国防DNAの形成〜米国編(2/4)

米海軍戦艦ペンシルヴァニア

§5:第一次世界大戦
このような経緯で19世紀後半からアメリカの国防戦略はイギリス的な海洋防衛戦略原則が根幹をなすようになった。すなわち「外敵はできる限り遠方の海洋上で打ち破り、敵戦力は一歩たりともアメリカ東海岸そしてアメリカ西海岸には上陸させない」ことを国防の大原則に据えた。

もっともイギリスとの1812年戦争終結後、アメリカはヨーロッパ列強に対しては、ヨーロッパ諸国はアメリカ大陸(西半球)に対して軍事外交的に干渉しない代わりにアメリカはヨーロッパ諸国の軍事紛争には一切干渉しない、といういわゆるモンロー主義を宣言していた。この外交原則は、アメリカ大陸内でのヨーロッパ列強との戦争も、アメリカ大陸から海を超えた外地でのヨーロッパ列強との戦争も、想定しないことを前提としており、まさに海洋防衛戦略原則とも整合していたのである。

ただしアメリカは、上記のような国家形成過程(ようするにアメリカ大陸での領土拡大過程)と最終的な国家統一に必要であった南北戦争の時期を通して、すでに強大なアメリカ陸軍が形成されていたため、国防方針の基本は海洋防衛戦略原則ではあったものの、ある程度大規模な陸軍を維持していたのである。

仮想島嶼国として海洋防衛戦略原則に立脚した海洋国家として国益を伸長していく方針を確立したアメリカは、海洋国家の三支柱である海運、海軍、造船のいずれの分野でも当時世界最強の海洋国家であったイギリスに追いつき追い越す努力を開始した。20世紀に入るとアメリカの工業生産力は飛躍的に伸長し、第一次世界大戦が勃発する直前には、アメリカ海軍は保有する艦艇の内容において世界三位の大海軍にまで成長するに至った。

ちなみに、第一次世界大戦勃発時において、世界最大の海軍は各種戦艦71隻、各種巡洋艦139隻を擁していたイギリス海軍であり、イギリスに対抗すべく大海軍建造を推し進めていたドイツ海軍(戦艦40隻、巡洋艦48隻)がイギリス海軍に次いでおり、アメリカ海軍は戦艦33隻、巡洋艦36隻とドイツ海軍に迫りつつあった。(当時の日本海軍は戦艦17隻、巡洋艦23隻を保有していた。)

1914年7月にヨーロッパにおいて第一次世界大戦が勃発すると、モンロー主義を国是にしていたアメリカは、アメリカ本土やアメリカの植民地が直接軍事攻撃を受ける恐れがなかったため中立を保った。ところが、1915年5月イギリスの客船ルシタニア号がドイツ潜水艦の攻撃を受けて沈没すると、アメリカ人乗客も犠牲になってしまったため、反ドイツのアメリカ国内世論が高まった。しかしながら、アメリカ政府は中立を継続した。

その後ドイツは膠着した戦局を一気に好転させるため、イギリスに向かう商船はいかなる国籍の船舶であっても、たとえ中立国船舶であっても、無警告で撃沈する、という無制限潜水艦作戦を実施する決断をなし、国際社会に向けて1917年2月1日から作戦を実施する旨通告した。アメリカにとっては海洋国家の根幹をなす海運がドイツ潜水艦によって打撃を受けることになったため、2月3日、ドイツに対して国交断絶を通告した。実際にドイツ潜水艦によりアメリカ船が撃沈され始めると、1917年4月6日、アメリカ政府はドイツに対して宣戦し第一次世界大戦に参戦することになったのである。

ようするに、海洋国家として国益を伸長する道を選んだアメリカは、それまで最強の海洋国家であったイギリスが生み出した海洋防衛戦略原則を取り入れて自らの国防方針としていたのであるが、その国防原則の支柱の一つである海運が軍事攻撃にさらされる事になったため、それまでの外交原則であったモンロー主義を捨て去って、対ドイツ戦に踏み切ったのだ。

§6:主仮想敵は日本
第一次世界大戦では戦勝国とはいえイギリス海軍は多くの艦艇を失った。戦後も依然として保有艦艇数では世界最大の海軍を維持していたが、大戦中にほとんど軍艦を喪失しなかったアメリカ海軍の戦力はイギリス海軍に迫りつつあった。イギリスはじめ第一次世界大戦の主たる戦場となり疲弊したヨーロッパ諸国とちがい、アメリカは経済的にもイギリスやヨーロッパ諸国より優位に立ち、積極的に海軍力の強化に努力を傾注した。

アメリカは、イギリス海軍を一挙に抜き去り世界最大の海軍の座に躍り出るために、また将来的に中国大陸をはじめとするアジア市場で障害となるであろう新興海軍国である日本の海軍力を抑え込むために、戦勝国であるイギリス、日本、フランス、イタリアに呼びかけて戦艦や航空母艦それに巡洋艦の能力や保有量に関する制限を定めるためのワシントン海軍軍縮会議を開催した。

第一次世界大戦により大打撃を被ったイギリス、フランス、イタリアはもとより、大戦では大きな損害を受けなかった日本においてもに海軍の拡張は大きな経済的負担となっており、経済的に比較的余裕のあったアメリカにおいても軍艦の大幅な建造に対しては国内世論から批判が寄せられていたため、海軍軍縮という方向性は戦勝五大国のいずれにとっても望ましかった。しかしながら、各国とも自国海軍にとって少しでも優位を閉めようとしたため会議は紛糾した。

結局、イギリスや日本が妥協する形で海軍軍縮条約が締結され、アメリカ政府の目論見通り、アメリカにとって最も有利な内容となった。すなわち、イギリスとアメリカの戦艦保有量はそれぞれ52万5千トン、日本は31万5千トン、フランスとイタリアは175350トンと定められ、航空母艦保有量はイギリスとアメリカはそれぞれ13万5千トン、日本は8万5千トン、フランスとイタリアはそれぞれ6万トンと定められた。

この結果、主要軍艦保有量においてイギリスはアメリカと同等となってしまい、新造あるいは建造予定の新鋭戦艦といった内容面からはアメリカの優位が確定した。また日本は戦艦の対米比率70%という希望が実現せず60%に抑え込まれてしまったが、それ以上に打撃であったのがワシントン条約によって日英同盟が終決させられてしまったことであった。

いずれにせよ、ワシントン海軍軍縮会議の最大の勝者はアメリカであり、日本には大いなる不満が残り、最も貧乏くじを引いた形になったのはイギリスであった。そのため、第一次世界大戦そしてワシントン海軍軍縮会議を通して、最大の海洋国家の地位は、イギリスからアメリカに引き継がれたのである。そして、海洋強国であるアメリカにとって最も警戒するべきは、世界第三の海軍力を保有するに至った日本ということになった。

海洋国家として歩みを進めていたアメリカの国防方針はイギリスから受け継いだ「外敵は可能な限り遠方の海洋上でことごとく打ち破り、一歩たりともアメリカ領域の海岸線を踏み越えさせない」という海洋防衛戦略原則に立脚していた。したがって主たる仮想敵である日本がアメリカに侵攻を企てたならばに日本海軍を太平洋上において撃破し、第一次世界大戦で疲弊しているとはいえいずれかのヨーロッパの強国がアメリカを軍事攻撃する場合には大西洋上で撃破し、アメリカ西海岸やアメリカ東海岸には絶対に上陸させてはならない、というのがアメリカ国防の大原則ということになった。

したがってアメリカ海軍はどうしても太平洋側と大西洋側に戦力を分散させて配置しておく必要がある。そのことを見越して日本海軍はワシントン会議でアメリカの七割の戦艦戦力を確保したかったのであるが、アメリカとしても日本の戦力は五割以下に抑え込みたかったのである。結局双方とも妥協する形で六割に落ち着いたのであるが、戦艦保有量でアメリカ海軍の六割を保有する日本海軍に対して備えを固めるには、保有戦力を二分しなければならないアメリカ海軍は太平洋側に少なくとも六割の戦力を配置しておく必要が生じたのである。

日本海軍主要艦戦力
戦艦10、航空母艦9、重巡洋艦21、軽巡洋艦16、駆逐艦91

アメリカ海軍・太平洋側主要艦戦力
太平洋艦隊
戦艦9、航空母艦3、重巡洋艦12、軽巡洋艦9、駆逐艦65
アジア艦隊
重巡洋艦1、軽巡洋艦2、駆逐艦18

アメリカ海軍・大西洋側主要艦戦力
大西洋艦隊
戦艦8、航空母艦4、軽空母1、重巡洋艦5、軽巡洋艦8、駆逐艦100

<第二次世界大戦前のアメリカの制海三域>

§7:第二次世界大戦
1812年戦争でアメリカ国内に侵攻してきたイギリス軍によって首都ワシントンDCが焼却されて以降、米墨戦争においても、米西戦争においても、第一次世界大戦においても、アメリカはアメリカ東海岸やアメリカ西海岸まで外敵が迫りアメリカ領土を攻撃される事態には直面しなかった。しかし、第二次世界大戦においては、準州であったハワイのアメリカ海軍基地が日本海軍の攻撃(真珠湾攻撃)を受け大損害を被った。

同様にアラスカ準州の離島部であったアリューシャン列島のダッチハーバー米海軍基地も日本軍の空襲を受け、アッツ島とキスカ島には日本軍上陸部隊が侵攻して、初めてアメリカの領土が外敵によって占領されてしまった。

一方、アメリカの実質的植民地であったフィリピン(フィリピン・コモンウェルス)には日本軍が上陸侵攻し、フィリピン防衛のためにマッカーサーが率いていたアメリカ陸軍中心の防衛軍は壊滅しフィリピンは日本によって占領された。

このように、本国ではなく準州や準植民地とはいえ、アメリカの統治する領土が日本軍によって占領されてしまった最大の原因は、ハワイ、アリューシャン諸島そしてフィリピンにおいては海洋防衛戦略原則がないがしろにされていたからである。

フィリピンには大規模なアメリカ陸軍部隊(すなわち島嶼守備隊)がフィリピン防衛のために駐屯していたが、強力な大日本帝国海軍に対抗しうる海軍戦力と航空戦力は用意されていなかった。したがって、フィリピン防衛は後方制海域での最終防衛戦どころか、いきなりルソン島での日本上陸侵攻軍との地上戦となってしまったのである。

日本軍に海岸線を難なく踏み越えられたアメリカ軍は、精強な日本侵攻軍に対してアメリカ軍事史上最悪と言われる決定的敗北を喫し、マッカーサー司令官はオーストラリアに逃亡し多くの将兵が日本軍の捕虜となったのであった。まさに「海洋国家の防衛は海洋で決着を付けねばならない」という海洋防衛戦略原則を無視した悲惨な結末であった。

一方ハワイには、ハワイ諸島の島内で戦うための大規模陸軍部隊などは存在しなかったが、ホノルルにアメリカ海軍太平洋艦隊司令部が設置されており大艦隊が存在していた。小さな島に強力な太平洋艦隊が集結していたため、ハワイ周辺海域の防備はある程度は固められていた。そのため、日本軍は米海軍基地に対する攻撃は敢行したものの、ハワイ上陸占領などは当初より意図しなかったのであった。ようするに、フィリピン防衛ほどには「海洋国家防衛原則」を蔑ろにしていなかったため、若干の抑止効果が働いたのである。

    “征西府” 北村淳 Ph.D.

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