国防DNAの形成〜英国編(2/3)

オランダ軍艦によるメドウェイ襲撃

§4:「国民の海軍」の誕生
イギリスは大陸から海で切り離された島嶼国であるため、海から押し寄せてくる外敵の侵攻に対して、敵侵攻軍が上陸する以前に海上で阻止しようした。ただし、エリザベスⅠ世の時代には国家の海軍というものは存在せず、アルマダを打ち破ったイギリス艦隊は王室の軍艦や私掠船それに貿易船の混成部隊であった。

その後ヨーロッパで繰り広げられていた三十年戦争の余波がイギリス海峡を越えてイギリスに迫ることを防ぐためにチャールズⅠ世は王室海軍の増強に務めた。しかしながら、強大な艦隊を建設するために船舶税を大増税したため国内の反発を招くに至った。その結果、ピューリタン革命が勃発しオリバー・クロムウェルを軍司令官とする議会派がチャールズⅠ世の大艦隊をも掌握してしまった。結局チャールズⅠ世は処刑され、共和制が打ち立てられた。ピューリタン革命の結果、王室の個人的艦隊は共和制政府が管轄することになり国家の常備艦隊としての「国民の海軍」が誕生した。

クロムウェルの没後共和制が破綻して王政復古となったものの、イギリス艦隊の予算や運用の決定権は議会が握ったため、「王室の海軍」は復活せず「国民の海軍」としての位置づけが維持された。ただし、この「国民の海軍」の名称は「Royal Navy of Britannica」とされた。それ以後も、ロイヤル・ネイビーは、オランダ、フランス、スペインなどと数多くの海戦を実施し「敵侵攻軍を一歩たりともグレートブリテン島には上陸させない」という防衛戦略の担い手として活躍した。

§5:デ・ロイテル艦隊の襲撃
「わが領域に危害を加えようとする敵は海洋上において撃退し、わが領域には一歩たりとも侵入させない」という考え方(本コラムでは「海洋国家防衛原則」と呼ぶ)はイギリスの防衛戦略の伝統として深く根を下ろしたのであるが、ただ一度だけ、この国防の鉄則を蔑ろにしたためにイギリス本土が蹂躙される危機に陥ったことがある。

<英蘭戦争当時のイギリス周辺>

1652年から1654年にかけてイギリスとオランダの間で戦われた第一次英蘭戦争で、イギリス艦隊はオランダの艦隊を数度にわたりイギリス海峡や北海で打ち破り勝利を手にした。その後、再び勃発した
第二次英蘭戦争(1665〜1667年)に際しても、当初はイギリス海軍が優勢であった。

しかしながら、イギリス海峡や北海での軍事的優勢を保つための戦費が膨大になってきため、「完膚までにたたきのめしたオランダが再び攻め寄せることはないであろう」との希望を現実と同視してしまい、国防予算を大削減し海軍も縮小し軍艦も商船に作り替えて商業優先の国家運営に転じてしまった。

その結果、1667年になるとイギリス海軍は大きく艦隊戦力を縮小されていた。そのため、イギリス海軍はイギリス伝統の「海上に出動して敵侵攻軍を撃破する」という防衛態勢を維持できない状態に陥っていた。

そこで、強力な艦隊を作り上げてイギリスに対する劣勢の挽回のチャンスを狙って着々と準備を進めていたオランダは、オランダにとっては前方制海域でありイギリスにとっては後方制海域であるイギリス沿岸海域への襲撃を実施することにした。

1667年6月、オランダ海軍はデ・ロイテル提督率いる60隻の軍艦と1,500名の海兵隊員が乗り組んだイギリス襲撃艦隊を派遣してイギリスを急襲した。弱体化していたイギリス海軍は海洋上で撃破され、勇将デ・ロイテル率いる強力なオランダ艦隊は、イギリス沿岸の砲台を破壊しながらテムズ川を遡って進撃し、ロンドンを焼き討ちにした。(メドウェイ襲撃)そのためイギリス全体が震撼するに至った。

僅か1,500名の陸上戦闘員である海兵隊員しか用意していなかったオランダ側にはイギリスを占領するという意図はなかったのであるが、地上での「本土決戦」を想定していなかったイギリスは、オランダに和を請わざるを得なくなったのである。

その結果、イギリスがオランダに対して多額の賠償金を支払うことによってオランダ側は撤収した。
イギリスにとって運が良かったことに、フランスによるオランダ侵攻が始まったため、第二次英蘭戦争は終結したのである。


§6:生かされた教訓
このように、後方制海域まで敵に侵攻されると国防は危機に直面することを再認識したイギリスは、基幹制海域で外敵の軍事的脅威を撃退するための強力な海軍力の再興に邁進した。国家財政を建て直すために伝統的国防方針を捨て去った結果、国家財政どころか国家そのものが危殆に瀕してしまったイギリスは、それ以降、財政の論理により国家防衛の根幹をなす海軍力を削減することには極めて慎重な態度を示すようになった。

ただし海洋国家防衛の鉄則が伝統的気質にすり込まれていたイギリスでは、「後方制海域が打ち破られた際に本土決戦をするために陸軍力を増強しなければならない」というアイデアは生じなかった。あくまでも外敵を海洋で撃退しようとしたのである。すなわち、「外敵はグレートブリテン島に一歩たりとも寄せ付けないよう海洋で撃破する」という防衛思想をますます肝に銘じることとなったのである。

その結果、強大な海軍を建設したイギリスは、海洋国家防衛原則を厳守し、その後再び勃発した第三次英蘭戦争、英仏戦争、ナポレオン戦争、それに第一次世界大戦と断続的に行われた数多くの戦争を戦い抜いたのであった。

§7:制海三域の変化
イギリスはオランダやスペインと競合しながらカリブ海方面(西インド諸島)や北米大陸や南アメリカ大陸、そしてアフリカ全土の沿岸地域へと交易範囲を広げていき食料や燃料の補給拠点を確保するだけでなく植民地を設置するに至った。さらに船舶建造能力や航海技術が進展するに伴い、それらの諸国の海上交易範囲は南アジアから東南アジアそして中国沿岸域や日本にまで到達した。

このようにかつては北海や東大西洋それに地中海の沿岸域に限られていたヨーロッパ諸国の海上交易の範囲が、それらの海域だけでなく大西洋全域、カリブ海、アラビア海、インド洋、ジャワ海、南シナ海、東シナ海などの沿岸域へと拡大されていったのである。

その結果、海上交易を推し進めていたスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスといった海洋国家は交易市場や補給拠点それに植民地などの権益を巡って、西インド諸島、アフリカ、南米大陸、北米大陸、南アジア、東南アジアなどのヨーロッパから遠く離れた地でトラブルを起こすことが多くなり軍事衝突すら珍しくなくなった。

そのため、それらの海洋国家の海軍の任務は、ヨーロッパの本国沿海域の防衛だけでなく、本国と海外交易地を結ぶ海上交通路で自国の船が外国船や海賊船に襲撃されないように睨みを効かしたり、海外に設置した補給拠点や軍事拠点それに植民地などの周辺海域を防衛する、といったように責任海域が格段と広がったのである。

これまではグレートブリテン島にスペインやオランダの侵攻軍を寄せ付けないことがロイヤルネービー(イギリス海軍)の最大の責務であり、そのために経験的に生み出されたのが伝統的な制海三域であった。しかし、海上交易市場の拡大に伴いロイヤルネービーはその作戦範囲を拡大させていった。

<ビクトリア女王時代のイギリス(大英帝国)の領域>(ピンクの地域がイギリス領)

そして、世界中に多数の植民地や前進拠点を確保して勢力が最大となっビクトリア女王時代には、ロイヤルネービーはまさに世界最強の海軍となっていたのである。これにともない主としてグレートブリテン島を防衛するための伝統的な制海三域も下記のように変化したのである。

【大英帝国の制海三域】
(1)前方制海域:海外拠点周辺海域
世界各地に獲得した植民地や保護領それに重要貿易拠点などを防衛するためそれらの海外拠点に近接している海域。必要な場合には、植民地をはじめ海外要地に設置した海軍前進拠点から艦隊を出動させて海上優勢を確保することになる。

(2)基幹制海域:海上航路帯の要所
イギリス本国と海外拠点を結ぶ海上航路帯での自国交易船やイギリス海軍艦艇の自由な航行を維持する必要がある。しかしながら世界中の広大な海洋全域での海上優勢を常に確保することは現実には不可能である。そのため、敵対する相手の海洋戦力の配置状況や海賊の出没状況などに応じて、海洋航路帯の要所を中心に航行の自由を確保する。

(3)後方制海域:沿岸から近海にかけての海域
艦艇や武器の進化により、かつては基幹制海域であったビスケー湾、ケルト海、イギリス海峡、北海、北東大西洋などが、グレートブリテン島周辺沿海域と共に後方制海域となった。

<大英帝国の制海三域>

    “征西府” 北村淳 Ph.D.

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