商船で高価な積み荷でも積載していたならば、商船自体を売却した価格と積み荷を売りさばいた価格は巨額に上るため、賞金額も極めて高額になった。 したがって、敵の艦船を撃沈してしまった場合は、戦闘に勝利し軍歴上は輝かしい記録を残すことができても、経済的に得るところはほとんどないだけではなく、自分の軍艦をより強力に装備し次の戦闘に備えることが難しくなってしまう。このように、海軍のシステムとして賞金の制度が組み込まれていたため、撃沈よりも拿捕が海戦の目的とされたことは必然的であった。

上記ような目的を持った海上戦闘に勝利するための理想的戦術は、以下のような流れをとっていた。まず敵の商船と遭遇した場合、停船の合図を送り大砲で狙いを付けながら接近する。当時の商船は、少数ながらも大砲を装備している場合が少なくなかったためである。商船が抵抗の姿勢を示さずに停船した場合には、至近距離まで接近して軍艦から拿捕要員をボートに載せて商船に派遣し乗り込ませるか、場合によっては軍艦を商船に接舷(船の舷側同士をくっつける)させて拿捕要員が乗り移る。このさい、商船側が反撃しないとも限らないため、軍艦のマストからは海兵隊員が小銃で狙いを定めて警戒に当たる。また拿捕要員には武装した海兵隊員が同行し万一の反撃に備える。拿捕要員に敵商船の船長が降伏することにより、この商船は我が「プライズ」となるのである。もし商船が停止せずに逃走を図ったり抵抗の姿勢を示した場合には軍艦と遭遇した場合の手順を踏むことになった。

敵の軍艦と遭遇した場合には砲撃に有利な位置に自分の艦を移動させる努力をなしつつ、大砲の射程距離に入り次第敵艦に対する砲撃を開始する。ただし各海軍によって海戦の戦術が異なるため砲撃の方法も若干相違した。英国海軍の場合、敵の反撃抵抗能力を削ぐことを主たる目的としたため、できるだけ多く敵の将兵を斃すように甲板あるいは大砲のあるフロアめがけて砲弾を撃ち込んだ。次いでマストやヤードを破壊し敵艦の動きを封じるようにそれらにも大砲の照準を合わせた。自艦が有利な位置を占めつつある場合には、砲撃しながら敵艦に接近して接舷を図った。

軍艦同士が接近した場合には、いずれの海軍でも大砲に加えて主として海兵隊員が小銃により敵の将兵を狙撃した。敵艦と接舷すると、小銃・ピストル・斬り込み刀で武装した海兵隊員と水兵によって敵艦へ強行移乗(ボーディング)して敵と白兵戦を展開した。このような接近戦の最中にも、海兵隊員の狙撃手は自艦のマストから小銃による援護射撃を続けた。敵の艦長が降伏することにより、この敵艦は我が「プライズ」となるのである。

このように、当時の海戦における接近戦ならびに拿捕の段階において、狙撃部隊あるいは斬り込み部隊として海兵隊員は欠かせない存在であった。したがって、17世紀の前期から中頃にかけてスペイン、ポルトガル、フランス、イギリス、オランダというヨーロッパ列強諸国で海兵隊が組織されたのは、様々な操船や大砲の操作といった基本的任務を与えられていた軍艦乗組員が小銃による狙撃や敵艦への斬り込みを兼務するよりは、白兵戦や狙撃の専門部隊である海兵隊を組織して訓練の行き届いた海兵隊員を軍艦に乗り込ませることによって、海戦に勝利を収め制海権を獲得しようとしたからに他ならなかった。このような理由から、海兵隊は19世紀中頃まで続く帆走軍艦時代の海戦に勝利するために必要不可欠な存在として発達をとげた。

軍艦内での憲兵としての海兵隊員

海戦での狙撃・斬り込み部隊としての海兵隊は、戦闘時以外の平時の航海中には軍艦内秩序の維持という憲兵隊的な役割を果たしていた。

軍艦に限らず帆走軍艦時代の航海には極めて大きな危険が伴うとともに過酷な重労働と劣悪な生活環境であったため、軍艦に乗り込む水夫へのなり手はごく少数しかいなかった。そこでイギリスでは、強制徴募といって商船の乗組員はじめ酒場に入り浸っている無宿者や時には牢屋に入っていたならず者などを力ずくで無理やり水夫にしてしまうといった手荒な手法が用いられた。このようにして拉致されて軍艦に乗り込まされた者も、軍艦に連れ込まれた後に志願することによって志願兵として扱われ、場合によっては正規の水兵そして下士官への道も開かれていた。稀に士官になるものすらいた。

いずれにせよ、軍艦に乗り込まされていた水夫の大半は自発的に志願して海軍に入ってきたわけではなかったため、規律が乱れやすく職業軍人たる士官や下士官にたいして反抗したり徒党を組んで反乱を企てたりしかねなかった。そこで、狙撃手ならびに斬り込み部隊員といった戦闘員として軍艦に乗り込んでいる海兵隊員が、不満を持った水夫から艦長はじめ将校の身辺を警護したり、反抗する水夫を取り締まったり、反乱の兆候を監視・摘発したりして軍艦内の秩序を維持するといった軍艦内憲兵隊の役割を果たしていた。

帆走軍艦時代の海軍の役割

いずれのヨーロッパ海軍においても、海兵隊は帆走軍艦時代の海軍には不可欠な要素であったのだが、そもそもこの時代に海軍が存在していた根本的理由は、海上通商活動を維持するためであった。当時の西洋における大国は、陸上交通路による内陸交易だけによる経済活動にくわえて海上交通路による貿易活動を積極的に行っていた。島国であるイギリスに至っては、海上交通路による対外貿易こそが経済的発展の唯一の手段であった。大型帆船の技術革新によって海上交通路の範囲がヨーロッパ沿海から大西洋を横断してヨーロッパとアメリカ大陸を結び、さらにはアフリカ大陸を喜望峰経由で回ってインドや東南アジアまで結ぶに至った。

長大な海上交通路と貿易先を開拓することにより、ヨーロッパ強国の王室と貴族ならびに大商人は巨大な富を手に入れようとした。自国の勢力圏を拡大するためには、競争相手の海上交通路を寸断してしまえばよい。そこでアメリカ大陸から金銀はじめさまざまな商品をヨーロッパへ運搬する競争相手国の船を襲撃して奪い取ってしまうことにより競争相手国の貿易活動を麻痺させてしまうという行為が頻繁に行われた。また、宝の山を満載した商船を純然たる自分の利益のために襲撃して手に入れれば巨額の富を得ることができる。このような行為は海賊であり、自国の利益のために競争相手国の商船を襲ったのが政府“半公認”海賊行為で私掠行為とよばれた。

例えばエリザベス女王(1世)が、後にイギリス海軍提督になる貿易船船長のフランシス・ドレークに私掠免許(Letter of Marque)を与えたのは有名である。このような特許状をあたえられた船ならびに私掠行為を黙認された船を私掠船(privateer)と呼び、純然たる犯罪集団である海賊船とは違い、貿易活動に従事する商船兼私設軍艦であった。私掠行為を黙認したり特許状を与えたりする見返りとして、政府(王室)は私掠によって獲得した財貨から税(上納金)を得たのである。

帆走軍艦時代の海上交通路による貿易は巨額の富をもたらす反面、常に海賊船や私掠船の襲撃に脅かされていたのであった。貿易に従事する商船自体にも大砲を積むといったある程度の武装を施していたが、自国の富を確保するために貿易船を保護することはそれぞれの列強政府の重大な関心事になった。そこで海上航路帯を確保し自国の商船を保護するための軍事力として海軍が組織されたのである。

このように海軍の主たる任務は自国の商船を海賊や私掠船から防衛することであったが、場合によっては競争国の商船の自由な航海を妨害する行為も含まれていた。「万国の公敵」である海賊は別として、貿易競争国の私掠船と海軍軍艦は大差のない存在であり、海軍の「敵」は海賊と貿易競争国の私掠船ならびに軍艦であった。ただし、「敵」とはいっても時代とともに国際公法的なルールが定着するつれ、平時と戦時の区別が生じ、平時において貿易競争国の私掠船や軍艦と出会ったからといって、むやみに交戦することはなくなっていった。

陸上戦闘員としての海兵隊員

ただ単に海上交易路を維持するだけでは、アメリカ大陸やインドそして東南アジアでの貿易活動が成功する訳ではなく、貿易拠点や植民地の確保が必要であったことはいうまでもない。そこで、貿易拠点や植民地を獲得したり、それらを貿易競争国や海賊や盗賊から防衛する必要が生じた。このような陸地の権益を維持するために大きな役割を果たしたのが海軍であった。

イギリスや西欧諸国からアメリカ大陸、インド、東南アジアと行き来する唯一の交通手段は海路であったため、貿易拠点や植民地を獲得するための尖兵役を果たしたのが海軍であった。ということは、既に獲得した貿易拠点を外敵とりわけ競争相手国の侵攻から防衛する最前線の役割も海軍が担ったのである。すなわち、敵が貿易拠点や植民地に侵攻する場合には必ず海から接近してくるため、まず海軍によって敵の軍艦や艦船に積載された陸兵を寄せ付けないことが肝要であった。もし貿易拠点が敵によって奪取されてしまった場合には、逆に我が方の海軍によってその拠点を攻撃して取り戻さなければならなかった。

海軍が貿易拠点を確保する場合には海から陸地に上陸しなければならない。また敵の拠点を奪取したり、あるいは奪取された拠点を奪い返したりする場合には、敵の軍艦との海戦とともに、敵の砲台や港のような軍事拠点を攻撃するために敵地の背面や側面そして場合によっては敵正面に直接上陸する必要があった。そのような戦闘に際して投入されたのが小銃射撃や大砲の取り扱いをはじめとする陸戦の訓練をうけた海兵隊であった。ただし、陸上の敵を撃破するために十分なだけ多数の海兵隊員が軍艦に搭乗しているのは稀であったため、水兵を陸戦にも投入する場合が少なくなかったが、常に海兵隊員は海軍による陸地での戦闘には投入された。つまり、海兵隊は真っ先に敵地に乗り込んで戦闘する先鋒部隊なのであった。

もっとも、貿易拠点を確保するためには必ず戦闘が伴っていた訳ではない。無血の上陸や貿易相手国の確保も少なくなかった。このような場合にも、上陸する外交使節や海軍将校を警護するために真っ先に上陸したのが海兵隊員であった。また、確保した貿易拠点や植民地を防衛するための大規模な陸軍部隊が到着するまで、陸上拠点の警備を行うのも海兵隊の役目であった。

以上述べたように、海兵隊は海上交易と海軍の発達とともに誕生し、海戦における接近戦・軍艦内の秩序維持・上陸戦等の陸上戦・海外拠点での警備防衛といった様々な役割を遂行したのであった。そして、このような帆走軍艦時代も終わりに近づいてきた18世紀末にアメリカ海兵隊は誕生したのである。

参考文献:

  • Andrew Lambert. 2002. War at Sea in the Age of Sail 1650-1850. London: Cassel.
  • Ian Dickie et.al.. 2009. Fighting Techniques of Naval Warfare: 1190 BC – Present: Strategy, Weapons, Commanders, and Ships. New York: St. Martin’s Press.
  • Peter C. Smith & Derek Oakley. 1992. The Royal Marines: A Pictorial History 1664-1987. Tunbridge Wells, Kent: Spellmount Ltd.
  • Marine Corps Association. 2002. USMC: A Complete History. Fairfield CT: Hugh Lauter Levin Associates, Inc.

〜添付図版等の公開準備中〜

本コラムの著者:“征西府”主幹 Centre for Navalist Studies 北村淳 Ph.D.

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