
§1:アメリカ海軍の誕生
1775年4月19日イギリスの植民地から独立するためのアメリカ独立戦争が勃発した。しかし、独立派側には海軍はおろか陸軍も存在しておらず、民兵部隊を寄せ集めての戦争開始であった。
組織だった戦闘の必要性を痛感した独立派の大陸会議は、1775年6月14日、大陸軍(Continental Army、大陸陸軍)を発足させジョージ・ワシントンが総司令官に任命された。引き続いて、1775年10月13日、イギリス植民地軍へのイギリス本国からの海上補給を妨害する必要性から、大陸会議は大陸海軍(Continental Navy)の設立を決定した。そして、イギリス海軍をはじめとする当時のヨーロッパ諸海軍では艦内秩序の維持や敵船への移乗攻撃などに必要な海兵隊が併設されていたのに習って、1775年11月10日、大陸会議は大陸海兵隊(Continental Marines)の設置を決定した。現在も、6月14日はアメリカ陸軍の、10月13日はアメリカ海軍の、11月10日はアメリカ海兵隊の、それぞれ誕生日とされている。
独立戦争に勝利を収めアメリカ合衆国が成立すると、人民を抑圧しかねない実力装置である常備軍の存在そのものに警戒感と嫌悪感を有していた誕生間もない民主主義に基づく共和国家アメリカの人々は、独立戦争に従事した軍隊を大幅縮小させてしまった。また、財政難に苦慮していた大陸会議は、全ての軍艦を売却してしまい大陸海軍を解散させてしまった。
このように、1775年に誕生した大陸海軍は一旦は解散させられてしまったものの、1789年にアメリカ合衆国憲法が起草されると、海軍を設置する権限が連邦議会に与えられ、1794年になると、ヨーロッパでの不穏な情勢がアメリカの海上交易に悪影響を及ぼしかねなくなってきたのに鑑みて、議会は6隻のフリゲートを建造することを決した。(これによって建造された6隻のうちの1隻で1797年に進水したフリゲート「コンスティチューション」は、現在もアメリカ海軍の現役軍艦として稼働しており海軍の宣伝活動や教育プログラムに従事している。)
フリゲート保有が決定された1794年3月27日が、現在のアメリカ海軍そのものが誕生した日とされており、やがて1798年4月30日に海軍省が設立されて、名実ともにアメリカ海軍が本格的にスタートした。海軍には欠かせない海兵隊も、海軍とともに一旦解散させられていたが1798年7月11日にアメリカ海兵隊として再発足した。

§2:トリポリ戦争
発足後間もないアメリカ海軍・アメリカ海兵隊(当時の軍艦には通常海兵隊員が乗り込んでいたため、以下、単に海軍と称する)は、1798年から1800年にかけてカリブ海において「疑似戦争」あるいは「海賊戦争」などと呼ばれたフランス私掠船(敵対国の船を襲撃し積荷を略奪したり船そのものを拿捕したりする免許状を国家から与えられた民間船)との断続的な海戦を経験した。
これはフランス革命勢力が、革命資金調達のためにカリブ海で商船に対する海賊行為を働いていたため、アメリカの海上交易を保護するために海軍を派遣しフランス私掠船(フランス海軍の船ではないため、軍艦ではなく私掠船ということになる)としばしば戦闘を交えたのであった。1800年9月30日、ナポレオン・ボナパルトが第一統領を務めるフランス政府との和解が成立し、カリブ海での戦闘は終結した。

しかし、アメリカの海上交易が危険にさらされていたのはカリブ海だけではなかった。地中海でもオスマントルコ帝国の自治州であったバルバリ諸国が海軍を用いて、ジブラルタル海峡を中心とした地中海の海上交易に脅威を与えていた。バルバリ諸国の海軍はバルバリ海賊と呼ばれ恐れられていた。
イギリスやフランスなどの大国は、バルバリ諸国に対して通行料を支払うことによって、バルバリ海賊の襲撃を免れていたが、建国後間もないアメリカ合衆国にとって高額の通行料や海賊に捕らえられた人質の身代金はとても支払えなかった。するとトリポリ諸国の総督から、アメリカに対して延滞金22万5千ドルの支払いを要求してきた。(この他にもアルジェリアで拘束されていた人質解放の身代金は100万ドルであった。)米国大統領ジェファーソンは、トリポリの要求を拒絶すると、1801年5月、トリポリはアメリカに対して宣戦を布告した。
アメリカ政府は、バルバリ海賊をあやつるバルバリ諸国の盟主トリポリを撃破して、アメリカ商船の航行の安全を確保するために地中海に海軍を派遣した。これが第一次バルバリ戦争あるいはトリポリ戦争と呼ばれる、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊にとって初めての海外での戦争ということになったのである。
アメリカ海軍はトリポリ港を襲撃しようとしたが、トリポリ海軍はアメリカ海軍よりも強大であった上に、トリポリ港は強力な沿岸防備で護りが固められていたため、アメリカ海軍は攻撃することができなかった。時折、捨て身の攻撃を仕掛けたものの、トリポ側によって撃退され、硬直状態が1804年末まで続くことになってしまった。
1805年に入ると、トリポリ港を直接攻撃する戦略を修正したアメリカ海軍は、エジプトのアレクサンドリアにアメリカ海兵隊を上陸させ、長駆海岸線をトリポリめがけて進撃してアメリカ海軍との連携作戦によって、トリポリ総督の継承問題で揉めていたトリポリ側を圧倒することに成功した。
1806年6月、アメリカ海軍・海兵隊は優勢ではあったものの、アメリカ政府は戦争を終結させる決定をなし、トリポリ側に対して6万ドルを支払うことで終戦協定が成立しトリポリ戦争は終結した。
アメリカ海軍にとり初の大西洋を越えての初陣であったトリポリ戦争の戦争目的は、ジブラアルタル海峡から地中海にかけてのアメリカ商船の航行の安全を確保してアメリカの国益を確保することにあった。すなわち、海洋国家として強国の座についていたイギリスが海運を保護するために強力な海軍を保持するというパターンを、イギリスから独立したアメリカは期せずして実践したのである。
それまでのアメリカの国防は、国家の領土を大陸西部に向かって押し広げ、獲得した辺境地域での領土を保全することが目的であった。そのため、いまだに国防という観点からはアメリカには海洋国家としての意識は根付いてはいなかった。トリポリ戦争以降も、アメリカ大陸大陸内での領土拡大がアメリカの国防の第一目的であったが、1812年にはイギリスの植民地であったカナダに領土を拡大しようとしたアメリカ合衆国と、旧宗主国イギリスとの間に戦争が勃発するに至った。
§3:1812年戦争(英米戦争)
アメリカ合衆国がイギリスから独立した後も、国境を接する北隣のイギリス領北アメリカ(現在のカナダ)は依然としてイギリスの植民地でありイギリス植民地軍がアメリカに睨みを効かしていた。また、南西隣のスペイン系国家メキシコ(現在のカリフォルニア州をはじめとする西部地域もメキシコ領であった)との間でも国境を巡って領域紛争が続いていた。そのためアメリカは、北のイギリス植民地軍と南西部のメキシコ軍に対抗しなければならなかったために、海軍力ではなく強力な陸軍力を必要としていた。
1812年、国境線北部に領土を拡張しようとしたアメリカ軍とカナダに駐屯していたイギリス植民地軍との間で1812年戦争(米英戦争)が勃発した。イギリスはカナダの植民地軍を増援するために精強な艦隊を派遣しアメリカ東海岸を攻撃してカナダに侵攻しているアメリカ軍の側面と後方を脅かそうとした。アメリカ東海岸沿岸海域での米英海軍間の戦闘では、圧倒的な海軍力を誇ったイギリス側が優勢であり、アメリカに反撃したイギリス植民地軍もアメリカ国内での地上戦いおいてアメリカ軍を圧迫していった。
1814年8月には、イギリス陸海軍によって首都ワシントンDCまで焼かれてしまった。結局アメリカ全土で戦われた1812年戦争は、1815年2月に両軍が講和し終結したが、両軍に利用された形となった先住民たちは壊滅的被害を受け多くの部族が滅亡の危機に瀕した。
§4:米墨戦争
イギリスとの戦争を通して、アメリカ大陸での戦闘においても強力な海軍力が必要不可欠であることを痛感したアメリカは、1812年戦争後、陸軍力と海軍力をともに強化した。やがて1846年には南西部の国境を確定(領土拡大)するためにメキシコとの戦争(米墨戦争)に突入した。この戦争で、海兵隊を積載した艦隊を率いてメキシコ東海岸沿岸域の戦闘において数々の勲功を上げたのがその後日本に遠征してくるペリー准将であった。

2年近くにわたる米墨戦争で勝利を収めたアメリカは、テキサスからカリフォルニアに至る広大な地域を合衆国領土として編入することをメキシコに認めさせた。
1812年戦争ならびに米墨戦争を経て、アメリカ合衆国と北のイギリス領カナダそして南のメキシコとの国境紛争はなくなり、外交関係は安定した。しかしながら、1861年になるとアメリカ自身で南北戦争という深刻な内戦が勃発し、4年間にわたって激戦が繰り広げられ戦死戦傷死戦病死関連死を含めて100万人近くの犠牲者を出すに至った。
このようなアメリカ国内の大混乱に乗じて、カナダのイギリス軍もメキシコ軍もアメリカに侵攻して領土を奪い取る挙にはでなかった。そのため南北戦争後再出発したアメリカ合衆国にとって北部ならびに南西部の陸上国境防衛の必要性は消失したのである。すなわち、アメリカは地形的には四面を海で囲まれているわけではないのであるが、陸上国境からの外敵の軍事侵攻の恐れがほぼ完全に消滅したアメリカにとって、外敵の侵攻に備えねばならないのは海洋(大西洋、メキシコ湾、太平洋)だけということになった。
そのため、アメリカは軍事的に島嶼国と考えることができる仮想島嶼国ということになったのである。したがってアメリカの国防には、大西洋やメキシコ湾あるいは太平洋を越えて侵攻してくる外敵に主眼をおいた海洋国家としての国防戦略が必要ということになった。
